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いつか痒みは消えるとて

昨年八月に妻が亡くなって一年、蚊に転生した彼女と再会した。

妻との関係は良好で、だからこそ彼女が難病を発症したと分かったときは目の前が真っ暗になった。
発症以降も妻は明るく気丈に振る舞っていたが、どうにも私の方が堪え切れず、亡くなる前後の記憶はかなり曖昧だ。
だからなのか、この一年は悪夢にうなされてきた。

ふと気が付くと、目の前の布団に誰かが横たわっている。
恐らく死の間際の妻なのだろうが、輪郭すらも曖昧で確信が持てない。
私はそれを、一寸も視線を逸らすことなく凝視している。
そんな彼女を叩(はた)こうと、視界の端から誰かの手が割り込んでくる。
――これは誰の手だ。
――私なのか?
――どうして瀕死の彼女を叩こうとする?
――最期まで愛していたはずなのに。
愚図愚図している間に、それは加速度的に勢いを増して彼女に迫っていく。
あと20cm。
――違う、私ではない。
あと10cm。
――頼む、やめてくれ。
あと5cm。
――――!!!

いつもここで目が覚める。
寝間着は汗で不快な湿り方をしている。
纏わりつく鬱陶しさを剥がしながら夢の内容を思い出す。
――布団の中の人は本当に妻なのだろうか。
――叩こうとしている手は本当に私なのだろうか。
だが、どれだけ考えようと答えは出なかった。
そもそも妻が亡くなる前後の記憶がやはり漠然としている。
八月に入ってから毎日のように蚊に刺されている左首を掻きながら、まとまらない思考を巡らせていた。

その日も悪夢で目が覚めた。
もう何度目か分からない嫌悪感を抱えながら洗面所に向かう。
鏡を見るとやはり、今日も左首が刺されていた。
同じ個所を執拗に刺してきている。
虫除けや蚊取り線香を試しているが効かないらしい。
幸いそこまで痒くはないので放置していたが、そろそろ犯人を見つけておきたい。
そう思い目を凝らすと、一匹の蚊が私の周りを飛んでいることに気が付いた。
花を見つけた蜂のように、規則的な動きで飛んでいる。
私以外誰もいない、何もないこの家で、仲間に美味い血を知らせようとしているのだろうか。
少々憐れに思えたが、これ以上刺されないためにもやるしかない。
目で追いながら動きを把握し、叩きやすい箇所に来るまで待つ。
腕を伸ばし、手を広げ、息を潜める。
――今だ。
と、叩こうとした瞬間、あの夢が急に脳裏に浮かんできた。
妻と思しき輪郭を叩こうとする手、それが今まさに蚊を叩こうという私の手に重なる。
――――!!!
意識的にか無意識的にか、すんでのところで手が止まった。
蚊は変わらず規則的に飛び続けている。
――あれはやはり私だったのか。
気が沈みかけたのも束の間、今度は夢の中の人影と蚊が重なった。
――まさか。
「お前……なのか……?」
すると飛び方が変わった。
今までよりも緩やかで、そして優雅な飛び方になった。
確信した。
妻に違いない。
「一年ぶり……だな」
昨年八月に妻が亡くなって一年、蚊に転生した彼女と再会した。

再会してから三日が経った。
いくつか分かったことがあるが、まず大きかったのは意思疎通の件だった。
こちらの言葉はちゃんと伝わっているらしく、飛び方を変えることで返答してくれている。
問題なのは私の方で半分程度しか読み取れないことだが、一切やり取りできないよりは良い。
また、食事に関しては私の血を吸うのみで十分らしい。
どうしてか左首からのみ吸っているが、これも全身刺されるよりは都合が良いだろうと判断した。
一方で夢については悪化してしまった。
布団に横たわっているのが妻であるとはっきり見えるようになり、叩こうと伸びる手がますます怖くなってしまった。
彼女の晩年、私はきつくあたっていたのだろうか。
記憶を失っているだけで、実は手をあげるほど関係が拗れていたのだろうか。
出口のない迷路を彷徨っている感覚がいつまでも抜けなかった。

「海を見に行きたいわ」
再会して二週間、耳元に微かに聞こえた声に驚いていると、続けて話しかけられた。
「あなたの血をたくさん飲んだからかしら、小さいけれど声が出せるようになって嬉しいわ」
耳朶をくすぐる声に目頭が熱くなったが、悟られまいと会話を続ける。
「海か、海というとあそこか」
「ええ、想い出の景色をもう一度見てみたいの」
何度も二人で足を運んだ場所だ。
妻を失ってからは一度も訪れていなかったが、久々に赴くには良い機会だ。
「行こう、着替えるから待っていてくれ」
二人で出掛ける時に良く着ていた服を引っ張り出しながら、彼女の運搬方法も考えていた。
蚊一匹だけを入れた虫籠を持って歩くのは少々不自然だが、かと言ってビニール袋のようなものに入れて運ぶのも忍びない。
迷った挙句、肩掛け鞄の中にいてもらうことにした。
これならばある程度の強度もあるため、人混みでぶつかられても体が潰される心配はないだろう。
彼女に鞄の中に入ってもらい、懐かしい道を歩き始めた。
悪夢は相変わらず酷いままで、妻の姿とそれを叩こうとする手は一層はっきりと見えるようになってきたが、現実でも言葉を交わせるようになったり、こうして共に外出できたりするのは幸せなことでもあった。
――そう、言葉を交わせるようになったのだ。
――あの夢は本当のことなのだろうか。
真相を尋ねる選択肢も頭をよぎったが、答えを聞くのは怖かった。
一瞬浮かんだ考えを頭の片隅に追いやり、まずは久々の遠出を楽しむべく海へと向かった。

