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見送る人。


徒然草 三十二段

九月ながつき廿日はつかの比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍はべりしに、思し出いづる所ありて、案内あないせさせて、入いり給ひぬ。荒れたる庭の露つゆしげきに、わざとならぬ匂にほひ、しめやかにうち薫かをりて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。

 よきほどにて出いで給ひぬれど、なほ、事ざまの優いうに覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸つまどをいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。

 その人、ほどなく失うせにけりと聞き侍りし。


高校の古典の授業で習ったんだと思う。

いや、もう少しあとで自分で読んだんだったか… いつこの段を知ったかは定かではないのだが、大して面白いと思ったことのない「徒然草」の中で、この段だけは妙に印象深い。

「跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。」

(最後まで見る人がいるとは《見られている人は》気づいていないだろう。こういうことは、ただ、日々の心遣いによるものだ)

ここがすごく心に残った。
光景を想像すると、何かしみじみとした思いがした。そういう心映えの人でいたい、と素直に思った。

それ以来、誰かと別れるときはふとこのことが心をよぎり、あっさり踵を返すのではなくできるかぎりは最後まで見送るようにしている。
(嫌いな人にまではしないけどね!・笑)

電車で先に降りたとき、後になったとき。
お店を出るとき、見送るとき。
道を二手に別れるとき。
我が家に誰かが訪れたとき。誰かの家を訪れたとき。

顔が見えるかぎりは見送る。手を振る。
向こうが気づかなくても。
気づいて、手を振り返してくれると嬉しい。
逆に、帰り際に振り返った時、まだ相手がこっちを見てくれていると嬉しい。

心を贈る、贈られる、そんな瞬間。

たいていの人はそこまで多分、考えてはいないと思う。どうかな、あえて聴くことでもないから聴かないけど。

あるとき、大好きなアーティストさんと電車に乗り合わせ、たいした話もしてはいなかったのだが、先に降りたその人が閉まった扉をくるりと振り返って、走り出した電車の窓越しにヒラリと手を振ってくれたとき、あぁ、この人のファンでいてよかったな、と思った。


別に必要なことではない。

ちゃんと、じゃあね、と挨拶はしてるのだから。振り返らなくてもいい。振り返れないときもあるだろうし。
それだけに、そんな瞬間にその人の本当の心映えが現れる気がするし、心がホッと温かくもなる。

二年近く前に亡くなった大切な友人がいる。

彼女がまさにこういう心映えの人だった。
姿がある限りはいつまでも見送る人。別れたあとふと振り返るとまだにこにこ笑ってる。もういいよ!とお互いに笑うまで。

彼女とこの話はしたことがないし、徒然草の話もしたことはないから、どういう経緯、気持ちだったかは聴いたことがない。ただ、彼女の人柄を思うと、自然なことだったのではないかと思う。

念願叶って開いたカフェでも、接客中でない限り、お客様を外まで見送って長いことそのまま外に立っていた。多分、角を曲がるまで見送っていたんだろう。
私にもいつまで経ってもそうするから、もうしなくていいよ、と言ったことがある。わかってるから、と。
そう言ったあとからは、厨房からバイバイ、と手を振ったあと、ここでゴメンネ、と言うようになった。

彼女がこの世を去るときはあまりに早かったので、そんなふうに心残すことなく見送ってあげることができなかった。

以来、誰かを見送るたびに彼女のことを思い出す。
道の向こうでにこにこ笑ってる顔を。
垂れ目の笑顔を。

きっと彼女がもっともっと見送りたかった人の数を思いながら、これからも私は手を振り続けるだろうと思う。

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うのじ。
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