
大先生、飛ぶ。
昨日は競書の提出日だった。
稽古場に書いた作品を持っていき、師匠と大先生に見てもらうのである。
半切の大きな作品を5枚並べる。
師匠と大先生の鋭い視線が走るのを見ていると、ドキドキしてくる。
「こっちかい?」
「いや、これは誤字に見られる可能性があるやろ…。」
2人の査定が入るのを横でジッと待つ。
「これでいくか‼︎」
提出するにあたって、一番相応しいものを選んでいただきひと安心。
ほっとひと息ついた私の前に、大先生が近づいてくる。
「あんたの字はな、勢いがあるのはええ。ただな、あんたの字は飛んどるんや!」
そう言うやいなや、大先生は目の前で突然ジャンプした。
90歳を過ぎた大先生がいきなり飛んだのだから衝撃である。
「筆が飛んどるんや。もう少しじっくりつま先から踵を上げて、ゆっくり踵を戻すように着地しなさい。」
今度はご自身の足を使ってゆっくりつま先立ちし、またゆっくりとした動作で踵を下ろして安定の着地をして見せてくださったのである。
このように様々な例えを上げて、しかも体を使っての生きた指導は、いつも驚きと衝撃を持って私をワクワクさせる。
大先生の書は小さいのであるが、美しく完成された書なのである。
引き算の美学というのだろうか?
等身大の型が出来上がっている書は、見るだけでゆったりした気持ちにさせてくれる。
小さく書かれているのに、私の書いた大きな字よりもずっと大きく目に映る不思議な感覚は、ちょっと言葉では言い尽くせないが、本当に素晴らしいのだ。
大先生の書は完成しているから作品では群を抜いているが、競書となると、私たちが似たように書いても目に止まりにくいと師匠が言っておられたが、その通りなのだろうと思う。
先日の稽古中に「手本どおりではあかんのや!」と言われていた点を自分なりに改善し、苦しみながらも「自分にしか書けないもの」を差し出すと、ダメな所を指摘する意見はやはり鋭いながらも、叱られることはなかった。
ダメでもそれが今の私のベストだと思うものを書くこと。人真似ではない私だけの書を見つけだす努力を怠らずに稽古していくことでしか見つけられないものがきっとある。
そのことを誰よりも知っておられるのが大先生や師匠なのだろう。
私よりも50年以上もの時を多く生きてこられた大先生。
出兵の赤紙が届き、いよいよ戦争へ行くことが決まった日は8月15日だったそうだ。
国民に重要な知らせがあるという知らせを受け、何事かと思いながらラジオに耳を澄ませると、日本が負けたという知らせだったという。
もしも、大先生が終戦前に戦地に出向いていたら、私は大先生の書を見ることはなかったかもしれない。
大先生も、今こうして孫かひ孫のような私に、ジャンプして書の指導をすることもなかったのかもしれない。
出会いには必ず何か意味がある。
会うべき人に出会うために生まれ、生かされ、そして人生のどこかでばったりと巡り会う機会がやってくるのだと私は信じている。
それにしても。
私の字は飛びすぎているのだろうか。
今の私は飛び上がりたい気持ちなのだろうから、書は嘘をつけないのだろう。
それはそれとして。
飛び上がる気持ちを抑制する意識は忘れず、私は私だけの書を作っていきたい。
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