なぜ「それ」を阿弥陀如来と呼ぶのか2(ツー)
俺はなぜ俺なのか?
そう思ったことはないだろうか。
小中の同級生に、エゲツないほど金持ちの家がある。
大阪でもわりと一等地と呼べるような場所に土地を持ち、そこに建っている古いが小綺麗なビル数軒の賃料だけで一家全員を養えるばかりか、所有するビルのひとつでは、1階で親戚が趣味で始めたような飲食店を経営させている。ビルの賃料収入に比べればたいして儲かってなさそうに見えるが、いわゆる「地代が乗った味」というやつで、他の貸店舗には真似できないほど原価率が高く、人件費もかけられている。つまり他店に真似できないほど良い食材を、手間ひまかけて調理している。当然、あり得ないほど安くてうまい。
まさに一族郎党を「所有」というフィクションで食わせている家がご近所さんにいた。
そういう社会階層を幼い頃から眺めて育ってきたせいか、なぜ俺は資本家の家に生まれなかったのか? という幼稚な疑問を起点として、現代で是とされている価値観と、それに向かって遮二無二走り続ける「この俺」を疑う旅が始まったように思う。
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ところでニート(準ニートやニート予備軍も含む)は依拠できる「フィクション」が少ない。
お金というフィクションに熱を上げることも、家族を作り遺伝子を残すというゲームにハマることも、職業人として自らの生に与えられた使命を全うするというストーリーを演じることも難しい。
あるのは巨大な、強烈な自己である。
食卓を、いつもの散歩道を、トイレを、ただ自分が「自分」をしているだけであることに毎秒気づかされる。ニートはどこまでもノンフィクションな、徘徊する肉の塊のようなものなのかもしれない。
それは俗世で信じられているすべてのフィクションを捨象し、真理に肉薄できる数少ない機縁であろうことは、疑いようがないだろう。
発狂も絶望も虚無主義も、ニートの友達ではないのだ。
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それにしてもなぜお前の六根(眼耳鼻舌身意)から生まれた感覚と、俺の六根から生じる「これ」が混線しないのか? 俺と法(ダルマ)とは一如ではないのか? ある程度修行の段階が進み、この問題に真正面から立ち向かわなければならないとき、龍樹から華開く大乗仏教的解釈は示唆に富む。
色即是空──俺は〈俺〉ではないが──、
空即是色──この俺でしかありえない──。
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念佛をすると「この俺である」と思っていた領域、最も私的な、誰も入れたことのない魂のベッドルームに「俺ではない何者か」がいることが分かってくる。〈俺〉はまるでこの部屋で独りあるかのように振る舞っていたが、その視線に気づいたとき、もはや〈俺〉は独りではない。
「それ」の視線に気づいた瞬間、この娑婆世界に永遠に閉じ込められ輪廻の円環に留まることは、もう二度となくなる。親鸞聖人の云うところの現生正定聚だ。
いやもっと分かりやすくて、真摯な表現にしよう。
如来はいる。その如来は必ず俺もお前も救うと誓い、その誓いは十劫の昔に既に達成されている。つまり、如来はいるという、子どもや文盲にも了解可能なファクトの知悉(=知恩)によって、了解不能(=不可思議光)な救済の文法は完成する。
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俺の〈俺〉でなさに気づいてしまった瞬間、壁すり抜けのようなバグ技を用いてでも、この世界から飛び出すしかない。
異常者が創ったゲームの外側に出るためには、発狂して電源をオフにするか、制作者の意図しない操作によって、陳腐化したタイトルに別なる意味を付与して遊び直すしかない。
それ以外の手段はまったく嘘になってしまう。誠から離れたまま、真理に到達することはできない。しかも真理は、人間が人間の範囲で可能な取引にはまったく関心がないらしい。その聖意は凡夫には量りかねるが、バグ技を用意した後はただ静かに微笑み、そのときを待っている。
往って生まれ変わるのだ。
南無阿彌陀佛