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25年前の記憶。
その日の気温の記憶は全くない。
天気はとてもよかった。でも、なんとなくうっすらけぶっているような空気の記憶は恐らく雪に反射された光のせいだ。
長野まで友人達とスキーに行ったのだ。
大人になってから初のスキーで、ぎゃーぎゃー言いながら、でも意外と滑れて嬉しかったり、夜はみんなでご飯食べて呑んで、確か蜂の子やらザザムシやらを食べるの食べないの大騒ぎしたり、カラオケでひたすら佐野元春とフリッパーズギターを歌いまくったり、そんなぼんやりとした思い出がある。
ぎりぎりまで滑って、長野から…まだ確か新幹線はなかったので、特急で東京に戻る組と関西方面に戻る組とに分かれたんだったか…ちょっとそのあたりはもうぼんやりしているのだが、ともかく、駅のホームで関西組を見送ったことだけは覚えている。
バイバイ、またね!と約束して。
当時、調布市内に一人暮らしをしていた。
スキー板はレンタルだったので、ウェアだけ、それでも大きな荷物を抱えて帰宅し、泥のように眠り、むくりと起き上がったときにはもう昼だったと思う。
曇りだった気がする。このときのことを思い出すといつも部屋の中に差し込んだ少し鈍い光が蘇る。
テレビをつけて飛び込んだ映像に愕然とした。
なんだ、この大火事。
阪神淡路大震災は揺れとそれによる建物の倒壊はもちろん大きかったのだが、より悲惨だったのはその後の火災だ。当時、今ほど震災災害に対する管理体制が、これは神戸に限らず全国どの自治体もだったと思うのだが、整っていなかった。ここからしばらくはとにかく救助が行き届かない状態が続いていて、SNSも今ほど発達していなかった(インターネットすら一般的ではなかった)時代で、現地の安否確認にもひどく時間がかかった覚えがある。
事態を把握してから、友人に思い至った。
前日、手を振って別れた友人夫婦がまさに神戸市長田区に住んでいた。
ぞっとして電話をかけてみるが当然ながら繋がらない。
伝言ダイヤル(というものが当時はあった)を使うも連絡はない。
彼らとはSNS(ニフティサーブというパソコン通信サービスで知り合った…TwitterもFacebookもない、携帯電話も今ほど普及していない、そんな時代だ)で繋がっていたので、コミュニティの仲間と逐一、連絡を取る。
きっとそんな場合じゃないんだと言い聞かせ、みなでじっと待った。
1カ月ほどで彼から発信があったときはほっとした。
彼自身や身内には死亡者はいなかったし、彼の住居も無事だったそうだが、周辺には大きな被害があったと聴く。あまり彼も細かいことは語らなかった。
その後、春ごろ、そのSNSの仲間で集まって神戸へ向かった。
ポートピアで働いている仲間がいて激励も兼ねて、現地をみんなで見に行こうという趣旨だったと記憶している。
ポートピアの周辺は道路の液状化が問題になった地域だ。しばらく不通になって、復旧したてのころだったが、車で走りながらそのうねった地面を見て皆で沈黙する。コンクリートとは、地面とはこんなに脆いのか。
東日本大震災で千葉県に起きた液状化のニュースを見たとき、阪神淡路の教訓は活きてなかったんだな…とふと思った記憶がある。自分の身に起きないとわからない、と言うのはもうきっとどれほど共通の経験を得ても人間が変われない部分なのだろう。
ポートピアでの皆での食事会は明るいものだった。
笑った。被災した友人も含めてとにかく楽しく過ごした。
心の内に見た光景…あちこちに残るブルーシート、いまだに傾いたままのビル、うねった地面…を残しながらも、会話は明るく弾んだ。
現地の友人は笑顔で「来てくれてありがとう」と言った。
同じころ、私はこのコミュニティとは別に、宝塚歌劇のコミュニティにも参加していた。月組、花組のファンだった。
この年、花組のトップスター・安寿ミラさんの退団が決まっていて、1月公演は宝塚大劇場での退団公演だったのだ。当然、劇場も被災したため、宝塚での公演は1/16までで中止になり、代替として梅田芸術劇場(当時、劇場・飛天)で3月に入ってから2週間、上演された。
宝塚は劇場機構が壊れたり、花の道が割れたり、周辺の木造建築が倒壊するなど大きな被害を受けた中、2月には中日劇場での星組「若き日の唄は忘れじ」、バウホールの「ロミオとジュリエット」から公演を再開していた。
このバウホール公演を見に行っている。神戸に行ったのと同じタイミングだったかどうかは覚えていないのだが、恐らく別のタイミングだったと思う。
大劇場には入ることはできず(復旧工事中だった)、あちこちでコンクリのひび割れた花の道を暗澹たる気分で歩いた。
阪急電車から見るとブルーシートが不思議と片側に偏っている。ちょうど線路を挟んで活断層が分かれていて、被害に大きな差があったというような話を地元の方に聴いた。自然は平等でもなんでもなくて容赦がないんだな、と震えた。
遊びに来て本当によかったのか…と鬱々とした気持ちでお昼ご飯を食べようと入った喫茶店で、お店のお母さんに猛烈な歓迎を受けた。来てくれて嬉しい、と。現地を見に来て、状況を知ってくれて嬉しい。たくさん食べて行って、買い物していってね、と。
この言葉に涙が出た。
来てよかったんだ、とこちらが励まされてどうする、と思いつつ、泣いた。
行ってよかった、見てよかった。
一度はコミュニティに戻ってきた友人だったが、しばらくしてから、皆があまりに普通に過ごすさまを見ているのが辛い、と離れていった。一向に復旧の進まない周囲の状況との乖離に気持ちの折り合いがつかないようだった。
その彼が、こちらを責めるではなく、残した言葉が今でも心に残っている。
「普段通りに生きて欲しい」
「神戸に遊びに、観光に来てお金を落としてほしい」
同情はいらない、いつか僕らも元に戻るんだから、と彼は言った。
(そして言葉のとおり、1年ほどしてそれまでどおりの付き合いは無事に再開した)
大きな災害が起きるたびに自問自答も繰り返すけれど、この神戸、宝塚での経験、そして友人の言葉がいつでも蘇る。
被災しなかった、元気な人間のできることは、まず何より自分の日常をしっかり生きること。
可能であれば、落ち着いた頃にその土地に訪れること。ボランティアができなくても、その土地でなにがしかの経済活動を行うのでも十分、その土地のための力になるんだということ。
彼らが自分たちの力で立ち上がるために。
そして何より、忘れないでいること。
あの日以来25年、心に置いていること。
喪われた多くの命に心から祈りを捧げる。
1995年1月17日5時46分。
阪神淡路大震災のその日に、25年前の記憶を辿る。
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