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選挙に行く気持ち

顔を知っている人が、本来亡くならなくていいはずと思われるタイミングで亡くなった時、人ってこんなにショックを受けるんだな。

格差の広がりと治安は反比例すると自分は思っていて。
92年、日本人留学生の男の子が射殺された時、私はアメリカにいた。歳も彼と同じだった。
アメリカ人に「日本は安全な国だ」と浅はかな当時の自分が自慢のように話したのを思い出した。
30年たった昨日、当時親の金で絶賛留学中だった自分の、この上から目線のような、日本すごいみたいな、なんとも言えない浅慮な気持ちに初めて気づいた気がする。
自分が他国の人に自慢した「安全な国日本」は、真面目で優しい多くの人々(この期に及んでも私は「真面目で優しい多くの日本人」と書きかけた。やまゆり園でたくさんの人が殺されたこと、入管で人が死んでいること、隠蔽のために自殺した人がいること。その他たくさんの人の死をすっ飛ばして「日本は安全な国」と漠然と思っていた。)の犠牲と搾取の上に成り立ってたんじゃないか。と思ったのは30年たった昨日の自分。
これまでどれだけの人が命を落としても、「日本は安全な国」だとバクッと思ってたのは、無意識に自分はマジョリティにいるから安全、と思ってたからかもしれないなと思った。
自分は外国人じゃないから。
障がい者じゃないから。
だから安全。
マジョリティの頂点にいるような人が命を奪われるのを目の当たりにして、初めて思ったこと。
ほんとに情けないなって思った。

子供が集団生活や勉強などで、困ってることがある時に「それは先生や親に伝えていいことなんだよ。自分の困ってることって必ずどこかで他の人も困ってることだから、『助けや改善を求める』ことって人助けでもあるんだよ」って言うことがある。それを「批判」(そもそも「批判」は「中傷」や「悪口」とは違うよね)と受け止めず、耳を傾け改善に努める社会であってほしいし、政治であってほしい。全ての人が100%満足のいく政治なんて無いだろうし、そんな国も存在しないだろうなとも思う。でもだからこそ、萎縮して沈黙する社会は作ってはならないと思う。社会を作っているのは自分でもあるって自覚しようと思う。

色んなことグルグル考えながら選挙に行ったこと、忘れずにいようと思う。

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