見出し画像

「生きづらさ」の救済をデザインから。 #342

私のnoteには公開から時間が経っていてもビュー数が多い記事がいくつかある。その中でも、『愛するということ』と『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』について書いた記事は年間を通してビュー数が多い。

有名な本を取り上げているからビュー数が多くて当然ではあるのだが、人間関係と仕事という人生における代表的な悩みに関する本であることが気になった。「もしかすると藁にもすがる思いで私の記事に辿り着いた読者もいるのではないか」と邪推して、そこから考えたことを書いておく。


「生きづらさ」を抱える現代人

これらの本に求められているのは「人間関係のコツ」とか「燃え尽きない働き方」という表層的な解決策なのだろうか? もちろん「それで十分だ」という人が8割くらいなのだろうが、もっと深層にある悩みへの対処を求めている人もいるのではないかというのが私の仮説である。 

そうした悩みを「生きづらさ」という言葉で表現してみると、この「生きづらさ」は心療内科等の医療機関では解決しない。なぜなら、医療行為としては科学的なエビデンスがあることが前提であるし、患者が最低限の社会生活を送れるようになれば治療終了だからだ。「生きづらさ」とは心身の病というよりは「死に至る病」という実存的な悩みであり、精神やスピリチュアル的な悩みに近いのではないか。


気晴らしでは物足りない

「『生きづらさ』に思い悩むなんてもったいない」とか「人生なんて死ぬまでの暇つぶしなんだ」と考えて、気晴らしやストレス発散で日々を埋めていく方法もあるだろう。『暇と退屈の倫理学』では、この「生きづらさ」を退屈という観点から解き明かしている。

現代はこの気晴らしに溢れている。コンビニに行けば脂質や糖、アルコールやタバコが気軽に手に入るし、スマホを開けば実質的に無限のコンテンツにいつでもアクセスできるという注意経済も定着しつつある。しかし、こうした手軽にドーパミンが出る物質や行動にのめり込むのは健康的とは言い難いし、「生きづらさ」の根本的な解決にもなっていない。

健康的な気晴らしとは何だろうか? この問いへの世俗的な幸福論の結論は「他人を幸せにする生き方をする」だ。でも、これは「幸せとは何か?」という問いを他者の内面に押しやって隠すだけにも思える。自己中心的な生き方から他者視点の生き方にシフトしようというのも間違いではないし、その方が他者との軋轢が減って生きやすくはなるだろうが、他者が幸せと感じるかどうかに依存する怖さが残る。


信じられないから救われない

では、他者を媒介することなく幸せになることはできるのだろうか? この問いへの究極的な答えとして人類が編み出したのが、超自然的な存在に認められるという幸福だ。有神論的な立場をとれば、神と自分とが直接関係し、その神が自分を見守ってくれていると考えることで安心感を得られる。

一方で、無神論的な場合もある。超自然的な存在が認められない時の最終手段は「自分で自分を認める」だ。哲学においてはニーチェによる超人思想が代表的だろう。自己啓発や自己肯定といった言葉が市民権を得た現代は、「自分自身が『神』になることで救われる」という論理は受け入れられているとも言える。

このように、有神論的にせよ無神論的にせよ、何か絶対的な存在を前提にすれば、その存在から認められていることを根拠に「生きづらさ」を克服することができる。しかし、この方法の唯一の問題は、絶対的な存在を信じられるかどうかに全てが委ねられているという点だ。

宗教的体験とはこうした絶対的な存在を確信する個人的体験のことだが、そうした体験がない場合はこの方法によって「生きづらさ」を克服することは難しい。特に相対主義が人々に浸透したポストモダンの時代において、絶対的な存在を信じることが難しくなってしまっている。


「救済のデザイン(仮)」

ここまでをまとめると、「生きづらさ」を抱える人は世俗的な気晴らしで満足できず、だからといって宗教的な信仰に頼ることもできない。この世俗と宗教の狭間に落ちてしまった人に何ができるのだろうか? 

この課題に取り組むデザインを「救済のデザイン」と仮称してみる。ウィリアム・ジェームズは『宗教的経験の諸相』において宗教の持つ価値の一つが救済salvationであると論じているが、絶対的な存在が信じられない現代において、この救済をデザインによって実現できるのだろうか? 

そのヒントは、ロベルト・ベルガンディの「意味のイノベーションmeaningful innovation」やエツィオ・マンズィーニの「文化的活動cultural activities」などで強調されているセンスメイキング(意味形成)や、トランジションデザインやスペキュラティブデザインなどが掲げる未来洞察にあるというのが現時点の仮説である。というのも、複雑性が増す時代においてセンスメイキングや未来洞察によって人々の不安感を抑えようとしている傾向があり、デザイナーがシャーマンや占い師のような立場を担っていると感じるからだ。

もちろん、デザイナーが絶対的な存在になるということではない。センスメイキングは専門家によって正解が与えられるというよりは、各々が対話の中で自ら気づいて納得することが重要だ。そのため、カウンセリングやセラピーのような専門家による介入というよりも、雑談や井戸端会議のような非専門家同士による相互作用が頼りとなる。このためにデザイナーができるのは、センスメイキングに役立ちそうな情報を適切なタイミングで提供すること、「生きづらさ」について語り合う場やコミュニティを構築することなどが考えられる。

「愛するとは?」「働くとは?」という悩みを抱く人は、「生きるとは?」という根本的な問いに悩むのも必然だろう。そんな問いに共に向き合うデザインを目指していきたい。システミックデザインのその先に「スピリチュアリティデザイン」というアイデアがすでに現れていることからも、そう遠くない未来に「救済のデザイン」の領域が広がっていくはずだ。

いいなと思ったら応援しよう!

Χ
いただいたチップは、デザイナー&ライターとして成長するための勉強代に使わせていただきます。