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「あのとき、何してた?」~東日本大震災から9年

「あのとき、何してた?」

毎年、毎年、3/11にする会話である。両親とだったり、友人とだったり、同僚とだったり、相手はいろいろだけれども、必ずする。そうすることで、自分の中で否が応でも薄れていく記憶、感覚を残しておこうとしているのだと思う。

1.私の「2011年3月11日(金)14時46分」

その時は会社で勤務中だった。

まず、激しく揺れた。関東育ちなので震度3~5くらいはしょっちゅう経験しており、地震というだけではほとんど動じない。だからこの日も最初は「ああ、地震だ…ちょっと大きいね」くらいだった。
だが、この時ばかりはそれでは済まなかった。いつまで経っても収まらないように感じられ、フロアがざわついた。悲鳴も上がった。
確か、ゆれくるコールなどのアプリはあったが、今のように政府や自治体のレベルでの緊急地震速報の仕組みはまだなかったと思う。特に大きな音が鳴った記憶はない。飛んでいるだけかもしれない。

急いで机の下に潜る人も多かったが、私は直感的に潜らなくても大丈夫とわかったので、フロアのラテラルが倒れないか注視しながら机の脇に立っていた。

とにかく長かった。

ようやく収まったと思われた頃、地震が苦手な関西出身の同僚が大騒ぎして非常扉を開けに走ったり、みんなに避難しようと呼びかけたりしているのを横で聴きながら、パソコンでTwitterを開いた。このころはまだ今ほどの災害時の情報発信は行われてはいなかったが、それでもフォロワーは全国にいる。おそらくはマスメディアよりも早く最新の情報がわかるという確信があった。
本来は勤務時間内の私用閲覧は禁止だったがそんなことは言ってられなかった。そして確信どおり、その後もTwitterは最新の状況を知る、私にとっては最も有効なツールになった。今もそれは変わらない。玉石混交ではあるが。

同じフロアの営業部署ではテレビをつけていたので覗きに行く人もいた。
私の勤務していたフロアは6階建ての3階だったのだが、6階は横揺れがひどかったらしく、窓からふと玄関前の広場を見おろすと6階の部署の面々だけが表に逃げていて、なんで逃げないの、とこちらに向かって叫ぶ人もいた。

そうこうするうち、テレビを見ていた人達から悲鳴があがる。向かってみると、そこにあったのは津波の映像だった。無残だったが目も離せない。皆で息を呑んで見守る。
Twitterでは停電、電車の運休の情報が次々に飛び交っている。

これはまずい、かなりまずい。
おそらくすぐに電車は止まる。
今日のうちには帰れなくなる。

総務からの帰宅命令がなかなか出なかったので、近くのホテルをネットで押さえた。それに倣って同僚達も慌てて宿を押さえたり、帰りのルートを検討したりし始める。
16時過ぎだったかそのくらいにようやく帰宅命令が出たが、とっくに首都圏内の電車は止まっていて、帰るに帰れない感じだ。
私は宿を取ってしまったので急ぐ必要はなく、ホテルにチェックインできればいい。いざとなれば歩ける距離のホテルだったし、近くに大きな大学病院があるため会社の停電はなかったので、近い地域同士で集まって帰り始めた同僚を見送りつつ、そのまま仕事をしていた。

よく考えたらいくら繁忙期だからといってあれはおかしな行動だった。
いつもどおりでいることで、どうにか平静でいようとしてたのかもしれない。

とりいそぎ最寄りのコンビニに走り、とりあえず夜のための食料確保をもくろむが、すでにかなりの食物や飲料はなくなっていた。パニックにまでは至らないがその集団心理は少し怖かった。
下着とスキンケア用品、電池、それに残っていた調理パンやカップ麺、水のペットボトルなどを買ってフロアに戻り、19時まで仕事をしてからようやくホテルに向かうことにする。
電車は止まったままだったし、タクシーは長蛇の列だった。同じ方向に自宅のある上司とともに歩くことにした。

