物乞いとの対話

このノートを書くために何度も下書きをしました。細部に注意したり、背景を明確にしたり、自分の感情の流れを追ってみたりと色々な書き方を試しました。しかし、どれもうまくいきませんでした。なので、もうわかっている事実と自分の中に残っている感情だけを並べていきたいと思います。

先日、僕がバーガーキングのボックス席で一人勉強をしていたところ、突然知らない男が目の前に座ってきました。座る男の前には赤いトレイが置かれ、中央にはハンバーガーが一つだけポツンと乗っていました。
そして、男は大きい目で僕を見つめると、チェコ語で何かを話し始めました。けれどチェコ語を話すことができない僕は彼が何を言っているのかわかりません。僕はスマホで翻訳アプリ開き、男に渡しました。男は人差し指で一文字づつゆっくりとキーボードを打ち始めました。

「子供が四人いてお腹を空かせて家で待っている。子供達のためにハンバーガーを買ってくれないか」

画面にはそう書かれていました。男が物乞いでした。そう分かると男の全てが汚く思えてきました。くすんだ肌の色、艶のない爪や髪、埃だらけのコート、さっきまで見えていなかったものが見えてしまいました。また男の匂いにも気がつきました。工業用の油を酸化させたようなその匂いは鼻の奥に溜まり、僕は引き起こされる気持ち悪さをどうにか抑えながら、返事をタイプして男に見せました。

「お金はない。ハンバーガーを買ってあげることはできない」

僕は嘘をつきました。本当は親のお金が口座に何十万も入っていて、デビットカードで幾つでもハンバーガーを買うことはできました。でも僕は買ってはいけない気がしました。物乞いにお金をせがまれ、渡すことが間違っているような気がしたのです。男は僕のスマホを指差しながら、もう一度翻訳アプリを使わせてくれと訴えました。画面ロックを解き、スマホを男に差し出しました。けれど、今度はスマホを手から離し、男に渡すことをしませんでした。取られてしまう気がしたからです。スマホを強く握る僕の指が男の手のひらと重なり、男の乾燥し、ボロボロと剥がれ落ちかけている皮膚に触れると、耐えきれない悪寒が僕の中を走りました。

「じゃあ俺の分だけでも買ってくれないか」

画面にそう書かれているのを見た瞬間に、僕の脳みそのスイッチが入り、あらゆる思いが頭の中を駆け巡り始めました。
子供がいるという嘘をついて物をもらおうとしたのか。本当に苦しんでいる子供達に失礼だと思わないのか。あり得ない。気持ち悪い。汚い。離れて欲しい。間違っている。
僕は男に言葉ではなく睨みつけることで返事をしました。
僕の視線で察したのでしょう。男は僕が何も買う気がないことがわかると、目の前に置いてあったハンバーガーの包み紙をあけ、食べ始めました。小さなハンバーガーはすぐに男の口の中に消えていきました。
食べ終わった男はもう一度僕の目を見ましたが、先ほどと変わらない僕の睨みから望みがないことを確かめ、立ち上がり、三つ並ぶゴミ箱を一つ一つ掻き回した後、店から去っていきました。

僕は男が出て行き、店の扉が閉まった音を確認すると、すぐに洗面所に行き、蛇口を捻りました。ドバドバと流れる水で手を、手首から指先まで丁寧に何度も何度も石けんで洗いました。手を洗い終えた時に男の匂いが鼻の中に残ったままであることに気がつきました。店から去れば消えるかもしれないと、荷物をまとめ外に出ると、夜の街を歩き始めました。しかし、匂いは消えず、何度となく蘇り、その度に僕は吐き気を感じました。

匂いに苦しみながら、歩き、男との対話を思い出していると、そのあらゆる点が矛盾していたことに気がつきました。そしてその矛盾は僕自身の言動や行動にあったのです。
僕は男が嘘をついていたことに怒りを感じました。しかし、僕だって同じように男にお金がないと嘘をついていたのです。二人の嘘が異なった種類の嘘であることを願い、それぞれについて考えました。しかしそれは僕をより悪い地点へと追い込みました。男の嘘は生きるため、食料を得るために編み出された作り話でした。一方で僕の嘘は何だったのでしょうか。何のための嘘だったのでしょうか。嘘をつきハンバーガーを買わなかったことで、僕は何を得たのでしょうか。
また僕は、男の嘘の内容にも自分が怒りを感じたことを思い出しました。貧しい子供を利用して得しようとした男が徹底的に間違えた存在に感じたのです。しかし、どうでしょう、子供ために怒りを感じながら、僕は彼らのために何かをしていたのでしょうか。怒る権利があったのでしょうか。僕が男の嘘に怒りを感じたところで、過酷な環境にいる彼らの生活が改善されることはないのです。

どこまで歩いても男の匂いは何度も蘇りました。匂いを感じるたびに男が周りにいるのではないかと立ち止まり辺りを見てしまいました。
物乞いの男に対して自分が感じた強烈な嫌悪感。匂いと共に思い出すその感情は自分が思っていた自分とは異なっていたことを僕に見せつけました。僕は自分は物乞いやホームレスといった人たちに偏見を持っていないのだと長い間信じていました。しかし、それは間違った認識で、ただそのような人たちを自分の世界にはいないものとしてみなしていただけだったような気がするのです。ひとたび自分の世界には存在しないはずの物乞いという男が登場した途端に、僕は男を異物とみなしました。自分の平和を邪魔するものと認識し、睨みつけ、排除しました。

トラムの駅につき、やってきた路面電車にに乗ると、乗客は僕一人でした。路線上の各駅に停車し、扉が開くたびに、自分の鼻の中に蘇る匂いが、車両の外からきているのかもしれないと疑い、男が乗ってくるのではないかと怯えながら、開いた扉の向こうの暗いプラットフォームを見つめまひた。怯えている自分がいる一方で、その怯えている自分を受け入れられない自分もいました。自分がどこまでも弱く、曖昧な存在だと突きつけられていることを感じました。

これまで何のために勉強してきたのだろうか。現実世界に放り出された瞬間、僕は躊躇もなく男を傷つけました。男が完全に間違っているのだと、何も疑いませんでした。適当な知識を掘り出しては男を排除する理由として使いました。向き合い方を変えなければ生きていけないかもしれないと思った出来事でした。


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