2023讀樂萌短篇武俠主題聚會感想
好久不見的各位讀者大家好,我是雲山。自從去年不幸確診以來,各種外務纏身,加上最近過年後又感冒,所以一直沒什麼時間跟體力寫點比較長的文章,只能維持每週一篇的心靈毒草荼毒一下大家,加上不用打字只要亂講就好的PODCAST來茁壯各位讀者心中的毒草。
読者の皆様、大変お久しぶりで皆お元気になりますように、私は雲山です。去年残念で確診されてから、色んな外務が身に纏い、更に旧暦年後は又風邪を引き、ちょっと長い文章でもずっと書ける時間が無いので、皆様を少しでも苦しませる、週一回の心霊毒草だけ書けて、更にタイプ入力無しで行けるPODCASTで、読者各位の心の中の毒草をより逞しく成長させよう。
簡單來說這個開場問候就是宣傳沒錯,請大家除了本文之外,也多多支持一下我們每週推出的紓壓系尬聊型POD節目「大黑貓與小山豬與路過的變色龍」。本節目LOGO可是找得獎漫畫家幫忙畫的喔,絕對不是出自AI之手。而且用這個LOGO印製的名片還在上次的FF被火速拿完了,真是感謝大家看在我們LOGO可愛的份上就順手帶走。
簡単に言えば、この開幕挨拶自体は宣伝で、皆様が本文を支持する以外、我々が毎週推して出る減圧系チャット型PODの番組「大黒猫と小山猪とよぎるカメレオン」も、是非支持してください。因みに本番組のロゴは、金賞を得た漫画家より頂いた珍品で、絶対AIから出たモノではありません。しかもこのロゴを使って印刷した名刺は、先回のFF会場にてあっと言う間に配りきれたので、皆様がこのロゴは可愛い分で序に名刺をテイクアウトすることに感謝する。
這就是我們POD節目的LOGO,很可愛吧!
これは我々のPOD番組のロゴで、可愛いでしょう!
那麼介紹與問候與宣傳的部份先暫此結束,接下來是本篇,也就是正文。
それじゃ、紹介と挨拶と宣伝の部分は以上で終わり、次からは本篇、つまり本文です。
讓我來講講昨天(2023/2/25)參加的一場活動吧。
昨日(2023/02/25)に参加したイベントを話しましょう。
那是由讀樂萌舉辦的短篇武俠小說推坑介紹會,也就是一場由愛書人士舉辦的讀書分享會,同時也兼去年舉辦的古龍極短篇武俠小說獎的頒獎典禮。
それは”読楽萌”が開催した”短篇武侠小説一推し紹介会“で、一つ愛書の人々が開催した読書シェア会、同時に去年開催した”古龍極短篇武侠小説賞“の授賞式でもあります。
讀樂萌這個團體滿有意思的,在此出版不振,好書也難得的時代裡,他們還是堅持找出各種主題,去推坑同好或非同好的人各種好書。
”読楽萌”という団体は中々面白くて、この出版も不振で良い本も得られ難い時代の中、彼らは諦めず各種主題を探し出し、同好或いは非同好の人々に、各種の良い本を推薦するよう努めてます。
而古龍極短篇武俠小說獎呢,就是區區不才在下劣者無能雲山我,去年偶然看到他們徵文的消息,就把一篇武俠戲作丟了過去,然後得到了首獎的天機老人獎。
その”古龍極短篇武侠小説賞”は、不肖で能無しの拙者、雲山が、去年偶然に彼らがエッセイ募集のメッセージを見て、一つ武侠の戯れた作品を投げ出し、そして最優秀賞の“天機老人賞”を得ました。
關於這次推坑活動的主題嗎,武俠小說本來就是我的興趣之一,特別是之前我們在POD節目裡聊過「日本的武俠」這個主題後,雖然武俠這個類型已經衰退的很厲害,但武俠的元素與精神其實一直都在我們身邊,就是有待察覺而已。
今回の推薦活動の主題についてですが、武侠小説は元々私の興味を持つ一つジャンルで、特別なのは我々がPOD番組で「日本の武侠」というテーマを話してから、武侠というジャンルは既に凄く衰退したが、武侠の元素と精神は、実は常に我々の周辺に存在してあり、発覚するに欠けるだけなのです。
加上這次我得了首獎,於公於私都是該出席。雖然在活動開始前我得了重感冒,不過幸好在活動當天痊癒到可以移動的程度了。沒有導致頒獎現場開天窗,真是可喜可賀可賀可喜。
