サラリーマンこそ「こどおじ」である
いわゆる「こどおじFIRE問題」に対する紛糾が一部ネットを駆け巡っている。
本記事ではその「問題」の概要を把握し、その揶揄を発する人々の内側にはどのような精神世界が拡がっているのかについて考え、いわゆるサラリーマンこそ「こどおじ」ではないのか? という結論を導出していく。
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いうまでもなく「こどおじ」とはこども部屋おじさんの略であり、養育者(多くの場合は親)の庇護下で安穏と暮らすおじさんを揶揄したインターネットスラングだ。
そしてFIREとは、「Financial Independence, Retire Early」の頭文字を取った流行語である。経済的自立と早期リタイアを意味し、つまるところこどおじFIRE問題とは、社会から「恵み」を搾取し、経済的自立を果たしながらも、自分ばかりを富ませ世代間継承を怠った者に対する非常に儒教文化依存的な批判だ。
日ごろ自覚的な信仰を持たずに生きているみんなのために、もう少し詳しく書いてみよう。
そもそも、なぜおじさん、つまり壮年男性は養育者と家計を一にしていてると揶揄の対象となるのか?
これは簡単なことで、日本人(=多くの部族の集合体からなる国家レベルの社会組織の構成員)にとって大人(おとな)とは社会性動物を意味し、世代間の経験や文化の継承、これまで家庭や公教育などから受けてきた「恵み」を還元する「債務者」であると規定されているからだ。このような神話の神話性はホモ・ネーモさんが何度も指摘しているところであるので筆を譲るとするが、とはいえこうした公(おおやけ)を重んじ、強烈な自律と服従を強制する文化は、もはや東洋人たちの内面にトラウマレベルで植え付けられていることは厳然としたファクトであろう。
東洋人は自覚的信仰を水や空気に溶け込ませるのが非常に巧みな民族だ。特に日本列島人は「単一民族」であるという各部族のアンソロジー的な記紀神話を基底信仰として、これはアヤしい宗教(シューキョー)なんかやないですよ〜みたいな顔をした呪術に、水や空気に支配されている。
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次に、そのような債務と債権の関係によって社会との契約を(勝手に)結び、異なる環世界を生きる「個人」に対する揶揄を発する人々の内側には、どのような精神世界が拡がっているのかを考えてみたい。
そもそもそうした揶揄は、近現代のわが国に蔓延する「個人主義」的な思想が淵源となっている。
というのも、かつて本朝には公(おおやけ)を尊び重んずる風潮があった。「公私の分別」をつけることができて初めて大人という社会性動物になることができた。これは先に述べた通り、儒教文化の産物である。
しかし近現代に入って、学校教育は部族的・伝統的集落単位をまったく解体し、「個」を育成する方向に舵を切った。
これは教育者が聖職者などではなく、一市民、いや単なる給与労働者として教え導くロールをプレイするようになったタイミングとまったく一致する。生活のために教育業に従事する凡夫が起こせるモチベーションでは、「個性の尊重」くらいしか最大多数の本尊とはなりえなかったのだ。公教育自身が公(おおやけ)を破壊する我利我利亡者を孕んでいたとはなんとも皮肉なことだと感じる。
そうして「個人」の重要性、もっというと〈わたし〉の最大限の尊重、みながみなにとっての〈わたし〉を愛すべき時代、アイ(i、愛、AI)の時代が現在に花開く。
神から与えられた基本的人権は、長い時間と距離を経て風化し、〈わたし〉から〈わたし〉へと手渡されるだけの孤人主義へと超解釈された。
スタンドアローンでコンサマトリー(自己充足)的な孤人から眺めると、公(おおやけ)を偏執的に重んじる儒教文化依存民は異教のカルトのように映ることだろう。
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わが国に弥漫する“水と空気”を分析し、「こどおじFIRE問題」とは無自覚的信仰者が異教のビリーバーを口撃している論戦であることがお分かりいただけたことかと思う。
ここからは本記事のタイトルにある結論に触れていく。儒教文化を最も濃厚かつ広範に保存する老いた新興宗教団体の構成員であるサラリーマンこそ「こどおじ」ではないか? について。
サラリーマンとは、上司に、もっといえば雇用主や資本家によって強制されることに自由意志に基づいて同意した(という建て付けの)温情と父権の庇護者である。
実家が太ければ誰もサラリーマンになどならない。家業を継いだり、先祖代々の土地を護るだけで、その人は何にも邪魔されずに一生を安穏に過ごすことができるからだ。
しかし現代日本には、そうした伝統的な「イエ」はもうほとんど残っていない。Winner takes all の原理に則り、一部の極太実家のみが家業を持ち、多くの中小実家は離散してしまっている。
離散した中小実家の構成員たちは、そうした極太実家、オーナー企業や資本家の武門に降ることとなる。中には新興のイエを立ち上げようと奮起する者もいるが、スケールメリットを持たない中、必死にブルーオーシャンを探し求めて赤い海で果てる者も少なくない。
そうしてサラリーマンたちは、本人の望むと望まざるとに関わらず、温情主義の水を飲み、パターナリズムの空気を胸いっぱいに吸い込んで、「おじさん」の身体のまま資本主義的父権の「こども」となる。
こどおじFIRE問題は「問題」ですらない。
そもそもこの「社会」を支える(と自認する)大多数のおじさんは、大きなイエに護られたこどもなのだから。