たまたま普段からヒールは履かずに出勤していたので(これは今でも変わらない)、足は大丈夫だったが、この時以来、フロアにスニーカーを置く人が増えた。
首都圏の帰宅支援マップも、今ではオフィスに備えてある。


2.夜に震える

会社から四ツ谷駅まで15分、さらに新宿まで15分ほどだったか…黙々と整然と歩く人波や渋滞しつつ進む車を眺めながら、首都圏直下の地震だったらこんなに冷静にみんな歩けただろうか、信号が消えた闇の状態だとどうだったろうか、女性だけで安全だったろうか…と上司と話す。
いずれも答えは不明だが、おそらく無理だったろう、パニックが起きただろうね…とふたりの意見は一致した。

新宿駅近くでさらに西に向かう上司と別れ、私は大久保へ向かった。ホテルは大久保駅そばのビジネスホテルだった。とにかく近く、安く、空いてるところを押さえたのだが、チェックインしようとすると、フロントの男性は電話応対で手一杯だった。
ひっきりなしに電話は鳴り、出るたびに「空きはない」という回答を繰り返す。みな、帰宅困難者となったのだ。

合間を縫ってチェックインしたが、急ぎ押さえた部屋がツインルームのシングルユースで少し高かったからか、シングルが空いたからと安い部屋に変更してくれていた。古くて、バスも共同でけして綺麗なホテルではなかったが、そんな風に切羽詰まった中でも目配りのあるホテルで、なんだかホッとした。

親とはこの段階でまだ直接の連絡は取れていなかった。

家では両親とともに暮らしていた。今もだが。
どちらともメールは不通、電話も通じない。まだスマホは使っておらず、ガラケー時代。
災害時伝言ダイヤルはすでにあったが、被災地優先に…というアナウンスもあったし、何より高齢の両親があの複雑な仕組みを使いこなせる気はしなかったから、試みもしなかった。

公衆電話があったので家にかけてみたが、やはり出ない。埼玉県での地震の規模から言って特に心配はないはずだが、不安にはなる。

後で知ったがこのとき、実家の一帯は停電していた。
そりゃ家に電話が繋がらないわけだ!

父とはその後で何とかメールで連絡がついた。
直接の電話は夕方になっても繋がらなかった。
父は帰りがけに帰宅困難者となり、勤務先近くの区の避難所(体育館)で一晩過ごすことになったらしい。だいぶ腰が辛かった、と翌日、愚痴を言っていた。雨風しのげるだけありがたい、という気持ちもあったようだが、肉体的な辛さというのはそういう気持ちとは別の話のようだ。

母とは連絡がつかないままだった。
ふと思いついてSMS(ショートメッセージ)を送ってみたところ、ようやく返信があった。停電してること、太陽光蓄電型の庭のランプを部屋に持ち込んで明かりにしてること、無事であること。
携帯の電池が持たないので電源を切って寝る、無事ならもう連絡はいらない、とのメッセージ。

もともとお互いにドライな一家ではあるのだが、特に大丈夫?みたいな問いかけもない、必要事項だけのやりとりに少し笑った。

この震災を機に、携帯キャリアを越えてSMSが送れるようになったのはこの時の教訓からなのだろうと思っている。

その後、駅前の「やよい軒」に向かい、確かハンバーグ定食だったと思うのだが、夕食を食べた。やっとほっとした。
大久保駅前はやけに明るかった。どの店も早仕舞いするでもない様子で(原発停止と電力供給、物流停止の問題が表面化したのは翌日以降)、特に風俗店とパチンコ店はまったくもっていつもどおりだった。

不思議な気持ちがした。
あんなに恐ろしい津波に巻き込まれ、いまだに寒い中、震えている人達がいるのに。こんなに東京は明るい。

走らない電車。渋滞する道路。気忙しく歩く人達。繫がらない電話。
そして、ホテルの部屋に戻っても数十分、数時間ごとに繰り返される余震に震えた夜が、非常時であることを忘れさせることはなかったけれど。