更に今回は私が最優秀賞を得たので、公的も私的も出席すべきですね。イベント開始の前には酷い風邪を引いたが、幸いイベント当日には移動可能な程度に治癒された。授賞式が中止までに至らないことになって頂けては、本当にめでたしめでたし。
得獎戲作「大俠」也由讀樂萌這邊公開了,還請有興趣的讀者點按一下移駕旁觀。因為是極短篇的關係,所以看完不用花你五分鐘。不過這五分鐘或許能由這個極短篇為你填充一點電波與笑料。
受賞された戯作「大侠」も”読楽萌”の所より公開され、読みたい読者をクリックしてから御覧願います。極短篇ですので、貴方の5分間以内のご時間を取らせる程度で完読可能です。但しこの5分間には、この極短篇より、少し電波とネタを充填するかもしれません。
下面是本次武俠極短篇得獎作品的講評,同時也有作品連結。有興趣的讀者可以過去一觀。
下のリンクは今回武侠極短篇の受賞作品の講評で、同時にも作品へリンクあり。読みたい読者達に、是非一回御覧に行ってくださいませ。
「2022古龍徵文」結果公告及總評
「2022古龍エッセイ募集」結果公告及び総評
武俠極短篇的獎項大致上就是如此,至於活動主題的「武俠極短篇」書籍分享又是如何呢?
武侠極短篇の賞は以上に略し、イベント主題の「武侠極短篇」に於ける書籍(推し)シェアは又どういうことでしょうか?
相信不管有沒有在讀武俠的人應該都知道,武俠的極短篇,或是短篇,其實都是很少見的。畢竟武俠小說再怎麼衰弱,也曾經是中文領域娛樂出版的最大宗。一個類型一旦發展茁壯,那麼很容易家家十萬字,本本到天邊。就跟七龍珠好幾次看起來都已經結束了卻還能凹回來繼續連載下去,或是海賊王早就該結束了卻一直到現在都還沒結束一樣。雖然正常的長中短篇才比較容易凝練作品的品質與水準,但是對商業來說,長賣不墜的大長篇才是商業上安心安定的好伙伴。
武侠を読んでるか読んでない人々が皆分かると思うが、武侠の極短篇、或いは短篇が、実は中々少ないのです。何せ武侠小説が幾ら衰弱になってきてしまっても、かつて中国語領域娯楽出版の最大ジャンルでしたこと。一つのジャンルが一旦大きく成長してきた場合、”軒々十万字、書々天涯へ“になりがちです。ドラゴンボールは何回もお終いに見えても何回も新連載再開や、ワンピースはもう終わらせるべきなのに今までやってきてずっと終わらないままのようですね。正常的な中編・短篇が、作品の品質と水準を凝集しやすいと言われても、ビジネスにとっては、長く売れる大長編こそ、ビジネス上安定安心なる仲間です。
也因此只要開始賣不動甚至銷量下墜,就很容易大家一起崩盤。
それにもよって、売れなくなり始め、更に販売数量が落ちてくる場合、皆が一緒に容易く崩れます。
武俠小說不幸沒能跟漫畫一樣成功轉型,不斷在同樣的類型中挖掘出新的表現手法,而且獲得商業上的成功,所以衰弱下來了。但即使如此,這個類型依然有人持續在創作著。而且形式其實也不拘於文字。
武侠小説が残念で、漫画のように成功に形を変え、同じジャンルの中でずっと新しい表現手法を掘り出し続け、そしてビジネスの成功に獲得することが出来ずに衰退してきた。但しそれでも、このジャンルは持続的に創作してくる人々がいます。そして形も文字に拘らないのです。
比如說漫畫、特攝、時代劇。
例えば漫画、特撮、時代劇。
看到這種說法相信一定會有武俠死忠派的讀者跳起來罵「鬼扯!武俠就是必須要用文字寫!而且是要用文白夾雜的獨特筆風,去寫那個有著想像中的中原大地異世界的行俠仗義故事!才叫做武俠!」
上述を見て、必ずや武侠忠実派の読者が跳び出し、「嘘だ!武侠は必ず文字で書くべき!しかも文言と普通会話が挟む独特な書き型で、想像の中の中原大地異世界の任侠物語を書くこそ!武侠だ!」と罵るのでしょう。
單以中文的「武俠」來看的話或許真是如此也說不定吧,這部分已經有葉洪生前輩、林保淳教授的論文去做過詳細的推展與論述,就連武俠電影也有各種論文去挖掘其中獨特的武俠風情。但是各位可曾想過「武俠」這個詞並非中文原創?