海は想い出の中と違わず美しいままだった。
日は高いが、光は波に揉まれて柔らかい。
人出もまばらで、鴎の鳴き声が良く響いている。
「着いたぞ」
「ええ、潮の香りが心地いいわ」
「鞄の中なのに匂いも分かるのか」
「蚊ですから」
思い返すと彼女が亡くなって以降、誰かと何気ない会話をすることもなかった。
短いやり取りであっても、心が満たされていくのが分かる。
「そろそろ出るか」
そういって鞄を開けた瞬間、急に風が強くなった。
「あっ」
煽られた彼女が空に舞った。
――そんな!
慌てて周りを見回す。
「おい、お前!」
声をかけるが返事は聞こえない。
彼女の声は耳元でないと聞こえないくらい小さいのだ、無理もない。
必死に辺りを駆け回り目を凝らすが、いくら探しても見つからない。
――頼む、行かないでくれ!
神に祈りながら探し続けて数時間が経った。
沖まで流されてしまっただろうか、鴎に食われてしまっただろうか。
様々な可能性に責め立てられた心が痛い。
夕陽が涙目を突き刺してくる。
すっかり弱った足腰は限界を迎え、波打ち際に崩れ落ちた。
満潮なのか、次第に足元が海水に埋まっていく。
何も思い出せないまま、何も聞けないまま、また離れ離れになるのか。
ふくらはぎまで浸かり始めた頃、左首に痒みを覚えた。
――っ!
慌てて首元を確かめると、ふらふらと飛ぶ彼女を見つけることができた。
「無事だったか!」
「はい」
「怪我はないか」
「ええ」
「疲れてないか」
「少々、なのでもう少し血をいただければ」
「分かった」
砂浜に戻り大の字になる。
首筋を這う感触と共に空を見上げる。
飛沫と涙に塗れた身体が、月明かりに包まれていった。

いつもの夢を見ていた。
横たわる妻がはっきり見えている。
こんなに綺麗だったのかと改めて思う。
顔を覗き込もうとすると、いつもの手が視界の端に入ってきた。
こちらもはっきり見えており、やはり私の手に間違いなさそうである。
落胆していると、ふと彼女の左首で何かが動いているのが目に入った。
今まで気が付かなかったが、遂に小さいものまで見える解像度になったらしい。
正体は蚊であった。
――衰弱した妻から更に血を吸おうだなんて。
叩こうと手をあげたが、蚊もまた同様に衰弱しており、うまく針がさせないのか動きがぎこちない。
――今なら容易にやれる。
そう思い手を近付けるが、弱弱しい足取りがどうにも見ていられず、命を奪う気になれなかった。
それに、蚊を叩くということは彼女のことも叩くということになる。
あと5cmまで迫っていた手を脇に戻すと、ようやく血を吸えた蚊が妻の元から飛び立っていった。
寝ていた妻の顔は温かい笑顔に満ちていた。

砂浜で目を覚ますと、朝日が昇っている頃であった。
上半身を起こすと、周りを飛んでいた妻と目が合った。
「そういうことだったのだな」
「ええ、どうやら」
夢の中の蚊のように、妻もかなり衰弱しているようだった。
「もう、そろそろなのか」
「はい、思いがけない余生でした」
「来年も会えるのか」
「どうでしょう、私には何とも。ただ……」
彼女が言葉を続ける。
「忘れない限り、いつだって会えるわ。私の最期の顔、あなたの最期まで覚えていてほしいの」
「ああ、もう二度と忘れない」
「なら安心ね」
そう言って、私の左首にふわりと着地する。
「最後にもう一回だけ吸わせて頂戴」
「もちろん」
左首に僅かな痛みが走った後、徐々に痒みが出てきた。
痒みが収まるまで、しばらくぼうっと海を見つめる。
波音に心が洗われていくようだった。
針が刺さったままの彼女を、そっと首から抜き取り鞄にしまった。

秋になり、涼しい日が増えてきた。
お彼岸ということもあり、お墓にはそれなりの人が来ている。
一通りの掃除が終わり、花や果物をお供えする。
流石に血は不味かろうと思い、飲み物を多めにした。
目を瞑り、手を合わせる。
あれ以降、悪夢を見ることはなくなった。
代わりに、妻と過ごした日々を思い出すことが多くなってきた。
あの日海に出掛けたように、想い出の地を巡ってもみるのも悪くないかもしれない。
その時は、あの肩掛け鞄で行くとしよう。
目を開くと、台座の脇が今でも少し盛り上がっているのが分かった。
無事、土に還れただろうか。
痒みのない左首を掻きながら、彼女を偲んだ。

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