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Zeiss Ikon -平和産業への転換- (うにょーんの散文シリーズ)

 突然だが、君はドイツ帝国側の塹壕に居る。
 フランス人が撃ち込んでくる榴弾と鉛玉の最中でそわそわしていると思うが、どうか落ち着いて辺りを見回して欲しい。
 するとどうだろう、鼓膜が破れそうなぐらいの声で「逃げるな」と叫んでいる上官の首にはGoerz社の双眼鏡が掛かっている。誤射でもされたのだろうか、「フロッグと英雄の見分けもつかんのか」と怒鳴る斥候が持っているのはCarl Zeiss社の双眼鏡だし、そのすぐ隣で状況を報告している兵士が覗いているのはVoigtlander社製のカニ眼鏡だ。
 より広く戦場を見てみよう。前線から数キロ離れた重砲陣地の指揮官はHensoldt社の高倍率双眼鏡を首から下げている。より後方の航空基地では警報を受けてEmil Busch社の管状光学照準器を装備したアルバトロスD.V戦闘機が離陸したところで、滑走路脇に駐機しているGoerz社製の爆撃照準器を搭載したゴーダ爆撃機は爆装作業をしているのだろうか、兵士が世話しなく動いている。
 この様な光学兵器の活用はフランデレン、ヴェルダン、ソンムに代表される欧州の各地で行われている。第一次世界大戦という未曽有の大規模戦闘を遂行するドイツ帝国軍約1300万の将兵にとって、光学兵器は欠かすことの出来ない道具だ。

 まぁつまるところ、これだけ多岐にわたり、かつ大量の光学機器の需要があった訳だが、これが1918年11月11日を境にピタリとなくなってしまったのである。ヴァイマル共和政の軍隊は(表向きには)軍拡する事など出来ないし、かといって国内外は長い大戦で疲弊し切っていて軍縮ムード。とても光学兵器などは売れそうにもない。
 尤も、光学兵器は機密の塊。とてもいけ好かない戦勝国連中仮想敵国には売れない代物である。

 結果として、第一次世界大戦の敗戦はドイツ光学業界に急速な平和産業への転換を強制した。特に軍需産業に傾倒していた(何なら軍部と癒着してた)Goerz社の平和産業への転換は急務であったし、ほかの光学会社も10~40%の売り上げを軍需が占めていたのだから、遅かれ早かれ平和産業へ転換しなくてはならない。
 しかしながら、光学会社が平和産業に転換するといったら作るものは大概決まっている。カメラレンズと双眼鏡だ。しかしまぁ、各社ばらばらにカメラレンズと双眼鏡を作り続けるのであれば、いつまでたっても先行きの見えないヴァイマル共和政とは対照的にドイツ光学業界の未来は見え透いている。大戦で購買力の低下した世界にどうしようもなく高価な光学機器市場を提供し、仲良くレッドオーシャンで溺死するだけである。

 この状況でドイツ光学業界は合併、統合、買収を繰り返し技術力の強化とブランドの統合でもって窮地を脱すよう図る。Contessa社とNettel社は1919年に統合しContessa Nettel社になり、1920年にはIka社と資金調達の利便と企業間の結束を図る利益共同体を結び、全世界的な不景気という状況での平和産業への転換を模索し始める。ルール占領に急激インフレ(1923年)と不況に喘ぐ情勢が続く情勢下においてこの利益共同体に価値を見出したErnemann社、もう自力では経営が立ち行かなくなったGoerz社が1925年に参加し、ドイツ光学業界の大手4社がかかわる大規模カルテルを形成するに至った。

 しかしながらこの光学カルテルはあまりうまく機能しなかった。何度か企業間で業種の棲み分けやブランド統合を検討したものの、大企業同士の連合故話が縺れ、結局のところそれぞれが別々にカメラと双眼鏡を展開していたのである。カメラだけでもこの4社だけで100種類以上の商品をラインナップしていた。同じカルテル同士で製品がカニバっているので思う様に売れ行きが上がらず、経営は思う様にいかなくなっていった。
 しかも矢鱈と品目が多いから輸出も上手くいかない。というのも第一次世界大戦で欧州の大国は国土が焼けてカメラどころではない。そのためカメラ輸出は戦勝国かつ一度も本土爆撃を受けていないアメリカやその周辺国に集中する訳であるが、カルテル同士でカニバってる商品それぞれに関税が付くので思った様には売れないし利率も低い。
 それにドイツ語に馴染みのないアメリカ国民にとって長ったらしく発音し難いドイツ語のブランドや商標はただでさえ覚えにくい代物である。そんなカメラが100種類以上もあるのだから、名前が定着しないのである。

 この行き詰った状況を打開すべく動いたのがCarl Zeiss財団である。ドイツ光学界のみならず、精密機械、化学分野においても成功を収めていたCarl Zeiss財団は(この時代のドイツにしては)多少の余裕があった。
 ただ、言ってしまえばCarl Zeiss財団自体は傘下企業のCarl Zeissだけでも光学業界でかなりの技術力と影響力を持っていたし、今更になってほかの光学会社をまとめ上げる意味は薄い。なんせ平時ならともかく、ベルサイユ条約による歴史的な不景気である。この時期の投資はかなりのリスクを伴った筈だ。
 この状況下であってもZeiss Ikonを発足させたのはCarl Zeiss財団の勢力拡大もさることながら、経済的に疲弊したドイツ光学企業を海外資本から守る意味合いが強い様に思われる。技術流出は将来的にドイツ光学業界を苦しめる(実際苦しめた)ものであるし、ドイツの光学界における覇権を固持するには光学会社を国内資本に引き留め続けることは必須である。
 Carl Zeiss財団も資産関連にはかなり慎重であったようであるが、かなり慎重な資産評価と多額の資産償却を行いつつも、1926年にはなんとかこの大規模光学カルテルを一つの会社に纏め上げた。これがZeiss Ikonである。Zeissの名は資本元のCarl Zeiss財団から、Ikonはドイツ語で「図像」、つまりは写真をイメージさせる言葉として使われている。
 ただし、Ikonの文字があるとはいえ完全にカメラ専業メーカーだったという訳ではなく、カメラ、投影機、フィルム等の消耗品から計算機、ライト、楽器、カー用品等儲かりそうなものには積極的に手を出していた様である。

 このZeiss Ikonの誕生によりCarl Zeiss財団は大手光学企業のCarl Zeiss、100種類以上のカメラを生産するZeiss Ikon、世界的光学硝材会社Schottを傘下にし、その他資本関係のある企業と共に世界最大の光学産業グループ「Carl Zeissグループ」を形成するに至った。

 かなり慎重に行われたZeiss Ikonの発足であるが、出足は順調で1927年にはカルテル時代の煩雑なカメララインナップを整理すると共に大規模工場毎に生産品目を整理することで生産効率化を達成。1929年初頭には時価総額は5000万RMライヒスマルクを超えていた。これは筆頭株主たるCarl Zeiss社の時価総額の2倍である。

 が、1929年10月24日暗黒の木曜日を境にして世界経済は再び混乱に陥る。アメリカの株価暴落は世界中に恐慌状態を齎し、贅沢品たる光学機器の売れ行きは再び低迷を迎えるのである。
 この世界恐慌こそがドイツにヒトラー政権を齎し、そしてZeiss Ikonに高価格戦略を選択させるのであるが、この選択はZeiss Ikon社の命運を決定付けるものであった。火の粉散る1930年代ライカ・コンタックス戦争の勝敗は、既にこの時には決まっていたのである。


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