単なる中国語で表現した「武侠」の見方で見ると、本当にそうであるべきでしょうかもしれないね。この部分には葉洪生先輩、林保淳教授の論文に、詳細的な推進展開と論述を載せてあり、更に武侠映画に対しても、各種の論文でその中の独特な武侠風情を掘り出したのです。但し皆様が、「武侠」という言葉が、実はオリジナル中国語からのものではないことを考えたことがあるのでしょうか?
其實在葉洪生與林保淳的研究裡就有提到過,武俠這個詞彙是來自於日本。而在我們做POD節目的過程裡,去日本國會圖書館查過資料的結果發現,日本在一百多年前,其實很熱衷於創作武俠小說。而且日本的武俠小說,可說是非常的「現代化」。比方說,日本武俠的大前輩,押川春浪大先生寫的一系列武俠小說,「世界武者修行」、「東洋武俠團」、「武俠の日本」、「武俠艦隊」等等故事,就是日本的武勇俠情豪傑人士,在西太平洋地區,或著說大東亞共榮圈預定領域裡,到處行俠仗義,剷除強權與惡黨,伸張日本武俠精神的冒險動作故事。裡面有掛著「今張飛」之類古代中國英雄猛將名號,在世界各地修行走跳的日本武者,也有跟大日本帝國海軍合作,一起到菲律賓打擊神秘惡魔黨軍團的冒險動作劇情,甚至還有開發海底軍艦或空中戰艦,與意圖侵略世界的邪惡博士大戰的內容。
実は葉洪生様と林保淳様の研究の中に言及したが、武侠という言葉の出自は日本です。我々POD番組を作った過程の中、日本国会図書館に資料を調べた結果、日本は百年余り前に、実は武侠小説の創作に熱中した。且つ日本の武侠小説は、非常に「現代化」であります。例えば、日本武侠の大先輩、押川春浪様が書いたシリーズの武侠小説、「世界武者修行」、「東洋武侠団」、「武侠の日本」、「武侠艦隊」等の物語は、日本の武勇任侠の豪傑達が、西太平洋地区、或いは大東亜共栄圏の予定領域の中、あちこち義を持って任侠を行い、強権や悪党を除き、日本の武侠精神を張り伸ばす冒険アクション物語です。中には「今張飛」等の古代中国英雄猛将の渾名を掛け、世界各地に修行する日本武者がいらっしゃいながら、大日本帝国海軍と合作し、フィリッピンへ神秘な悪魔党軍団を打撃する冒険アクションストーリー、更に海底軍艦或いは空中戦艦を開発し、世界を意図的に侵略する邪悪な博士と大いに戦う内容です。
看到這些敘述,相信已經有讀者感覺到「這不就是現代日本特攝片或時代劇的內容嗎?」
これらの叙述を見たら、多分もう一部の読者が、「これはまさに現在日本特撮或いは時代劇の内容ではないか?」と感じるのでしょう。
是的正是如此,日本武俠小說雖然已經不再掛著武俠小說的名號,但武俠小說的內容其實一直被其他的類型繼承了下來。更進一步講,日本武俠在一百多年前就已經打出了一個共通的基本精神,那就是「人權、自由、獨立」,只差一點點就要變成法國的革命精神了。而日本武俠為了捍衛整個大東亞共榮圈的人權、自由與獨立,誓必與所有意圖破壞此間和平的邪惡帝國抗戰到底!比如露西亞!
