後半 NO!NO!マジョリティ!

前半 GO!GO!キャパシティ!

今まで自分の為だけに生きてきた。なのに、どうしてこんなにも生きづらいのか。誰かの為に生きられる人は尊敬するけど、まずは自分の人生どうにかしなきゃ。

そんな私が自分と向き合うために自分を観察してみた、の後半。


ようやく自分らしさを見つけたと思っていた

幼き頃から暴虐の魔王だった私は、家族(主に姉)に対してもその攻撃性をぶつけていた。

今だからわかるのだが、二番目の姉も発達障害のアスペルガー(正式な診断を受けていないので推定だが)だったので、親から常日頃、鈍間や愚図と蔑まれ、更にいい加減な親の代わりに家事や妹の面倒や介護を押し付けられるなど、35年以上も散々酷い仕打ちを受けていた。

年の離れた妹の私は、そんな事を知りもしないで、親と同じように姉のことを愚図で鈍感な人だと思い、見下していた。

長女は親譲りのいい加減さで、とっとと家を出て自分の好きなことをし、突然結婚したが跡を継ぐこともなくどこかで好き勝手に生きている。今では親戚の法事で1年に一度会うか会わないかだ。

私も高校時代に知り合った遠距離恋愛の恋人の影響で、卒業後に上京することを決めた。

まさに人生の転機だった。

高校卒業後、私は自分の人生が変わっていくのを目の当たりにした。まさか上京することになるとは、夢にも思ってなかったからだ。

暗キャで何の才能も持たない自分が、夢に向かって都会で一人暮らししていこうだなんて、まるで夢の世界の出来事に思えた。

それまでの私は周りからは変わり者と評され、陰気で自分に自信もなく、主体性にかけるような人間だったので、人気者には程遠い存在だった。そんな自分が東京のような華やかな世界に行こうとするなんて、それまでの人生で想像もしていなかった。ある意味持ち前の多動性と衝動性のおかげと言っても過言ではない。

東京の暮らしは決して楽ではなかったが、とにかく楽しかった。今まで夢にも思わなかった煌びやかな風景、お洒落な街並みや人々、エンタメも豊富で飽きることがなかった。

専門学校には2年通ったが、その後も数年間東京にいた。その間たくさんのバイトを掛け持ちし、色々な人と出会った。今思えば良い出会いもあったし、出会わなければ良かったという出会いもあった。

気がつけば私の性格は、それまでの陰気で受け身な性格から陽気で誰とでもすぐ仲良くなれるような、積極的で穏やかな人物であるという印象を抱かれるように変わっていた。性格すらも、周りの環境に左右される人間だったのだ。

周りに夢に向かって頑張っている人が多かったので、いつも刺激をもらっていた。他人に優しくされれば、私も人に優しくしたいと思って行動していたし、いいなと思える人の言動を習って同じような思考に変わっていったのだと思う。この頃の自分は自分に自信もあり、何事も頑張れてたし、心の余裕もあったし、一番好きな自分だった。

しかし、私はどうやら幻想を観ていたのだ。刺激的な日々、楽しい生活の反面、実態は卒業後も毎日バイトに明け暮れて生活するので精一杯。結果的に夢を追いかけるどころか、都会の遊びに明け暮れて、本気で夢に向かわない日々が続いていた。細々とした活動をしながらヤバイと思った時には、経済的にもカツカツでクレジットカードで自転車操業。生活のために色々とヤバイ仕事にも手を出した。都会の魔物に取り憑かれていたのだ。心は次第に病んでいった。

私は何処かでその悲愴感すらも楽しんでいた。心の底では刺激を求めていたからだ。もっと壊れてしまえばいいと思っていた。

数年後、生活が困窮したので地元に戻って就職した。アパレル系の企業で、接客は色々と経験していたので向いていたし、楽しかった。

だが、親元に戻った瞬間、私は自分の性格が変わっていくのがわかった。昔の根暗で卑屈で攻撃的な自分に戻ってしまったのだ。

理由は親だった。働きに出ているときは良いのだが、家に帰れば"お前なんていらない存在だ"の"戻って来なければよかった"だの(戻って来いといったのは親)、言葉のDVを毎日受けていくうちにまたどんどん自信を無くしていった。

再上京を夢見ていた私は、アパレルの企業を退職し、準備のために半年くらいバイト生活をしていたが、色々重なりうつになっていた。診断を受けるのはもう少し後だが、この頃から毎日のように死にたいと思うようになっていた。

死にたい私

このままだと自分が死ぬか、怒りのあまり衝動的に親を殺す危険性があると判断した私は友人の力を借りて実家を飛び出した。

一人暮らしをしたが、結局隣人トラブルで済まなくなり、親戚の家に引っ越すことになった。不安定な情緒の中、お金のためにハードな企業で働き、さらに追い討ちをかけてしまった。私はついに倒れた。身体が動かなくなった。

