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『無名』くれい響さん(映画評論家)によるコラム

昨年1月に中国で公開され、興行収入約181億円を上回る大ヒットを記録した話題作、映画『無名』が、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネマート新宿ほか全国順次公開中。

『無名』の日本劇場公開と大ヒットを記念して、特別コラムを公開!
チェン・アル監督の手腕、トニー・レオンとワン・イーボーの魅力を存分に語っていただきました。一部ネタバレが含まれますので、ご鑑賞前の方はご注意ください。


2大スターが魅了された、ミステリアスかつトリッキーなノワール大作

くれい響(映画評論家)

“無名”と聞いて、多くのアジア映画ファンがまず思い出すのは、トニー・レオンが剣豪を演じたチャン・イーモウ監督作『HERO』(02年)でジェット・リーが演じた剣士の名だろう。もし、西部劇ファンなら『荒野の用心棒』(64年)など、セルジオ・レオーネ監督の西部劇でクリント・イーストウッドが演じたガンマン“名無しの男”を思い出すかもしれない。いわば、素性が知れない達人の印象が強いが、本作のタイトルである『無名』は、どちらかといえば文字通り“名もなき人”だといえるだろう。
 事実、映画配給・制作会社のボナ・フィルム・グループ(博納影業集団)は、本作をアンドリュー・ラウ監督作『アウトブレイク~武漢奇跡の物語~』(21年)、チェン・カイコ―ら3人の監督による共作『1950 鋼の第7中隊』(21年)に続く、「中国勝利三部作」の最終章として謳っている。勘ぐってしまえば、プロパガンダ的要素も感じられるかもしれないが、新型コロナウィルス感染症に立ち向かった医師、朝鮮戦争における激戦「長津湖の戦い」を戦った志願軍という、事実を基にした物語で活躍する“名もなき英雄”として、本作の登場人物が並ぶというのは、いろいろな意味で興味深いところ。チェン・アル監督が本作において掲げたテーマは、「名もなき人々に対する想いと、その時代における挽歌」。主要キャラにはそれぞれモデルがいるのだが、それを踏まえて本作を観ると、作品資料上では名前の表記はあるものの、劇中においてはほとんど“その名前で呼ばれていないこと”に気付かされる(もちろん、エンドクレジットにも役名が出てこない)。
 1940年代という激動の時代に翻弄された“名もなき英雄”として、香港映画界が世界に誇る名優トニー・レオンと、ドラマ「陳情令」(19年)でのブレイクにより一躍、中国映画界の次世代を担う存在となったワン・イーボーという2大スターが激突! 片や中国共産党から送り込まれたスパイ、片や日本軍から送り込まれたスパイというお互いの関係性は、トニーが潜入捜査官を演じた『インファナル・アフェア』(02年)を思い起こさせてくれるが、トニーがアン・リー監督作『ラスト、コーション』(07年)と同じく汪兆銘政権における重要人物・フーを演じている点にも注目したい。ちなみに、トニーにとって本作は『ラスト、コーション』に続く、2本目の自身の声による國語(北京語)映画でもある(それ以外は別人の吹替によるもの)。日本好きが高じて、移住説も囁かれるなか、私生活では日本語を喋らないほどマイペースなトニーが、あえて避けていた國語映画のために、徹底的にトレーニングを受けたことも話題になった。
『花様年華』(00年)あたりから佐田啓二の面影を感じさせるようになったトニーが、ますます円熟味を増し、ダンディズムを感じさせる一方、これまでのアイドル的イメージを完全封印したのがイーボーである。23年には1月に本作が、4月にステルス戦闘機のテストパイロットを演じた『長空之王(日本未公開)』(23年・原題)が、そして7月に逆境に立ち向かうストリートダンサーを演じた『熱烈』(23年・原題)が中国にて公開。まさに勝負年だったといえるが、ヒットを記録した3作の中でも、本作で演じたイエは段違いで、男も惚れてしまう色気を感じさせてくれる。さりげなく人差し指でライターのスイッチを押し、煙草を吸う仕草、返り血を浴びたときの残忍な表情、こみ上げてくる感情を抑えるあまり涙する姿など、ファンでなくとも痺れまくること間違いなしだ。彼も流暢な上海語や日本語を巧みに操る設定だけに、撮影の合間にも共演者の森博之から直々に学ぶなど、トニー以上にハードルが高い役に挑んだことが分かる。終盤に魅せる文字通り体当たりアクションシーンなど、劇中同様に大先輩であるトニーの胸を借りつつ、見事なまでに新境地を開拓。エンドロールに流れる同名の主題歌(作詞はチェン・アル監督!)を含め、話題作を彩る二枚看板の役割を十分に果たしたといえるだろう。
