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「せつなときずな」第41話
サキは、田辺裕道に刹那の決断を話した。
田辺は、少し悲しそうな顔をした。
やはり田辺の言う通り、刹那には強要にとられる提案だったことを、サキはそれでも仕方ないと思う。
間違い?
正しくはなかったが、それが間違いだったとも思えない。
「どちらにせよ、結婚も新居も、刹那のことがなくても決断してたことだから」
それは多分嘘ではないが、どこか無理しているところもほころびている。
田辺は、わかっているから黙っている。
やさしいかどうかはさておき、今、サキに必要なのは正論ではないのだから。
「自分の言う通りだったって、あなたそう思ってるんでしょ…」
サキは珍しく無防備な弱さでもって、田辺に言い訳するかのような仕草で呟いた。
田辺は不謹慎にも、「可愛い女だな」と心の裡に独り言ちた。
「何を言ってもつまらないと思うけど、サキさんは頑張りました。
そんなこと思ってないですよ」
「つまらなくはないけど、こう、何ていうか、ちょっと自分自身に残念だったのね。
わかってるのよ。刹那に強引だったってことは。
でも、わかっていることをできるほど、私はできた人間じゃない」
サキは白のシクロのボトルを―それはけして旨いワインではないのだが―いつもより早く空いてしまうグラスに注ぐ。
深酒しそうだな、というより、もうなっているのだろう。
本当は、田辺と思いっきりファックしたかったが、ファックするのはいつもどちらかといえば自分の方だし、何よりも、刹那の気持ちを考えた時、自分だけ辛さを紛らわすために男とまぐわうことに、どうにも罪悪感を拭うことができなかった。
「今、何考えているか当ててみましょうか」
田辺は伴侶になるというのに、サキにタメ口で話そうとはしない。
「当てなくていいから、思ったことをしてみたら?」
結局は、挑発的になるのか。
まあ、どうせべろべろで無理なのだから、酔った中年女をベッドに運んで寝かしつけるのが関の山かなとサキは自嘲した。
翌日の夕方、「黒猫」にサキの姿があった。
刹那は絆がいるので、シフトは16時で上がる。
フルタイムでもないのに、時給900円で親子で生活できる世界は今の日本には存在しない。
その叶わないはずの世界に何があるのか、サキは知っておきたかった。
赤い框扉を開けると、夕刻の西陽が長い影を描く妖しい店内が目に入る。
カフェというよりは、ダイニングバーという感じの雰囲気は刹那から聞いていた通りだ。
金髪の内巻きのボブで、コケティッシュな魅力を感じさせる若い女が、サキのテーブルにやって来た。
サキはそれがこの店のオーナーだと思ったが、名前までは覚えていない。
店に来るまでは自分の素性を明かし、刹那のことを少し話そう、そう考えていた。
しかし、オーダーを取る美緒さゆりの姿を見ているうちに、サキは何故だか気後れしてしまった。
飲みたくも無いエスプレッソをオーダーしたその時、美緒の右手の手首に、さそりのタトゥーがあるのをサキは見た。
美緒の後ろ姿を見ながら、サキは不穏で曖昧な悪い予感を覚えずにはいられなかった。
刹那は、一体どうするつもりなのだろう…