3.帰りたいのに帰れない

人間はなかなかに逞しい。

靴を枕元に起きジーンズのまま横になり、余震にどきどきしてるうちにそれでもいつの間にやら眠っていたようだった。
前日コンビニで買っておいたパンやミニトマトなどで朝ごはんを済ませてチェックアウト。
電気を少しでも使わないようにしようと冷蔵庫もエアコンも切って寝たので、トマトはぬるかった。味はあまり覚えていない。トマトの赤だけが記憶に残っている。

JRも地下鉄も運転は再開していた(あの余震の中、夜中に点検作業をしていた方々のことを思うと感謝しかない)が、ダイヤは乱れていたし、何よりも前夜帰宅できなかった人々が一斉に動いたため、新宿駅は大混乱を来たしていた。

新宿から大宮へ出るための埼京線には待っても待っても乗れず、上野へ回ろうと丸ノ内線から銀座線に乗りついで移動する途中、今度は上野駅で入場規制されていると知り、神田駅へ。そこから京浜東北線に乗ることができ、通勤電車並の混雑、余震でのたびたびの停止の果てにやっと大宮まで辿り着く。
朝10時過ぎに出て、すでにお昼だった。

今度は大宮駅が大混乱…。
埼玉在住で都心勤務者が多いということは、こんなときの人の流れが都心から一方的に起こり、漏斗のように先細った受け入れ口へ人が一気に雪崩込んでしまって詰まってしまうのだと知った。
職住近接の大切さはよく言われるけれど、このときほど痛感したことはない。

大宮駅構内のいたるところに座り込む人々。
震災の影響で交通も物流も止まり、エキナカのルミネを始め開けていない店も多かったのだ。

これはもう、当分、帰れない。
でもなんとか帰りたい!
家の布団が恋しかった。安心して眠りたかった。

だが、ジタバタしても仕方ない、作戦がいる。
覚悟を決めて駅から少し離れたところまで、お昼を食べられる場所を探す。
何はあっても腹が満たされねば考えもまとまらぬ。

ウロウロして目に入ったもの、それは、昨夜もお世話になりましたね、の「やよい軒」!

私の震災の救世主は「やよい軒」と言って過言ではない。
ほっと一息、何の定食だったかは忘れたが、さあ、食べよう!としたところに店員さんの大きな声が響く。

「今日はこれで閉店です!」

ええ~?なんで?と思ったら、なんとご飯を炊ききって、白米が尽きてしまったそうだ。タッチの差だった。
本当はこの日の分が新たに入るはずが届かなかったらしい。
店員さん達はてんやわんやであった。

二日間お世話になったやよい軒、ほんとにありがとう。


その後、何とか電車に乗り込め、夕方近くようやく帰宅出来た。その時間でも車内はギュウギュウだった。

停電は終わっていたし、部屋の中も多少、本の山が崩れたぐらいでほとんど散乱はなく、両親も疲れてはいたが体調には変わりなかった。
安堵してお風呂に入ったあと、気絶するように眠った。

翌日曜日は新橋演舞場での観劇予定を入れていたが、もはやそれどころではなかった。前日、花粉症の薬を飲めないままウロウロしていたせいで、頭に緊箍児をはめられたような頭痛に襲われていたのだ。月曜日の出社は任意でいい旨、会社からもメールが来ていたので休むことにして、日曜は死ぬほど眠った。

眠った。


4.うまし東北、うるわし東北

火曜日から、自分の周りはほぼ通常通りの生活に戻った。
交通網の寸断や乱れはあったのと、計画停電によって間引き運転が行われていたのとで、時差通勤がしばらく認められたり、繁華街の営業時間が短縮したり、蛍光灯が間引かれたり…そんなことはあったが、生活に支障のない程度だ。

余震の嵐はまだまだ続いていた。
一週間ほどした確か土曜日、日中に歩いていてもよろけるほどの余震(茨城震源だったと記憶する)があったときにはさすがに肝を冷やした。周りでは地震酔いに悩む人もいた。