うつ病になった。

半年以上通院しながら"死"と闘った。

大げさに聞こえるだろうが、うつ病は常に死と隣り合わせなのだ。毎日生きているだけで苦痛を感じ、起きているだけで狂いそうなので、1日15時間くらい寝ていた。

何も感じなくなり、ただ虚無感だけが支配する。気がつけば泣いているし涙が止まらない。死ぬことだけをひたすら繰り返し繰り返し考える。

少し元気が出てくると、逆に首を吊ったり包丁で首を切ったりする可能性もあった。それでもなんとか実行せずに済んだのは、心配してくれた友人や血縁のない叔母のおかげだ。自分を気にかけてくれる人間がいることは、本当に有り難かったし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

私は処方された薬のおかげで、少しずつ元気になっていった。しかし、その薬は感情をフラットにするものなので、落ち込みは減らせるが喜びも感じない。感情がなだらかになることで、生きている実感をどんどん失っていった。

死にたいと思わない日はない。それでもなんとなく笑って見せることができた。お笑い番組を見て、大して面白いと思っていないけれど、反射的に笑ってみる。無理矢理笑うと身体が騙されて楽しい気分になる気がするからだ。

楽しい事など何一つない日々を2年くらい過ごした。スーパーのレジ打ちのバイトをした後、冬になるとうつが酷くなるので体調を崩して辞め、少し落ち着いた頃、今度は知り合いの旅館で配膳係のバイトをしながら過ごしていた。

20代の半ば、本来なら働き盛りの時期、私は死んだように生きながらえるだけで精一杯だった。

さらに追い討ちにあう

それでも明けない夜はない。冬の次には春が来る。

私は2年ほどくらいかけて少しずつ体力も取り戻し、再びアパレルで販売員として働いていた。

それでも情緒は不安定気味。仕事も出来るタイプじゃない。たくさん迷惑をかけながら、それでも上司はいい人もいたし、私をいじめてきた人は私が辞めようと決意した翌月クビになって消えていった。人間関係は良くも悪くも大変だったが、私はこの仕事を出来るだけ続けていくつもりだった。

しかし、ある冬始めの繁忙期、私は無理をし過ぎてただの風邪を拗らせ、咳喘息から気管支喘息に移行してしまった。

春が来て、また冬が来た。

2ヶ月以上働くことが出来なくなってしまった。始めの1ヶ月は毎日睡眠時間は1時間程度だった。うとうとしても咳が止まらないので寝られないのだ。寝られないからよくならないし、腸の蠕動運動もなくなり排便もままならないし味覚も感じられなくなっていた。発狂していた。

当時の店長がとてもいい人で、接客が出来なくても倉庫作業でもいいからとクビにしないでくれていたが、結果的に半年後に辞めることにした。

マスクをしながら倉庫作業をしていたが、喘息の身には埃だらけの倉庫の環境が既に悪環境でしかなく、よく具合を悪くしたためだ。

何がしたいのかわからなくなっていた

私は地元で生きていくことに飽きてしまった。

東京から地元に戻った時は、いつか再び上京したいと思っていた。田舎では特に生きづらいし、やりたい仕事が何一つない。

東京でなくても良いかもしれない。関西はどうだろうか?そう思って大阪で1年暮らしてみた。だが私には合わなかった。

田舎が退屈というのもあるかもしれないが、とにかく私の地元は年中曇りでうつには残酷だし、喘息の発祥率も高く、閉鎖的で新しい物事には排他的で詰まらない。人もどこか根暗な人が多く、定職につかず結婚もせず子供もいないアラサー女への視線は相当冷たい。眠れないし呼吸ができない。

私はただここから逃げ出したくて、色々な事に計画性もなく手を出して失敗し、そしてまた舞い戻っては逃げ出す事ばかりを考えてきた。

それが間違いであった事に、本当にようやく気づいたのだ。

私は他の人と同じような生き方をしなくてよかったのだ。努力の方向を間違えていた。他の人が出来るのだから、自分も出来るはずと思っていた。自分が他人と違うの事に気付いてなかったからだ。出来るようになろうと頑張った結果、出来なくて苦しんだ。だが、そもそも出来なかったことに気づいた。自分に翼はないのに羽ばたく練習をしていたのだ。

だから私は翼の代わりになるものを作って、いつか飛びたいと思う。

私はマジョリティになんてならなくて良い。

マイノリティがマジョリティになるなら、今度は私がマジョリティになるし、とにかく他人と自分のを比べることはもう辞めようと思う。

私はこのしみったれたクソど田舎で、やりたいことをやらかしてやる。新しい事に閉鎖的なこの町から、新しい事を始めてみよう。内側からぶっ壊してやるのだ。

姉との関係

暴虐の魔王だった私は、うつになったり喘息になったりしたおかげで少しだけ人の痛みがわかるようになった。

姉に対して酷い仕打ちをしてきた事を反省した。ようやくお互いの理解者になることが出来たのだ。彼女にとって、私は妹ではなく友達になった。

ぶつかることも多いし、姉も姉でかなりの曲者のため、時々本当にイライラしてまた攻撃性をぶつけてしまうこともあるが、お互い様だと言うことも分かっている。

私は私のやりたい事をしつつ、彼女の夢も応援していきたいと考えている。