はいその通り、日本の武侠小説はもう武侠小説の名号を掛けなかったが、武侠小説の内容は、実は他のジャンルより継承されてきたのです。更に一歩進んで話すと、日本の武侠は百年余り前には、既に共通的な基本精神を築き上げ、それは「人権、自由、独立」で、あとほんの少しでフランスの革命精神に変りそうです。そして日本の武侠は全体大東亜共栄圏の人権、自由と独立を守る為、必ずやこの間の和平を意図的に破壊する邪悪帝国全てを最後まで抗戦するに誓う!例えば露西亜!
我沒開玩笑人家真的是這樣寫的。
僕は冗談でなく、彼らは本当にこう書きました。
而且同一時期的日本政治論述裡,也不乏以「俠義之士」或「武俠精神」去形容當時的日本政壇人物。比如原敬首相。至於原敬本人是否符合現代理解的俠義或武俠,就有待相關領域的專家去研究考察。至少當時是有這麼寫過的。日本的武俠在當時充滿了現代性,他們不只是在大日本帝國內行俠,更多的是往海外出發,充滿精神與元氣,將那個武俠理想國的領域放在整個地球的範圍裡。所以日本的武俠現在其實被當成科幻小說,我等的大前輩,押川春浪大先生,他的海底軍艦就被當成日本科幻小說之祖來對待。
且つ同一時期の日本政治論述の中、「義侠の士」或いは「武侠精神」で当時の日本政治界の人物を形容するに乏しくない。例えば原敬前首相です。原敬前首相本人が現代に理解する義侠或いは武侠に符合するや否や、相関的な領域の専門家達に研究考察させるに待ちますが。少なくとも当時はこのように書いたのです。日本の武侠は当時、現代性満々で、彼らは大日本帝国の内に任侠するだけでなく、更に多くは海外へ出発し、精神と元気が満ち溢れ、あの武侠理想国の領域は全地球範囲に置いた。ですので日本の武侠は現在にて、実はSF小説に扱われ、我らの大先輩、押川春浪大先生、彼の“海底軍艦”は日本SF小説の先祖として崇めてあります。
不過海底軍艦其實跟後來的日本武俠故事是有直接關連的!
しかし”海底軍艦”は、実は後の日本武侠物語とは、直接関連があるのです!
此外,押川春浪大先生當年還與一眾好友組成了「天狗俱樂部」這個運動愛好團體。這個團體最愛的就是棒球,他們可以早上打棒球,中午打棒球,傍晚也繼續打棒球。他們平時就是不斷找地方打棒球,曾經說服大公司提供一整片土地讓他們作為棒球場使用,還曾經在當時的報紙上與超有名的新渡戶稻造博士展開一場「野球害毒論」的筆戰。
其の外、押川春浪大先生が当時、友達と「天狗倶楽部」という運動愛好団体を組成した。この団体が一番愛してるのは野球で、彼らは朝も野球、昼も野球、夜も野球をやり続ける。彼らは普段、絶えずに野球が出来る所を探して野球をして、更に一度大手会社に、一塊の土地を野球場として使用されることに説得したことがあり、その時の新聞紙で、超有名な新渡戸稲造博士と「野球害毒論」との筆戦も展開した。
對,就是那個寫下「武士道」一書的新渡戶稻造。
そう、あの「武士道」一書を書いた新渡戸稲造様です。
押川春浪一介小小書生,居然敢跟當代的大博士筆戰,這不是瘋了嗎?