『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(21年)でハリウッド進出も成功したトニーと飛ぶ鳥を落とす勢いのイーボーが、そこまでしても出演したかったチェン・アル監督作とは? それは1937年の上海を舞台に、日中戦争の裏で生き残りを賭けたマフィアの抗争を描いた前作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』(16年)に代表される、ウォン・カーウァイ監督×黒澤明監督をリスペクトした華麗な様式美にある。前作から、さらにアート色を濃厚にした本作では、トニーの衣装デザインに、カーウァイ作品でおなじみのウィリアム・チャンを起用していることからも、カーウァイ作品の影響を強く感じさせるカットも少なくない。そして、スパイ・ノワールならではのミステリアスな雰囲気を放ちつつ、じつにトリッキーな構成で観る者に挑んでくる。
 ロッカールームの前で、何かを待っているように佇むフー。香港らしきカフェで、見知らぬ男からコーヒーを奢られるチェン。そして、洗面所で、ネクタイを結び、ある決心をしたかのように鏡の中の自分を凝視するイエ。冒頭で映し出される不穏さしかない3つのシーンは、何の繋がりもなく、時系列もそれぞれ。まさにバラバラになったパズルのピース状態ではあるが、いわゆる後の展開を暗示したカットである。その後も、クエンティン・タランティーノ監督作のような一見、無意味に見える会話がされたと思えば、ハッとさせられるショッキングなシーンも映し出され、なかなか物語の骨格を掴むことができない。それでも、一定の緊張感をキープしつつ、引き付けられてしまうのはチェン・アル監督による堂々たる演出力。そして、『迫り来る嵐』(17年)のツァイ・タオがハリウッド大作で多く使用されている6K 65mmシネマカメラ「ARRI ALEXA 65」を駆使し、ときにダイナミックに、ときに繊細な心情を映し出す撮影にほかならない。
 うっとりするような映像美に浸るなか、次第に明らかになっていく“自らを偽らざるをえなかった男”の真実。その中において、もっとも象徴的なアイテムとして登場するのが、イエのネクタイである。冒頭だけでなく、さまざまな柄のタイを結んでいる彼の姿が映し出されるなか、最後に日本軍の渡部(なぜか『ワンス・アポン~』で浅野忠信が演じた役名と同じ!)と対峙するシーンにおいては、ネクタイをしていない。そこには何者にも縛られなくなったイエ本来の姿があったといえるのだが、ここでは本作の英語タイトル「Hidden Blade(隠した刃)」の意味も判明する。原題が「羅曼蒂克消亡史(ロマンチックな滅亡史)」であった『ワンス・アポン~』の英語タイトルが「The Wasted Times(無意味な時間)」だったように、タイトルの付け方にも独自のセンスを感じさせてくれるチェン・アル作品。そんな監督の次回作『人魚/Intercross』は、さらにアート色が濃厚になるロードムービーであり、イーボーがふたたび主演を務める。本作のチェン・アル監督、トニーとのコラボにより、役者として一皮剥け、大きな成長を遂げたイーボーが、今度はどのように化けるのか? 次なるコラボによって引き起こされる化学反応に期待は膨らむばかりだ。

◆『無名』公式HP

https://unpfilm.com/mumei

◆『無名』公式X(Twitter)

https://twitter.com/mumeimovie



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