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「私・俺は教学はあんまりやけどなぁ」

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経


創価学会にいるとよく聞く言葉がある。

「私・俺は教学はあんまりやけどなぁ」

俺は学会員からこの台詞が出ると「うわっ」と思う。
大聖人は「信・行・学」の三本柱に支えられた、鼎型の精神状態を何よりも尊ばれた。脚は三本無ければ、太陽の仏法に向かって真っ直ぐ身を延ばすことはできない。人はつい目に見える二本の脚のみで立っているつもりと錯覚してしまうが、信仰という三本目の脚、仏縁に生かされて、なんとか無様に身を起こしているに過ぎない。
信と行だけによって日蓮仏法を、その短い一生涯で修めることは不可能に近い。いや深い信によって、来世も地涌の菩薩として娑婆世界に生を享けるつもりなのかもしれないが、それにしても如来に近づこうという菩提心が不足している。日蓮主義者にとって、日蓮教学とは天台智顗や伝教大師の教えよりも勝れた、より完全に近い円教であるはずだ。それなのにせっかく完成された完全な真円を顧みず、欠けた円を雑に布教するだけでは、多くの衆生を漏らしてしまう。それは日蓮主義者の態度ではない。

ではなぜ「大聖人直結」であるはずの学会員の口から、大聖人のご聖意に反するこのふざけた台詞がたびたび飛び出すのか。
思うに、故・池田大作氏が圧倒的な行動者であり、数々の法難に遭いながらも、折伏を成功させる「事証」のひとだったからではないか。
大聖人の仏法は、富士山のように高く美しい唯一にして最高の教えを中心とした、勝劣の教判がひとつの特徴である。こうした勝劣と絶対的平等主義という相反する二つの真理の完全な同棲が、一人の人間の内面に、あるいは世界中の人間への布教に大成功したのが日蓮という現象の正体ではないか。

しかしかつて富士門流の長い歴史上、最も成功した法華講総講頭であった池田氏門下の創価学会は、この〈事と理〉の勝劣に目が眩んで、組織の強みを末端まで過度に内面化してしまっている。ここに資本主義リアリズムならぬ〈日蓮主義的リアリズム〉の陥穽がある。つまり信と行の二本脚だけで真理にたどり着こうとする、凡夫の道程である。
「教学はあんまり」と言うとき、一閻浮提総与の南無妙法蓮華経の広宣流布というデカすぎる目標に対して、自らの努力不足を口惜しく思ったり、あるいは謙遜する必要はまったくない。日蓮主義者の中でも、気づいているのは俺だけか? 「とにかく折伏」の時代はもうとっくに終わっている。他者を眼差すあまり三本柱が揺らいでいては本末転倒である。

また「大聖人直結」と並ぶスローガンである「御書根本」は素晴らしい。人生で迷うことや悩むことがあったとき、御書を紐解くと思わぬ解決法が載っていることがある。それも一度や二度ではなく、一生涯に亘って応用の効く円教そのものだ。法華経に袈裟を着せると日蓮のかたちになる。大聖人のご聖言の一つひとつが法華経を実生活に応用する仏の智慧である。日蓮主義者として史上最も厳格な日興上人が「御書を心肝に染め」と仰られた通り、日蓮仏法を修めるならば御書の研鑽は〈事証〉を盾に疎かにできるものではない。御書根本と大聖人直結は、同じことをふたつの視点から云っているに過ぎない。御書を人生の根本に据えることではじめて大聖人と直結できるのだ。

それを学ばず、あるいは御書前半の法門にまつわる論文を疎かにして、後半の御消息文(お手紙)にばかり目を向けていると、如来から人間へと逆戻りしてしまう。
人は常に研鑽していなければならない。教学の、妙法の研鑽を怠った瞬間、ひらいていた仏界は閉じ、無明の谷へと堕ちていってしまう。研鑽を含めた信行学三つに励む強い気持ちが、行動が、智識が、そのまま地涌の菩薩のすがたなのだから(裏返していうと、信行学が揃っていなければ地涌の菩薩たりえない)。

大聖人は「諸法実相抄」においてこのように示された。

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給え。あいかまえて、あいかまえて、信心つよく候て、三仏の守護をこうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば、一文一句なりともかたらせ給うべし」

力あらば、即ち日蓮主義者ならば「俺は教学バリバリです、バリ活ならぬバリ教です」くらい自信を持って堂々と言って退けろ。俺はそれこそが〈事〉という現実世界との、妙法との完全な和解を成功させる鍵だと信じている。お前には力がある。


南無妙法蓮華経
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九拝

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