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笠間へGO!!(陶芸家への道〜指導所編)
こんにちは!
先日保育園の卒園制作指導に行った際に
お休みだった園児のために
今日は再び保育園に指導に行きました。
彼女はとっても自由に猫の顔の形のお皿を作り
楽しそうに創造力溢れる一枚を仕上げました。
子供らしさが炸裂していて最高でした!
比叡山からの道は笠間に続いてた!
比叡山でお正月に行われた
ビジョンクエストというワークショップに
22歳の時と23歳の時の二年連続で
参加することによって陶芸家への道が
私の前に開かれたという話を
昨日まで五回に分けて投稿しました。
(下の記事が昨日の記事です)
比叡山から東京に戻ってまず
父に笠間行きを応援してくれるように
お願い&説得を試みました。
父は話をよくよく聞いてくれた上で
入社一年で会社を辞めようとしてる私に
こう言いました。
「会社員一年目なんて
会社にとってはお金をかけて
社員を育てているところで
まだお給料に見合った働きもしてないのに
それでもやめるっていうことを
陽子はわかっていますか?」
耳の痛い言葉でしたが
「わかっています。
そして申し訳ないと思っていますが
私はこのチャンスを大事にしたい。
来年になったらいろんなことが
今と違ってしまうかもしれない。
だから今行かせて欲しいです。」
と私の本音を伝えました。
今振り返ってみても
かなり甘っちょろい私でしたが
あのまま会社に居続けても会社にも
自分にも決してプラスでなかったと
そのことは確信を持って言えるので
やっぱり正解だったと信じてます。
最後は父は承諾してくれました。
笠間に行って陶芸の勉強をすることを
サポートしてもらうことになった私は
2月に指導所の入所面接を受けて合格し、
それから3月末まで会社勤めをして
笠間への引っ越し準備をしました。
東京から出たことのなかった私が
初めて実家から出ることになりました。
豊島区生まれ中目黒育ちの私は、
都会から田舎に行くことが怖くて仕方なくて
向こうでいくらでも買い物できるのに、
便利なところから不便なところに行くことが
心配で心細くて、生活必需品や、
あらゆる調理器具、それこそお玉まで
渋谷のお店で買い揃えました。
その買い物には高校の頃からの友だちが
付き添ってくれたのですが、
買い物して帰ってからの準備や荷造りが
進まないであろうことを分かっていて、
家の中までついて来てくれました。
そして現場監督のように私の横にいて
「はい!手を休めない!動いて!
それが終わったら次こっち!
ほら!手紙読まないっ!!」
と指示を出し続けてくれました。
本当にありがとうまるちゃん!
そこから始まる学びの時間は
何もできなかった都会育ちのコが
「自分の手を使って生きる」人たちだらけの
笠間という場所に行くことによって
「自分の手を使って生きる」ことを
学んだ五年間だったと思います。
ロクロ科の研修生になる
茨城県立工業技術センター窯業指導所の
ロクロ科の研修生になった私は
本当に何にもできない子でした。
ロクロ科の最初の作業は道具作りで、
まず木工作業から始まるのですが、
また木工が本当に苦手だった私は、
やってもやっても全然できないので
結局同期の友だちや先生に
8割くらい手伝ってもらってました。
そこから土練りを学び、
ロクロでの成形を学んでいきます。
ロクロ科の課題はまず小鉢から始まり、
筒のような形の切立(きったち)の湯呑み、
そして湯呑みより大きいサイズのジョッキ、
それから袋物へと続きます。
袋物とは徳利や鶴首と呼ばれる一輪挿しなど
袋のような形をしていて
口の部分が小さくなっているものです。
丸徳利と直徳利と言って
本体の部分が丸い徳利が丸徳利で
本体が真っ直ぐな徳利が直徳利なのですが、
徳利二種類が終わると次は鶴首と言って
首の部分が細長い一輪挿しを作ります。
ここまで難しいものが作れるようになると
最後は難易度の高い急須です!
急須は本体と蓋、そして
注ぎ口と把手の全てをロクロで作り、
それを組み立てます。
これを一年間で作るのですが、
課題がさくさく進んだ人は
何かと何かの課題の間に
丼を作っていたような気がします。
私は進行が遅くて丼は作れませんでした。
ロクロ科研修生の仲間たち
研修生は全部で11名、男性8名女性3名でした。
同世代の20代前半の人たちが多かったですが、
30代、40代、50代の人もいました。
歯医者さんや大企業の営業本部長だった方など
別の仕事をしていた方々がその仕事を辞めて
陶芸の道に入って来るというケースは
当時珍しいことではなくその方たちの熱意は
若者のそれをはるかに凌ぐものでした。
同世代の研修生のみんなもそれぞれ個性的で
いろんなこだわりのある人たちが多かったです。
女の子たちは私よりもいくつか年下で
三人でお弁当を食べたりお菓子を食べながら
おしゃべりに花を咲かせていたことが
楽しかったのを思い出します。
みんなそれぞれに焼き物が好きで、
自分で器を作ることに情熱をかけていました。
ロクロの技術や、課題の進み具合はそれぞれ。
上手くてドンドン次の課題に進む人もいれば、
私のようになかなか課題をこなせない人もいて、
同じロクロ場にいながら作っているものは、
それぞれ違っていました。
ロクロで器を作る時には
トンボという道具(直径と深さを測るもの)
を使って同じ大きさの器を作ります。
みんな同じサイズのトンボを使って
同じコテを使って作るので、
(成形する時に使うヘラのようなもの)
同じ形の器が出来上がるはずですが、
並べて見るとそれぞれの器の形が違っていました。
それぞれ、その人らしい形になるのです。
それは面白いな〜と思って見ていました。
濱田さんは湯呑み職人になるの?
