【アニメ日記】アオのヨハク
やっぱり成功してないと思うんだよな。
何処か、何かズレてる。
当たり前だけど、漫画は静止画だ。
コマ割りとか並びとか、補助線とか色々工夫して動きを表現するとしても、結局最後は読者の想像力に助けられて完成する、マンガ・漫画とはそういうメディア(漫画家の山田玲司氏がYouTubeチャンネルで語ってたけど、その通りだと思う)。
そのマンガ原作で成功した作品をアニメ化するって事は、マンガの時点では空いているスキマをどう処理するかが、当然ながら1つ大きい要素だろう。
時間軸の違いがあるからね。
アニメは、音楽や映画と同じ、割と時間軸がしっかりしてる。視聴すれば、同じ時間軸を共有する事になる。対してマンガは、小説でも同じだけど、時間軸があまり定まらない。読者によって読むスピードにも差が出るし、読者の想像の中の時間(謂わば「脳内時間」)もかなりバラバラだ。言い換えれば、時間軸についてマンガの方が自由度が高いんだ。
「自由」な空間から「不自由な」地表へと着地する時って、何かと困難が伴うものなんだよなー。
同じマンガの中にも、作品によって、そうした表現の余白が大きい・小さいという個体差もあろう。某「アオ-」の原作マンガは多分、それが大きい方じゃないかな。
だとしたらアニメ制作陣はどうするか。
原作が省略してるスキマをどうするか。
1つは勿論、埋めるという戦略があるだろう。「アニオリ」と言われても批判とは限らない。原作ファンを納得させるような、圧倒的な現実感で埋めていく。「お前がこのマンガ読んだ時に想像してた景色は、これだろ?」とぶつける。
ただ、これをやるには監督・脚本・演出・作画スタッフ全てに、技術力だけじゃなく手間も時間も求められる(読者が想像した「以上」のレベルをぶつけないと、ダメだから。勝負なので)。カネもかかる。だから、頑張るシーンと捨てるシーン、もっと言えばアニメ化でカットするシーンを、取捨選択する判断も求められる。これを間違うとグダグダだ。全スタッフが凄く苦労をするのに、結果が評価されないという地獄になる。
もう1つは、埋めないという戦略もアリだ。
アニメ化するけど、なるべくクセの少ない、自然な動きだけに抑える。それで大事なシーンは特に、視聴者が勝手に想像するように誘導する。時には何も見せない空白も用意する。
これはこれで高度なアプローチだけど、声優さんの演技力は活かしつつ、カネと時間を一番食う作画の労力を削れる可能性があり、このメリットは大きい。それでいて視聴者を不満にさせないという。夢みたいだが、不可能とは必ずしも言えない。
岡田斗司夫も言ってたろ。例えば「昔から映画とかでもある手法」「料理の絵と男の顔、2つのカットを順番に見せると、無表情の男が、お腹を空かせているように見える」。「同じ男の絵を、料理ではなく、棺の絵の次に見せると、視聴者にはこの男が悲しんでいるように見える」。
他にも、経過を省いて結果だけ見せる手とかもある(ワザと不自然に、経過の直前までしか見せない、という手もある)。
「歩くシーン」は入れないけど、「別の場所」に移動してるから、歩いたのは当たり前、とか「見た」シーンは設けないけど、あるモノが「無くなってる」から、「お母さんに見られた」のは確実だとか、「キス」も「ベッドイン」も一切見せないけど、翌朝何だか前より仲良くなってるとか。
工夫の余地はある。
誰かがそういう事に挑戦する必要性を、感じさせるんだ。
「失敗は成功の母」だから。
何でもセリフに説明させちゃうのは、悪手だ。アニメなら「画」(絵)にモノを言わせろ。
いや、でも。そういう意味とは少し違うが、アレッ?と思わせる描写が12話に1つあったな。
大樹が戻ったとき、どうしてヒナは1人なのに、夜店の食べ物を手に持ってたんだろう。「荷物見てる(あたしが荷物の番をしとく)」といって大樹を送り出し、ヒナはシートの席に残ったはず。大樹が戻るより前にヒナが夜店にチョコバナナを買いに行ったら、荷物と席が無人になってしまって、不用心だ。ヒナはそんな事しないだろ。
じゃあ、どうして?
答えは、来週をお楽しみに!、ってか。
ハメられてるな。
そもそも来週なんか、あるんだっけ。来期?