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「舞鶴雪月花」が描く命の儚さと煌めき(2012年3月平成中村座・再録)


初出(2012-03-07):https://ameblo.jp/uno0530/entry-11185784301.html

サルベージシリーズ。
2012年3月浅草待乳山・平成中村座での「舞鶴雪月花」評。
3/11、東日本大震災から丸1年のその日、終演後に厳粛な追悼式を行った中村屋。「命」への深い思いを感じる踊りでした。

三月中村座、昼の部の切狂言は萩原雪夫が先代勘三郎のために書いた舞鶴雪月花である。

この雪月花を今月かけよう、と決めたとき、当代にその思いがあったかどうかはわからない。
だからこれは、見る側の勝手な感傷である。
それでも、初日に見た舞鶴雪月花からは、命を愛おしむ思いを強く感じ、結果的に、命を悼む演目になっている、と思った。

さくらは七之助が鮮やかそ桜の柄の着付から、引き抜きで葉桜の着付になり、華やかに明るく舞うのだが、そこには季節の移ろいがある。「花の命は短くて」という言葉を想起するほど、あっという間に踊り終える。そこには、はかないからこその命の煌めきがある。

暗転ののち装置が秋に変わり、スッポンから、松虫の親、仁左衛門が現れる。その横顔には強い憂いがある。花道での踊りの中に、松虫のさみしげな顔と命の儚さを唄う詞章がふと耳に残る。
子どもの松虫を見て一瞬、顔を輝かせるが、ひとしきり踊ったあと、再びスッポンから2人で消えていく時、そっと子どもを抱く眉根にはまた強い憂いが浮かぶ。
短い生を哀しむように。

再びの暗転から、一気にコミカルな雪達磨の踊りへ。勘三郎。
命を持った雪達磨が人間に恋をして、何とか想いを伝えようとするのだが、陽が差し、雪達磨は溶けてその命を終えていく。
「溶けたくねえ」と雪達磨が呟く。必死に雪をかきあつめ、身体に顔に貼り付けるが間に合わない。顔がぐにゃり、脚がぐにゃり、手がぐにゃり…やがて消えていく。残るのは残骸と朝日だけ…。

この勘三郎に、ペーソスが溢れる。
おかしみより先に哀しさが立つ。
溶けたくない、は、死にたくない、だ。必死であればあるほど、哀しく、少し、おかしい。観客は笑いながらもほろっとする。切なさの残る幕切れ。
勘三郎が醸し出す哀感の強さ。

三景ともはかない命を惜しみ、愛おしんでいる。その煌めきを描いている。
踊りの美しさ、楽しさの外側にまず、大きな、命を悼む思い、慈しむ思いを私は感じるのだ。

作者の萩原雪夫にそうした意図があったかどうかはわからないが、先代ゆかりの演目としてこの作品を選んだ勘三郎の意識には「三月」であることが多少なりとも作用したのではなかろうか、とそう思うほど。

昼の部は14時35分頃の終演。
「そのとき」は10分後。私は11日のそのときを、恐らく中村座から出たあたりで迎えるだろう。
さくらの、松虫の、雪達磨の、消え行く命への惜別の思いを胸に、祈りを捧げたいと思う。

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うのじ。
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