あらゆるエンタメは自粛の方向に向かったが、何とかいっときで済んだ、と思う。被災した方、交通網の寸断で来られない方への払い戻しはもちろんあったし、東北での様々なイベントはなくなったが、それ以外の場所では時間が経つにつれ、むしろエンタテインメントによって力づけようという動きになっていったし、また、被災地以外の人間こそがきちんと働き、経済を回し、支援をしていくのだ、そんな言葉がどんどん見られるようになっていった。

自分の生活のなかでも、色々なことはあったがそれらも「日常」の範囲だった。様々な不便はあったろうが、9年経ってそういうことはもう憶えてはいない。細かい日々のあれこれに紛れていってしまったのだと思う。

あの日、一気に津波に押し流されすべてを喪った人々に比べていったいそこに何の辛さがあったろう。

自分の日常を取り戻したあと、福島や岩手に暮らす友人の安否を確認し、物流回復後、送れる物資は送った。寄附もした。都内のアンテナショップをめぐり、買えるだけのものは買った。そういう形でしかまだ支援はできなかった。

気持ちに比して、現地に足を運べるようになるには時間がかなり必要だった。

やっと岩手へ行けたのは2013年の秋だった。平泉、久慈。
久慈では三陸鉄道に乗った。田野畑で寸断された線路に、重機が織りなす海岸の光景に、押し流された家々に、溢れるブルーシートに絶句した。

時間がかかった。いや、かかっている。思った以上にかかっている。今でもまだ苦しい日々を送る人々がいて、まだその復旧の道は続いている。


そうして流れていった日常でも、震災当日からの3日間のことは…もちろん細部は曖昧だけれど…ここに書いたようなことはいまだに鮮明に心に残っている。
というよりも、語って、心に残している、というほうが正解だろう。

四ツ谷から新宿まで歩いた、夜の寒さ。あの足取りの重さ。
ほとんど何もなくなっていたコンビニの棚。
「これで閉店です!」と響いた、店員の声。
ベッドに横になってひっきりなしに揺れるから、なかなか寝付けなかった夜。不意に、あの人は無事だろうか、この人は?と思いだしては飛び起きた。
帰ろうとしてもなかなか帰れない焦燥感。ただ「会社から家に帰る」だけのことがまるで重労働のように思われた時間。
すれ違う人のくたびれ果てた顔。
テレビに溢れる津波の映像の恐怖。
Twitterに溢れた、助けを求める声。


あの時の気持ち、恐怖、驚愕、哀しみ…全て忘れてはならない、と思う。


先日、阪神淡路大震災発生当時の記憶をまとめた。

ここにも書いたとおりで、私の被災地、被災された方々へのスタンスはこの当時から一貫している。


被災しなかった、元気な人間のできることは、まず何より自分の日常をしっかり生きること。
可能であれば、落ち着いた頃にその土地に訪れること。ボランティアができなくても、その土地でなにがしかの経済活動を行うのでも十分、その土地のための力になるんだということ。
彼らが自分たちの力で立ち上がるために。

そして何より、忘れないでいること。


中学から高校にかけて、たった3年だけれど青森に暮らした経験があるせいか、東北が好きだ。シャイな東北の人達の口数の少なさ、構わないでいてくれるのに気遣ってくれる、ぶっきらぼうなやさしさが好きだ。

2013年の岩手のあと、2015年には福島、秋田、宮城へ。
それ以来毎年、東北地方のどこかには足を運び、短い時間ではあるが、その土地の美味しいもの、美しいものを見つけている。

それができる今が嬉しい。

うまし東北。
うるわし東北。

忘れずに、語ること。
そして、できる支援を止めないこと。

いつか、支援なんて頭から忘れ去り、ひたすらに東北の良さを堪能できる日まで。

あの日のことを思い出しながら、今年も改めて誓う。
3月11日。喪われた多くの命に祈りを込めて。

いただいたサポートは私の血肉になっていずれ言葉になって還っていくと思います(いや特に「活動費」とかないから)。でも、そのサポート分をあなたの血肉にしてもらった方がきっといいと思うのでどうぞお気遣いなく。