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『日常を眺めて』7通目by Χ #343

日常を眺めて』は、パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designへ同じ時期に留学していたΧとkenkenが、ささやかな日常を留学生活の後日譚として語り合う交換noteです。

kenken(以後kenさん)からの「お手紙」が届きました。『日常を眺めて』は「ささやかな日常」を語り合って生存報告をするくらいのモチベーションで始めたものの、いつの間にかTransdisciplinary Design(TD)の本質に近づくような対話が交わされるコンテンツになっている気がします。まさに「留学生活の後日譚」という言葉がピッタリですね。


狭間、あわい、領域を超える人間

kenさんの文章に「狭間」「あわい/between」といった言葉が繰り返し登場するのがTransdisciplinary Designらしく思いました。「Inter-でもMulti-でもなくTrans-なのは、『領域を越えていく』、『あいだを往ったり来たりする』という動的な態度の表れ」という表現も納得です。「Trans」に込められた意味に注目するのは「What is Transdisciplinary Design?」を解き明かす鍵になりそうですね。

また、「trans」は私が先人の知恵に惹かれる理由とも関係しそうなことにも気づかされました。というのも、伝統を意味する英単語「tradition」の頭は「trans」に由来するようなのです。修了制作で仏教をデザインの言葉に翻訳translationしたいと考えていたのも、思いかけず「trans」を試みていたのかもしれません。「Trans」をキーワードにすると自分の興味関心が整理されるかもしれないというヒントも得られました。

ちなみに、「領域を越えていく」「あいだを往ったり来たりする」という言葉から、哲学者のマルクス・ガブリエルが書いた『なぜ世界は存在しないのか』を思い出しました。本書では「存在すること=何らかの意味の場のなかに現れること」と定義していて、「世界」という全てを包括する絶対的な意味の場はないと主張しています。また、人間は意味の場を渡り歩いていく存在であるとも書かれていました。


絶対的な存在を想定できない苦しみ

絶対的な意味の場が存在しない状況で意味の場を行き来すると気づくのは、価値観は意味の場ごとに異なるということ。学歴があれば、有名企業に就職すれば、お金持ちになれば、有名になれば、友人がいれば、パートナーや子供がいれば、徳を積めば、多くの家畜を持てばなど、何に意味を見出すのかは文化や個人の好みに依存する主観的なものです。

価値観が絶対的・客観的でないことに気づいてからというもの、何を信じればいいのかと考え続けている気がします。「なぜそれに価値があるのか?」を問い始めると、無限後退に陥るのです。宗教であれば神を、数学であれば公理を設定するように、その終着点として絶対的な存在を置けば無限後退は解決されますが、絶対的に正しい価値がない以上、無限後退は解決されません。このような絶対的な存在を欠いた状態で陥るのがニヒリズムです。

絶対的な価値がないとした時、私が特に疑問に思うことは「人はどのように選ぶ基準を選んでいるのか?」ということ。工学におけるフレーム問題よろしく、人間が「『選ぶ基準』を選ぶ基準」という入れ子構造を前にして悩まない理由が分からないのです。この選ぶ基準を知るために倫理学や価値論、哲学や宗教などから学びたいと思うようになりました。

最近気づいたのは、「留学中に探究したかったのはニヒリズムの克服だったのかもしれない」ということです。つまり、扱いたかったテーマは「トラウマ的経験」「燃え尽き症候群」「注意経済」「倫理的ではないデザイン」のような具体的な対象ではなかったのです。私が仏教に惹かれるのも、「一切皆苦」というニヒリズム的なテーゼから「涅槃寂静」という幸福へ至る道筋を説いているからと表現できます。

ところで、ウィリアム・ジェームズは、ニヒリズムを克服することを「二度生まれ」と表現し、宗教が二度生まれを助けることを「救済」と表現しました。彼の提唱するプラグマティズムは、科学が発達してキリスト教を信仰できない時代に「信じるとは何か?」を考えた哲学であり、私の興味を引き付けています。

ということで、ウィリアム・ジェームズの言葉を借りて、自分が目指すTDを「救済のデザイン」と仮称するようになっています。kenさんの「(少なくともぼくが目指したい)TDは『日常を照らすためのデザイン』なのかもしれない」という表現に軽やかさがあるのとは対照的にも感じられますが。


再帰性によるニヒリズムの克服

西洋哲学でニヒリズムと言えばニーチェやハイデガーが有名ですが、東西問わず大抵の哲学者や思想家はニヒリズム的な傾向がある気がします。そもそも日常生活の気晴らしで満足していてニヒリズムに陥っていない人は哲学を必要としないからでしょう。哲学(特に実存主義以降の哲学)はニヒリズムの克服に挑み続けていると言っても過言ではないはずで、私が哲学・思想に興味があるのは、ニヒリズムの克服の方法を知りたいからだと思います。

さて、どうすればニヒリズムから脱却できるのでしょうか? 現時点での私の仮説を支える概念は再帰性です。ここで言う再帰性とは、定義したい単語を説明するための一文にその単語が登場するような関係性を指しています。ちなみに、弁護士芸人のこたけ正義感は以下のネタで「『板』の説明の中に『板状』って入ってるやんけ」というツッコミをしていました。

前回の記事で紹介してくれた保坂和志さんの『書きあぐねている人のための小説入門』にある「小説とは『小説とは何か?』を問い続けながら書くこと」というのも、私の注目する再帰性を表現する構文だと思います。この構文は「私とは?」「生きるとは?」のようなさらに抽象的なテーマに当てはめても成立しそうです。

私とは「私とは何か?」を問い続けながら存在すること

生きるとは「生きるとは何か?」を問い続けながら日常を過ごすこと

もちろん、この構文が絶対的に正しいと盲信してはならないのですが、この答え方は何も答えていないようでいて、核心を突いている気がしませんか? ちなみに、科学が真理に近いとされる根拠の一つは再現性を重視するからですが、再現性は「問い続けること」という真理に近づくコツを方法論化しているのだとも解釈できそうです。

再帰性がなぜニヒリズムを克服できるかというと、この再帰性によって絶対的な存在を想定しなくて済むからです。絶対的に正しい何かから論理を積み上げていくのではなく、自分自身が自分自身を支えるようなイメージです。絶対的な存在はないとしても、この問い自体が問われ続けるプロセスの存在は間違いないというか。書いてみたものの、まだ上手く説明できないですね。ニュアンスだけでも伝わっていればいいのですが。

しかし、この再帰性の考え方は単に循環論法に陥っているだけなのでしょうか? ここまで話してきたような無限後退、「神」のようなドグマ的仮定、循環論法の三つのパターンを総称してミュンヒハウゼンのトリレンマと呼ぶということを、この文章を書く過程で知りました。つまり、どれを選んでも絶対的に確実な論拠を得られないということです。

もしかすると、再帰性もまだまだニヒリズムの克服としては不十分なのかもしれません。こうした哲学的難題そのもの、またはこの難題を迎えて途方に暮れた状態をアポリアと呼ぶそうです。


日本で日常を過ごした2024年

2024年の『日常を眺めて』は私のターンで終わりになりそうですね。私の唐突な提案から始まった企画に付き合ってくれていることに感謝しています。

2025年も『日常を眺めて』は続いていくのか。続いていくならば、どんなテーマを語っていくのか。いつの間にやら内容も深くなっているので、「ささやかな日常」を気軽に書く回があってもいいなぁと反省しています。

と、すでに来年のことを妄想してしまいますが、まずは留学生活を終えた日常を2023年の5月頃から約1年半過ごした自分たちを褒めましょう。今年もお世話になりました。よいお年をお迎えください。

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Χ
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