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2024年1月23日 映画「窓ぎわのトットちゃん」感想

今更ながら、
2023年12月に鑑賞した映画、「窓ぎわのトットちゃん」の感想です。

ネタバレありです。

その上、この映画は、個人的には非常に後味が悪く、
楽しめたとか面白かったというジャンルでくくれないものでした。
そういう感想をつづりますので、
「窓ぎわのトットちゃん最高!」「最高傑作!」と感じる方とは
あわないものと存じます。
不快に感じる恐れもありますので、
ここでブラウザバックしていただくことをお勧めします。

・鑑賞の経緯

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」のファンアートや考察をネットであさっておりますと、
「窓ぎわのトットちゃんもすごいぞ!」
「窓ぎわのトットちゃんも見るべき」という投稿をいくつか見かけました。
素直な人間としては、
「そういうものか…」とも思ったのですが
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」鑑賞時の予告編には、
かるく拒否反応が出ておりました。
ほほ紅をさし、口紅を塗ったような少年少女たちの造形がどうにもなじめなかったのです。
その後、その表現が、どういう意図かはネットの記事で理解して、(人形劇の人形をイメージしているらしい)
それならばと見に行くことにしました。

もともと、原作「窓際のトットちゃん」は、いわさきちひろの表紙、挿絵でした。
あの淡くはかなげな絵の印象に比べると、今回のアニメは妙に可愛らしく、なまめかしく感じられます。
祖母がいわさきちひろの絵が好きで、画集やイラストが載った本は、祖母宅にはそろっていたはずで、
「窓際のトットちゃん」と言えば、あのはかないタッチなのです。
その癖、落ちている本は何でも読む人間なのに、「窓際のトットちゃん」の内容が思い出せません。
表紙は確かに見たのだから、読んでいて然るべきだと思うのですが、全く思い出せないのです。
「しかし、まあ、ここまで皆が良いと言うのなら、良いのだろう」と、
乗り切れない自分がありながらも、鑑賞を決めました。

・劇場内の様子


高齢の女性が異例の多さでした。
何人かで誘い合わせて、もしくはお孫さんと見られる人と一緒という姿が多かったです。
便宜上、高齢の女性と書きましたが、それでも黒柳徹子さんよりは20歳は若い方が多かったと思います。
(黒柳徹子さんは御歳90歳でいらっしゃるはずなので)
つまり、高齢といっても、黒柳徹子さんのように、戦争を経験している世代ではない世代だと思われます。
「窓ぎわのトットちゃん」の本が流行った世代の方かもしれません。
最近の映画館に慣れておられない方が多そうな雰囲気でした。
実際、近くの席のご婦人は、お孫さんが小柄すぎて、スクリーンが見えないと不満を言うのに狼狽えておられました。
「ええ、どうしましょう」と言った後、お孫さんに座席の上で中腰になることを勧めており、かなり不安を感じました。
僭越ながら、「お子さん用のクッションがありますのでそれをご使用なさっては」とお勧めしました。
クッションは上映までに間に合ったようなのですが、
やはりそのお子さんに、この映画は難しかったようで「これっていつ終わるの?」「もう終わる?」という切ない声が聞こえ続ける映画鑑賞となりました。