押川春浪という一介小さな書生の分際で、よくも当代の大博士と筆戦するとは、気が狂ったのではないでしょうか?
天狗俱樂部就是這麼瘋的團體,他們為了自己熱愛的運動,可以不惜身命。
天狗倶楽部はそのような狂気な団体です。彼らは自分の熱愛する運動の為、身命も惜しまないのです。
這邊先簡單介紹一下「野球害毒論」是什麼。簡單來說就跟現代的「不要看漫畫,漫畫會讓你考試考差變白痴」「不要打電動,電動會讓你考試考差變白痴」「不要用網路,網路會讓你考試考差變白痴」「不要用AI!AI會搶走我們所有人的工作!」一樣,是傳統的日本體育,也就是劍道柔道這些武術體育,對維新後引進的西式體育,也就是棒球這類「娛樂性運動」的戰文。
ここで簡単に「野球害毒論」を紹介する。簡単に言えば、現代の「漫画を読むな!漫画はお前の試験結果を悪くしてアホになるぞ!」「ビデオゲームをするな!ビデオゲームはお前の試験結果を悪くしてアホになるぞ!」「インターネットを使うな!インターネットはお前の試験結果を悪くしてアホになるぞ!」「AIを使うな!AIが我々の仕事を奪うぞ!」というような話と同じく、伝統的な日本体育、つまり剣道柔道これらの武術体育が、維新後導入した西方式の体育、つまり野球等の「娯楽性運動」に対する挑戦文です。
在我查到的資料裡,新渡戶稻造博士對棒球的害毒是這麼描述的:「棒球上壘方式非偷即盜,有害道德修養。而且棒球多以右手投球,長久以來將導致身體發展不均衡。故棒球並非運動,乃毒害我青少年身心之物。」知道日本棒球運動有多麼興盛的現代人,應該很難想像,日本的棒球運動曾經有過這種時代吧。
僕が調べた資料の中には、新渡戸稲造博士が野球に対する害毒が、下記のように描写した:「野球に塁へ移動する方式はベースを盗もうなど、道徳修養に有害する。それに主に右手で球を投げ、長くすると体の発展が不均一になりがち。故に野球は運動ではなく、我々青少年の身心に害するものなり。」日本の野球運動が如何に盛んになった現代人が、まさか日本の野球運動がこのような時代があったとは、中々想像しづらいでしょう。
而當時跳出來反對野球害毒論的第一人,也是唯一一人,就是押川春浪大先生。
その時跳び出して野球害毒論を反対した第一人、そして唯一の一人は、押川春浪大先生です。
他不止書寫武俠,他也真正地在行俠勇之事。
彼は武侠を書写するだけでなく、彼も真剣に義侠の事を行うのです。
而這場野球害毒論的筆戰,最後以押川春浪大先生的勝利告終。不過押川春浪大先生,也因此被原本寫連載的雜誌社踢了出去,但他並沒有被擊倒,而是自己成立了新的雜誌社,名為「武俠世界」出版社。
そしてこの野球害毒論の筆戦は、最後には押川春浪大先生の勝利で終を告げた。しかし押川春浪大先生も其の為、元に連載していた雑誌社から連載をカットされたが、彼は撃ち倒れなく、自ら新たな雑誌社を設立し、名を「武侠世界」の出版社です。
相信有在讀武俠的讀者,看到「武俠世界」這個詞,應該多少心中都會動一下吧。是的,武俠世界最早不是在香港,而是在日本誕生的啊。
武侠を読んでる読者達が、「武侠世界」という言葉を見たら、心の中に響くのでしょう。そうです、武侠世界は最初香港ではなく、日本で誕生したのですよね。
對於押川春浪大先生的事蹟可以另闢專文來講,這邊就只先對大先生在武俠故事方面的些許事蹟簡單提點一下。但是從押川春浪大先生寫下的日本武俠精神,至今依然在日本的各種作品裡活躍著。即使那個類型已經不叫做武俠。