私は小鉢から次になかなか進めませんでした。
みんなが切立の湯呑み、ジョッキ、
そして人によっては丼、と進んでいる中、
とにかくひたすら小鉢を作り続けました。
課題をクリア出来るかどうかは、
先生に自分が作った器を見せて
チェックしてもらいOKをもらえたら
次へ進めるのです。
私はなかなか自分で納得出来ず、
先生に器を見せに行けませんでした。
毎日毎日朝から夕方まで、
ひたすらロクロをひく日々。
沢山の小鉢を作ってようやく
先生のところに行ってOKをもらいました。
そして次は切立の湯呑みです。
またそこからひたすら湯呑みばかりを
作り続ける日が続きました。
思えば夏のお盆休みの頃まで作っていました。
もう誰も湯呑みをひいていない頃に
しつこく湯呑みを作り続ける私に向かって
隣のロクロの研修生が
「濱田さん(私)は湯呑み職人になるの?」
と聞いてきました。
明らかにいじわるを言われたと思った私は
「そんなことないもん!」
と言い返しながらもちょっと凹みました。
「私はこんなに上達が遅くて大丈夫なのかな?」
と自分でも心配になってきました。
でもそのことを先生に話すと
「切立の湯呑みの形は実は一番難しいけど
いろんな形の基本となる形なんだよ。
だから切立がちゃんとひけるようになったら
なんでも作れるようになるんだよ」
と言ってくれました。それで
「自分のやってることは間違っていない」
と思えてうれしくなった私は
そのまま湯呑みの成形に勤しみました。
そう言えばその頃指導所の所長にも
「ロクロが上手くならないんです」
と悩みを打ち明けたことがあったのですが、
その時の所長の答えが
「いいんだ〜上手くならなくても!
ロクロなんか!健康ならば!」
でした。
そんな所長はロクロの名手でしたが
病気でしばらく入院してから
退院したばかりだったからだと思います。
何よりも大事なのは健康!
窯業指導所の所長から
「ロクロは上手くならなくてもいい」
と言われた私はまた少し気持ちが楽になりました。
湯呑みが作れるようになったら
かなりしつこく湯呑みを作り続けた私は
お盆休みが明けた頃から次々と
課題をこなせるようになりました。
先生の言ったことは本当でした。
切立の形をちゃんと作れるようになるまで
しっかりと練習し続けたことで
他の形を作るのが簡単になりました。
私にいじわるを言った彼よりも
上手にひけるようになりました。(多分!)
徳利二種類と鶴首の一輪挿しも
簡単ではなかったものの、
思ったよりも早く作れるようになって、
ロクロが楽しくなって来ました。
ロクロで形作る喜びを
感じられるようになりました。
修了後の進路
もう急須の成形にもOKが出て、
修了制作に取り掛かる頃には、
みんなそれぞれ指導所を修了した後の
進路が決まっていました。
元々いた製陶所に行く人もいれば
弟子入り先が決まっている人もいたし、
実家の窯を継ぐ跡取りという人もいました。
大体みんな行き先が決まってる中、
行き先がまだ決まってないのは数名の少数派。
私もその中の一人でした。
ある時先生が二つの就職先を紹介してくれました。
一つは中堅の陶芸家の方の弟子の仕事、
もう一つは若手の陶芸家の方の
スタップとしてのアシスタントの仕事。
弟子とアシスタントの違いは
わかるようなわからないような感じでしたが、
前者がいわゆる師弟関係なのに対して
後者は一緒に制作する仲間のような感じなのかな?
とその時は理解していました。
そこで研修生の友だちに付き合ってもらって
女子三人で両方の陶房を見学させてもらいました。
中堅の先生の仕事場では
食器や花器だけでなく、オブジェや陶壁など
幅広いジャンルの制作をしていて、
さまざまな技法も知ることができそうで、
「きっとここに来たらすごく勉強になるだろうな〜」
と思いました。
そして何より作品が素敵でした。
若手の方の仕事場はまだ新しいアトリエで、
いろんなことをこれから挑戦していく
可能性に溢れていると感じられました。
同じ女性であることから、
女性の陶芸家の先輩として学べることが
沢山あるような気がしました。
両方行った感想は
「ああ、選べない!」
でした。
手のひらに乗せて見守ってごらん
どちらを選んでいいのか分からなくなって
すごく迷ったし悩みました。
そしてその気持ちを電話で母に伝えたところ、
「どっちにしようか迷った時には
無理に決めようとしないで、
自分の気持ちを自分の手のひらに乗せて
それがどちらに傾くか
じっと見守ってごらんなさい。
必ずどちらかに傾く時が来るから!」
と言うありがたいアドバイスをもらいました。
そして母の言う通りに自分の気持ちを
手のひらに乗せてじーっと見ていたら
私の気持ちは弟子になることに傾きました。
いろんなことを勉強できることで
自分の可能性が広がると思ったし
やはり決め手は先生の作品でした。
作品が素敵だと魅力を感じ、
作品を好きだったことが一番の理由でした。
そんなこんなで一年間のロクロの研修を終えて
春から私は陶芸家の先生の弟子となりました。
*********************
その後私は二年余りの弟子生活を送ります。
その話を明日書けるかどうか
定かではありませんが書く予定です。
もうすっかり自分史になってますが
たまに他の話題も書きながら
気が済むところまで進めていこうと思います。
今日も長くなってしまいました…
ここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた明日!