・後味は決してよくない

「いつ終わるの?」と声をあげる子どもの声が
あまりにも自分の気持ちと同じで
誰かがひどく注意しないだろうか、注意されたらどうしようとハラハラしながら鑑賞しました。
「このモヤモヤはいつ終わるのか」と思いながら、鑑賞していたのです。
鑑賞後、混乱しながら帰宅しました。
混乱した、と言うのが控えめに言って最も正しい表現だと思います。
そして少し時間が経った今、その混乱が何だったのかがようやくわかりました。
恐怖です。
チープなホラー映画の数倍、恐ろしい映画だったのに、あまりに可愛らしく、美しい画面だったので、混乱していたのです。
ホラー映画や怪談の中には、「次に呪いが行くのはこれを観ている、聞いているあなたかもしれない」というような結末があります。
階段を山ほど読んだことがある人間としてはそう言う結末には飽き飽きしていますし、あまり怖くありません。
けれど、そういうことは書かずに事実だけを淡々と積み上げていき、普通に終わってしまう、小野不由美先生の「残穢」という小説はひどく恐ろしく感じました。
押し付けがましさがないゆえ、説明がないゆえの現実感が恐ろしいのです。明日にも自分がそこに行き合っても全く不思議はないと思わせる説得力、それは説明ではありません。小さな、でも確かな描写の積み重ねです。
そう言う意味で、個人的には映画「窓ぎわのトットちゃん」は「残穢」と近しい作品でした。
戦争が始まる時代というものはあまりにも何気ないということが
しっかり描かれていたからです。
しかもそれは、全く説明的ではありません。
何だか変だと思うところは、丹念に描写されるものの、説明はほとんどなく、それ故、すっきりとした解決が訪れないまま時代は流れます。
小さな違和感が積み重なり大きな変化を作るものの、人間はそこにも何とか適応していってしまいます。

ビョークが主演した「ダンサーインザダーク」を鑑賞した時とも少し似た感覚だなと思いました。
鑑賞者は何となく今後の展開や結末をわかっています。
でも、映画の中の人たちはそれを知りません。鑑賞者は、ああすればいいのに、こうすればいいのにと思うと同時に、ひどい後ろめたさを感じます。
「わかっているのに、助けられない」ことが胸を刺し、
後味の悪さを感じるのです。

しかし、この後味の悪さは、制作側もしくは黒柳徹子さんの意向なのではないかとも感じます。
「見て感動した」とか「最高の映画でした」という感想で終わらない作品にしたかったのではないかと思うのです。
最後の場面を見ても、黒柳徹子さんがご健在だからこそ、耐えられる結末というか
あの時代を生き抜いて未だ、ご本人がテレビに出ておられるということ以外の明らかな希望はないのです。
それもアニメでは描かれません。
黒柳徹子さんの肉声で、ああそうだったと感じるだけです。
ラストシーンで、妙にいい子になっていて
ちんどんやさんを追いかけずに、兄弟をあやす姿に
最初の頃のトットちゃんが消えてしまったようで
切ない気持ちになりましたが
黒柳徹子さんはトットちゃんの部分を失わずに活躍していることを思い出して
ほっとしました。
最高の安全装置です。

・アニメ映画として

もとが、エッセイだからかひとつのエピソードが終わるたびに
真っ暗に暗転するのが
とても怖かったです。意識を失ったような気持ちになりました。
あれはアニメ映画の構成はどうなのだろうと感じたのですが、
これも意図的なものかもしれません。
さてこの映画では、3回、大きくアニメーションのタッチが変わるシーンがあります。
それぞれのシーンがとても美しく、
アニメーションは多様な表現ができるのだなあと感心しました。
それでも最後、3回目の美しさはあまりに切なく、心がざわめきました。
あんまり美しいものも「怖い」ものです。

・戦争の足音を無視しない


個人的に、
この映画がどんなホラー映画よりもおそろしく、
「ダンサーインザダーク」と同じくらいに後ろめたかったのは
戦争の足音が、今、まさしく聞こえているからです。
これまで生きてきたどんな時よりも、戦争との距離が近いと感じます。
明日、戦争が始まってもおかしくない、そんな気がするのです。
そして、トットちゃんのようには子供ではない自分は、
こういう時代になってしまった責任の一端があります。
あの映画の中の駅員のおじさんや、
トットちゃんのお母さんやお父さんや
トモエ学園の先生たちも
こんな奇妙に、苦しい気持ちだったのだろうかと思うのです。
時代に巻き込まれる不安と
同時に、確かにこの時代を作ってきた自分への後ろめたさとが
混じり合う、この苦しさ。
その苦しさから逃げようとしても逃してくれない映画、
それが「窓ぎわのトットちゃん」でした。
一度見てしまったが最後、戦争の足音を無視することはできなくなりました。
それだけの迫力と重みのある映画でした。


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千歳緑/code
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