押川春浪大先生の事績は別途、専門文章すら作って話せますが、こちらにて大先生が武侠物語方面の些細な事績を簡単に述べただけです。但し押川春浪大先生が書いた日本武侠精神は、只今依然に日本の各種作品の中に活躍してあります。例えそのジャンルはもう武侠だと呼びはしませんが。
由此觀之,漫畫中有日本的武俠。比如我今天帶去跟大家分享的兩本書之一的「修羅之刻」,就是一本武俠短篇故事無誤。而且他還是同時合於日文與中文世界的武俠特徵的。修羅之刻是修羅之門的外傳。不像本傳的「門」那樣著重於格鬥武打,而是在歷史的空白處,塞入那經過千年基因改造,以及提早吸收未來的現代格鬥技的千年不敗日本古武術「陸奧圓明流」的當代傳人,如何跟當時的強大武者一對一,展現陸奧精神,或是陸奧家訓的武俠故事。
この点から見ると、漫画の中には日本の武侠有り。例えば僕が今日持ち出して皆様に押し薦めた2本書籍の中の「修羅の刻」は、一つ武侠短篇物語で間違いなし。しかもそれは同時に日本語と中国語世界の武侠特徴に合うのです。修羅の刻は修羅の門の外伝です。本伝の「門」のように格闘武闘だけ重んじることなく、返って歴史の空白の所に、あの千年を経た遺伝子改造、及び未来の現代格闘技を前倒して吸収した千年不敗の日本古武術「陸奥圓明流」の当代伝人が、如何に当時の強大な武者と一対一で、陸奥の精神或いは陸奥の家訓をアピールする武侠物語です。
比如最受好評的第四集吧。本集的主角是陸奧雷,時代是幕末,或著說1886年左右。雷的故事不是發生在日本,而是發生在西部開拓時期的美國。他在船上睡著,不小心就從日本漂流到了美國,然後就隻身一人在美國的大地上到處遊蕩,直到被當地的印地安人救起,給了他一條肉乾與一壺水。之後雷就為這一飯之恩,犧牲自己擋住了白人部隊的攻擊,讓印地安部落可以繼續往後撤退。
例として一番好評な第四巻を話そう。この一巻の主役は陸奥雷で、時代は幕末、或いは1886年頃。雷の物語は日本に発生したのではなく、西部を開拓する時期のアメリカです。彼は船上に寝込み、うっとり日本からアメリカへ漂流してしまい、一人でアメリカの大地にあちこち徘徊し、ご当地のインディアンズに救われ、彼に干し肉一本と水一壺をあげた。その後雷はこの一飯のご恩を返す為、自ら犠牲して白人部隊の攻撃を食い止め、インディアンズ部落を継続に後ろに撤退することに成功した。
陸奧雷的故事其實是修羅之刻的一個異端,因為陸奧家的人基本上都是笨蛋,而且是自私的笨蛋。他們可以為了追求與當代最強者的生死對決,不惜犧牲一切人類不該犧牲的東西。所以陸奧家的傳人都是惡鬼。
陸奥雷の物語は、実は修羅の刻の一つ異端で、何故なら陸奥家の人は基本的にはバカで、しかもセルフィッシュなバカです。彼らは当代最強社との生死対決を追求する為、全て人として犠牲してはならないモノを犠牲するに厭わない。よって陸奥家の子孫は皆悪鬼です。
但雷無法成為鬼,即使他體內流著千年基因改造強化的陸奧之血,他卻從生到死都作為一個人而活著。他不為自己使用陸奧家的武術,而是為了他人,特別是對自己有恩的他人。
但し雷は鬼にはなれない、例え彼の体内が千年遺伝子で改造強化した陸奥の血を流れてあっても、彼は生から死まで一人の人として生きていた。彼は自分の為に陸奥家の武術を使うことなく、他人の為に使うこと、特に自分に対して恩を着せる他人です。
所以陸奧雷不是惡鬼,而是武俠。
而且陸奧雷也具備武俠的設定特徵:
孤身一人四處遊蕩。
身懷絕技。
腰間有著削鐵如泥的寶刀。
ですから陸奥雷は悪鬼ではなく、武侠です。
更に陸奥雷も武侠の設定特徴を備えてあり:
孤独な一人であちこち徘徊する。
身には絶技を持つ。
腰に泥の如く鉄を削る宝刀有り。
像這種在漫畫裡找到武俠作品的案例其實還有很多。比方說在台灣紅到連作者都訝異,甚至因此推出第二部的「中華一番」,就是一種料理武俠作品。又比方說城市獵人,那也是一個現代武俠作品。只要把中文世界的武俠特徵,拿去對在日本的各種作品裡,相信大家都能很快的發現,武俠就算不以類型為名,他其實依舊存在於我們喜愛的其他作品裡。武俠的存續或許不該單以類型為主,而是該思考那精神的生命位於何處。
このように漫画の中で武侠作品を見つけた例は実に未だ沢山ある。例えば台湾で作者本人すらその超人気に驚異し、其の為第二部を推した「中華一番」も、一種の料理武侠作品です。またシティーハンターも、現代的な武侠作品です。中国語世界の武侠特徴を、日本の各種作品に対比すると、武侠はたとえそのジャンルの名を上げなくとも、実は我々が愛する他の作品に存在することを、皆様が直ぐ発見することを信じます。武侠の存続はもしかしたら単に類型を以って名を付けるのでなく、その精神の生命が何処に位置することを思考すべきですね。
當然本次活動我也是有帶比較正規的武俠短篇作品出席,那是我小時候讀過的一本兒少武俠作品「吃爺」。比起修羅之刻那感動人心的武俠故事,吃爺的故事就偏向怪人奇人設定集。比如標題的吃爺,就是一個什麼都能分一半、吃下去的武林怪老子,只要聽到「吃」這個關鍵字,就會觸發吃爺的固有能力,突然跑過來分一半、吃下去。而且食物吃,毒物也吃,到故事最後,甚至連敵人殺過來的「吃我一刀!」「吃我一劍!」吃爺也照樣能分開來吃。吃爺這本兒少武俠跟現代的兒少武俠有一個基本的差異,就是他維持著一種歡快的基調。現代我看過的兒少武俠,雖然書中的故事與筆法刻意維持著輕巧,但最後的結局總是有點淡淡的哀傷。或許是中文的世界裡,武俠的沒落本身也成為了現代性描寫的一部份吧。但是閱讀至少有一半的目的是娛樂,如果失去了娛樂的這一半,我為何要讀武俠故事這個以娛樂為前提誕生的類型或內容呢?
勿論、今回のイベント向け、僕もちゃんとした武侠短篇作品を持って出席した、それは僕が小さい頃読んだ一冊の児童少年向け武侠作品「吃爺」。修羅の刻のような人の心を感動する武侠物語と比べ、吃爺の物語は怪人奇人設定集に偏る。例えば表題の“吃爺”は、何でも半分を分けて食べられる武林の変なお爺様で、「吃」というキーワードを聞くと、吃爺の固有能力を触発し、行き成り出てきて半分分けて、食べる。更に食べ物も食べて、毒物も食べる。物語の最後に、更に敵が攻撃の時に、「この一刀でも喰らえ!」「俺の一剣を喰らえ!」との話が出たら、吃爺も普段と同じく分けて食べられる。吃爺という児童少年向けの武侠は、現代の児童少年武侠と、一つ基本的な差異があり、それは彼が歓喜軽快的なペースを維持する。現代僕が見た児童少年向けの武侠は、本の中の物語と描写方式はわざと軽快的に維持しますが、最後の結局はどうも淡々の哀しみを感じる。多分中国語の世界にも、武侠の没落自身も現代性描写の一部になってしまったのでしょう。但し読むこと自身は半分の目的が娯楽であり、若し娯楽の半分が無くなってしまったら、じゃあ何で僕が武侠物語という、娯楽を前提で誕生したジャンル或いは内容でしょうか?
