『日常を眺めて』3通目by Χ #340
kenken(以後kenさん)からの「お手紙」が届きました。「PU--」のみが表示されていてPULLかPUSHか悩むドア、味わいがフルーツで例えられるコーヒー、漫才コンビのように並ぶ長ネギとナス。どれもがくすりと笑えるささやかな日常の一コマですね。そんな日常が切り取られた写真のおかげで私も追体験できるような気がします。写真に添えられたキャプションも素敵。エッセイストとして推しています。
今回はkenさんのnoteを読んで思いついたことをそのまま書いてみました。一貫して何かを伝えるような内容にはなっていない気もしますが、できるだけkenさんのnoteにcorrespondenceしてみたつもりです。
「書いた」と「書いていない」
kenさんは「留学時代からコツコツ書き続けていたら」という言葉を何度か口にしていますね。でも、自分の感情や思考が言葉になるには時間がかかることもあるので、後悔したり焦ったりする必要はないと思います。逆に、早急に言葉にしてしまうことの危うさだってあるでしょう。
前回のnoteで最後に共有してくれた「BUMP OF CHICKENがライブで歌詞をアレンジして歌った話」とも通ずる部分がある気がします。うろ覚えなのですが、たしか小田和正さんや椎名林檎さんが「若いころに書いた恋愛系の歌詞を今歌うのは気恥ずかしい」みたいな話をしていたと記憶しています。他のシンガーソングライターも同じように、「昔書いた拙い歌詞を直したい(けど、そのまま歌うしかない)」という趣旨の発言をしていた気がします。
一度公開した歌詞は基本的に修正不可能で、ライブでアレンジするくらいしかできないかもしません。でも、プライベートな日記であればいつでも書き換えたり補足したりできます。人類学の言葉で言えば、とりあえずフィールドノートに全て書いておく。そして、フィールドワークの後にフィールドノートの情報を整理してエスノグラフィーに仕上げるというステップに分けることもできそうです。
「書く」には脳内、メモや日記、論文、書籍などと何段階もあるように、「書いた」と「書いていない」の間には無限のグラデーションが広がっています。『読んでいない本について堂々と語る方法』においては、「読んだ」と「読んでいない」のあいだの境界は不確かであると書かれていました。
kenさんは留学生活を文字で記録していたわけではない部分があるかもしれませんが、脳内には記憶というフィールドノートを残しているはず。そして、今になって書きたくなっているということは、エスノグラフィーを書ける予感がしているということかもしれません。「書きたい」と思った時が、その人にとって書くべきベストタイミング。『日常を眺めて』がその助けになれば嬉しいです。
写真が趣味のkenさんならば、きっと書くことも楽しめるはずです。書くということは、文字という「写真」によってその一瞬の感情や思考を切り取る行為で、編集とは「アルバム」を作ることですから。
ネガティブ・ケイパビリティと沈黙
「TDにはネガティブ・ケイパビリティ、それも集合的な(集団としての)ネガティブ・ケイパビリティが必要なのかもしれない」という言葉には共感します。私もネガティブ・ケイパビリティという言葉が好きです。
Transdisciplinary Designでの卒業制作で得た、「倫理的な態度とは、『自分のデザインが倫理的である』と盲信しないことである」というNew York Zen Centerでのフィールドワークの学びを表現するために引用したかった概念ですが、自分のプレゼンに上手く組み込めずに断念したのを思い出します。
ちなみに、この「仏教の態度はネガティブ・ケイパビリティと通ずるものがある」という独自解釈をした後、たまたま曹洞宗の僧侶である藤田一照さんの『現代坐禅講義 只管打坐への道 』を読んでいると、同じような主張がなされているのを見つけて驚きました。勝手にお墨付きをもらった気持ちでいます。
フィールドノートとエスノグラフィーの関係性で言えば、フィールドノートを書いているときは、このメモがエスノグラフィーでどう反映されるのかを想像しすぎない方がいいとも思います。ただひたすらに目の前の出来事とその時の思いを書き残すことに専念する。マインドフルに書くと表現してもいいかもしれません。
精神科医の名越康文先生は、よく「先入観を持っておく」という表現をします。「『この人は○○な性格な人である』という先入観(予想)を自分は抱いている」とメタ認知することが重要なのだそうです。この先入観のメタ認知によって、将来の予測がしやすくなったり、予測と反する言動をしていたらより注意深く観察すべきと判断できたりするのだそうです。
書きたいことが浮かぶ。忘れないようにメモをする。でも、それを他人に伝えないこともまた必要だと思います。「分断が広がる現代社会」なんて漠然と言われたりする理由の一つは、ネガティブ・ケイパビリティを発揮せずに伝えてしまうことかもしれません。
少し論旨はズレるかもしれませんが、「言葉にしないと伝わらない」と言えど、「言葉にしないからこそ伝わる」ことがあるとも思います。「語り得ぬものは沈黙しなければならない」とか「維摩の一黙雷の如し」といった言葉が示すように、本当に大事なことは言葉では表現できないし、何も言わない方が伝わるということもあるのでしょう。
科学と芸術
kenさんオススメのインゴルドの講演も見ました(急かすつもりはないですが、kenさん版日本語訳が楽しみです)。インゴルドがプラグマティストのジョン・デューイを引用していることも、プラグマティズムに興味がある私にとって親近感を覚える内容でした。「『科学と宗教』について思索を深めているΧさんが、この中でインゴルドが語る『科学と芸術』についてどのような感想を持つのか聞いてみたい」という投げかけに少し答えてみようと思います。