所以我不管寫什麼,我總是要維持著娛樂的那一半的。不然我推薦大家去讀史賓諾沙或蒼穹神劍不就可以大家一起痛苦了嗎?
ですので僕は何を書こうとしても、僕は何時もその娯楽の半分を維持するのです。そうもしなければ、僕が皆様に“スピノザ”或いは“蒼穹神剣”等を推し薦めれば、皆様が一緒に痛みを感じるのでしょう?
講到這裡差不多快要四千字,也是時候做個簡單的總結。
ここまで話してくるとそろそろ四千字に達し、簡単な総結論で纏めましょう。
中文的武俠死了嗎?並沒有,他就是奄奄一息地存在著,甚至不能算是活著。當年武俠的誕生,是從日本借來一個很厲害的詞彙,然後在中文的創作脈絡裡配合著當時的時勢與脈絡,發展出連日本都有人跑來研究的獨特世界觀。然而這個世界從對世界的想望而起,自然也會跟著對世界的失望而衰弱。要我說為何武俠會衰弱至此,我想或許可以說是「因為失去夢想了」。
中国語世界の武侠は死んだのか?否、彼は未だ一息が有りで存在してるか、生きているすら言えまい。当年武侠の誕生は、日本から凄い言葉を借りてきて、中国語の創作脈絡の中、当時の時勢と脈絡を配合し、日本から人々が研究してきた独特な世界観まで発展してきた。然しこの武侠の世界の始まりは世界へ対する思いからですので、自然的に世界へ対する失望に衰弱してゆく。何故武侠はそこまで衰弱してきたと強いて言えば、多分「夢想が失われた為」とは言えるのでしょう。
如果講到武俠,就一定要在想像中的中原大地,靠著內力兵器與奇門藥物催股等級,加入各種虛構黑幫的冷兵器火拼,那麼現代的娛樂作品早就有更多更有夢想的東西可以滿足需求。
若し武侠を言う度、必ずや想像的な中原大地で、内力兵器と奇門薬物に頼ってレベルアップし、各種虚構的な闇組織の冷兵器争闘を加入すべきであれば、現代の娯楽作品の中には既に需要を満足する、より多くてより夢一杯のモノが有ったのです。
就連基諾李維的狗狗殺神John Wick也充滿了武俠故事的夢想在其中啊!
所以或許不是武俠失去了生命,而是大家失去了夢想。
キアヌ・リーヴスの犬殺神John Wickにすら、武侠物語の夢が中に有るよ!なので武侠が生命を無くしたのではなく、皆様が夢を失われたのかもしれません。
因此我們或許可以這麼想:
在某個世界的武俠,他們穿著色彩鮮明又有特徵的服裝,與神秘的奇形怪物對抗,而且還會在關鍵時刻開著超未來科技的巨大載具或強化裝備,以奇想天外的華麗招式將敵人擊垮,證明了他們的武俠精神確實可以讓世界變得更好。
敏銳的讀者如你,相信這時應該已經想起無數的其他作品了吧?
沒錯!我剛才講的這不就是––––!
我是雲山,感謝大家讀完這四千多字,讓我們在未來的廢文裡繼續相會。
よって我々はこう考えても良いかも:
とある世界の武侠ですが、彼らは色鮮やかで特徴を持つ服装を着て、神秘な奇形怪物と対抗し、重要な時に超未来科技の巨大な乗り物或いは強化装備に乗り・装着し、奇想天外で華麗な技で敵をぶっ倒し、彼らの武侠精神が確実に世界をよりよくすることを証明した。鋭い読者の貴方も、多分この時にはもう他の無数な作品を思い出したのでしょう?
そう!僕が言ったのは________です!
僕は雲山です。以上四千余りの文字をご完読に感謝いたす。未来の駄文にまたお会いしましょう!
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