この動画でインゴルドは科学と人類学と芸術を取り上げていますが、私の分類でいえば、科学と哲学と宗教の三分類と似ていると思います。詳細は以下の記事に譲りますが、つまるところ「科学では扱えない何かがある」という問題意識は共通していると思いました。
その一例として定量化できるかどうかが挙げられていました。留学中にもBig dataとThick dataの違いを教わったのを思い出します。この話題で思い出すのは、「priceless」という言葉はお金で測れないことこそ価値があるという意味になるのに、科学では数値化できないものは無視される傾向にあるという違いです。
また、動画では「科学はデータを搾取する」と述べられていました。生物の例で考えてみれば、科学は還元主義的に生物を解剖して理解します。一方で、ゲーテが植物と過ごす例でインゴルドが挙げているように、生きている様子を観察したり一緒に戯れたりして理解する方法もあるでしょう。
そういえば、小学校高学年の頃に理科の授業でカエルの解剖がありました。当時の私は自らの手でカエルの命を奪うことが恐ろしくて参加できませんでした。生物を知るという名目でメスを入れ、終わったらゴミ箱に捨てることが可哀想で仕方なかったのですが、その頃から科学が内包する冷酷さを拒絶していたのかもしれません。私が科学から哲学や宗教に興味が移ることを予見するかのような出来事ですね。
また、動画内でカンデンスキーが目の前のアートを鑑賞せずに「これは○○派だ」「誰々に影響を与えた作品だ」などと語るブルジョアを批判した話が引用されていたのも印象的でした。仏教では、ありのままを見ることを妨げる邪魔を妄想と呼びます。『ノケモノノケモノ』の中で「あんた誰だ?」「自分の話をしてみろ」という問いに、主人公が自分の所属する組織や持ち物、交友関係を答えても納得されずに困るという一幕も思い出しました(1:03:40~)。
kenさんが前回のnoteで「自分は運ばれてきたコーヒーそのものを味わうことを置き去りにして、『ライチ』を求めていたのだという反省が浮かんできました。カフェでコーヒーを飲むとき、わたしたちはいったい何を味わっている(体験している)のだろうか。」という気づきを得た時、kenさんと目の前のコーヒーとのcorrespondenceが始まろうとしていたのかもしれません。フルーツで例えることなく目の前のコーヒーをありのままに味わう美しさにも私は興味があります。
kenさんが「肩書というものに違和感を覚えている」と話すことがあるのも、肩書によって表現できない「その人そのもの」を理解したい(理解してほしい)と思っているからではないでしょうか? こんな日常のささいな違和感にも、correspondenceを大切にする姿勢が見え隠れしているように感じます。
動画の中盤で言及される「methodologyとcorrespondecneの対比」は藤田一照さんが言う「習禅と坐禅の違い」に似ているとか、人類学は「人類が人類を理解する」という循環参照性・再帰性を有する話とか、まだまだ語りたいのですが、長くなりそうなので今回はこの辺で。
correspondenceと縦の継承
Transdisciplinary Designは「empty signifier」という空箱だから何を入れてもいい。そんなTD創設者であるJamerの言葉に甘えていきましょう。前回の記事でkenさんがシェアしてくれたJamerのメールを読み返すと、「open, changing, and evolving」と表現する状態もcorrespondenceと近い概念な気がします。
『日常を眺めて』という企画を立ち上げて二人であーだこーだと話し合うことは、Jamerの「TDに新しいアイデアを投げ込んでほしい」という望みを叶えることなのかもしれないですね。それとも、彼の術中にはまっているだけなのか、手のひらの上で踊らされているだけなのか。
さて、kenさんがTransdisciplinary Designをインゴルドのcorrespondenceを通して語るならば、私は仏教の智慧(知恵、英語ならwisdom)を通して語ることになるかもしれません。最後にこの違いで考えたことをシェアしたいと思います。
私はすでに亡くなった人の本を読むのが好きです。彼らと直接会って話をすることは絶対にできないけれど、本であればいつでもどこでも話が聞けるという神秘さに惹かれています(「生きている人と関わることを恐れている」と言った方が正しいのかもしれませんが)。
こうした死者との対話を私は「縦の継承」と呼んでいます。最近は『チ。―地球の運動について―』のアニメが始まりましたが、ただひたすらに過去から未来へと知のバトンをつないでいく構図に惹かれます。今の自分が得ている知恵は先人の試行錯誤のおかげであることに感動して震え、涙すら流してしまいます。
一方で、kenさんは生きている人との関わりを楽しんでいるように感じます。インゴルドに憧れて、実際に講演に出向いて会いに行く。他にも様々な生きている人に憧れながら生きている(ように私には映る)kenさんのことを見習いたいです。同じ時代を生きる人と関わる「横のつながり」もまた楽しめるようになりたい。
インゴルド研究家(?)のkenさんに質問するとすれば、correspondenceは同じタイミングに生きていることが条件となるのでしょうか? それとも、生きている人と死者や未来の人といった「縦の継承」でもcorrespondenceはできるのでしょうか? この問いを深堀りすると何かが見えてくる予感がしたので、無責任にも投げかけさせてください。
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