見出し画像

インターネット・インカーネーション

キリスト教において最大の神秘のひとつである受肉(インカーネーション)は、現代日本のオタクカルチャーに奇妙な表現方法でもって継承されている。

たとえばバ美肉という言葉がある。
これは「バーチャル美少女受肉」の略で、美少女のアバターを纏ったり、また纏ったうえでサイバースペース(バーチャル空間)の美少女として、VRChat等のサイバースペースで活動したり、あるいはバーチャルYouTuber・バーチャルアイドルなどとして活動することを指す。
VTuberとして活動する際、絵師(=イラストレーター)によって描かれた仮想の肉を、(配信者)が纏うことで「受肉」するのだ。

Vの文化では絵師をママ、モデラーをパパと呼ぶ


天の父ではない「創造者」をママ/パパ、配信者を魂と呼び、「受肉」というコア的な神学用語を弄ぶファンダムを聖教への冒涜、あるいは文化盗用とまでは言わないまでも、悪趣味なパロディと見做すことは簡単だ。
しかし現代の自覚的信仰に基づく救済なきオタクたちが、こうしたサイバースペース上での謂わば「ごっこ遊び」に一種の宗教的な救いに近いものを感じていることまでは否定できはしまい。石の裏に蠢く虫を観察するときは、虫たちに対するほんの少しの敬意と、大きなワンダーが伴ってなければならない。

さて、Twitter(現X、煩わしいので以下単にTwitterとする)という巨石の裏に棲息する一匹の虫であるところの安眠計画というアカウントも、先日めでたく「受肉」したことを報告させてほしい。

眠れない女の子の話

1ページ目、眠れない女の子と草葉の陰で「微笑む影」
2ページ目、南極の白い荒野とペンギンの群れのつぶやき
3ページ目、月へのトリップとゼロ(仏教?)に着地する女の子
4ページ目、パンダの茶会果てしない議論
5ページ目、ああ天国が遠ざかっていく
6ページ目、浄土宗における二祖対面の場面とオーバーラップする
7ページ目、暗闇の中での後悔
8ページ目、一番好きな最期臨終の場面
すべてを捨てたいと希う女の子、微笑む影は夢の主だった


この8ページからなる漫画は、フォロワーの天国事務所(@tengoku_jimusyo)ちゃんが描いてくれた
天事務ちゃんとは前のアカウントからFFの結構長い付き合いで、リアルでも何度か遊んだことがある。Twitterが無ければ出会わなかった面白人間の一人だ。
10年近いTwitter人生(Twitter人生?)において、こんなに「つぶやいていてよかった」と思った日はない。TLにこの漫画が流れてきたとき、ま〜た俺に都合のいい幻覚か?と自らの視覚を疑った(tips: 統失は自らの正気を疑いがち)。

Twitterには四六時中明け透けにさまざまなことを書いてきた。展示会や映画・本やアニメの感想、政治的立場、聞こえてきた幻聴のメモ、恋人の言行録や食べたものの記録、とりわけ信仰について、また愛について考えたことを脳直(のうちょく)で世界に向けて開陳している。見たものや考えたことのログを取っている感覚はnoteと同様だが、Twitterではもっとプリミティブな(地面師がエグ流行ったせいでプリミティブっていうのちょっと恥ずかしくなったよな)(小池百合子のせいでアウフヘーベンっていうとき若干半笑いになるのと同じ)(オタクは括弧が長い)ことばを撒き散らかす闇鍋的で全人格的なアカウントが「安眠計画」である。

さて、「受肉」という神学用語はそれまで聖書の中にだけあったロゴス(=神のことば)が、その神性を完全に保ったまま同時に完全な人間としてこの世に顕れた神秘に近づくための、キリスト論(Christology)における最重要概念であることは前回の記事で書いた通りだ。
天事務ちゃんは三代続く伝統的なカトリックのおうちに生まれ、本人も──他宗派の俺の目から見てもかなり骨太の──クリスチャンである。芸大の卒業制作では旧約聖書の「雅歌」をモチーフに6枚のテキスタイルを発表していた。めちゃくちゃ格好いいので興味のある人は天事務ちゃんと仲良くなって見せてもらってください。ていうか全員、天事務ちゃんの全作品を見てください

キリスト教の正統解釈的には、神の似姿たる人間の精神(霊)と肉体の合一、さらにはあらゆる元素の合一によってなる万有(宇宙)といった神の摂理のなかでも、最も神秘的で最も「愛」に満ちた結合が神とキリストとの合一たる受肉である。

少し長いが正統信仰の立場を表した告白文を全文引用する。

われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一実体であるとともに、人性においてわれわれと同一実体であり、罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである。
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母処女マリアから生まれた。
彼は、唯一同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されないものとして知られるかたである。
この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の人格、唯一の個別存在に共存している。
彼は二つの人格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一同一の子、ひとり子、ロゴスなる神、イエス・キリストである。

カルケドン信条, 451年


上記のようなカトリックの立場からは単性論と見做され、正統とされてこなかった非カルケドン派教会(ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白し、カルケドン信条を告白しなかった教会群)のなかでもとりわけアルメニア使徒教会神学では、ギリシア語圏の教養人に共通する哲学などの知的基盤(ex. 存在論)を持たなかった。
そのような文化的格差を乗り越えて、5世紀ごろ聖書の伝道という宗教的要請を背景として聖メスロプ・マシュトツによってアルメニア文字が考案される。

ローマ帝国に先駆けること79年、西暦301年にアルメニア王国は歴史上世界で初めてキリスト教を国教化している



そうした背景から、シリア語やギリシア語で書かれた神学・哲学文献がほぼ同時期に翻訳され、短期間に大量のテキストが流入したことによって、キリスト論的宇宙論ともいうべき独自の神学体系が花開いた。

われわれの霊魂と肉体は、一なる本性を構成する。
これらは被造物でありながら、変化することなく一つになり、非肉的なものと肉的なものが知りえぬ仕方で一つの存在となる。
どれほど驚くべきことだろうか。
より非肉的である創造主の本性、すなわち言がわれわれと混淆なく結合し、方法においても形式においても、語りえざる仕方で一つとなり、本性においてわれわれと異ならないということは。

『信のことば Ban haatoy』1151年


上記の『信のことば』を著したアルメニア教会カトリコス(総主教) ネルセス・シュノルハリは、強固な中央集権によって版図を拡げるビザンツ帝国と小国アルメニアとの、あるいはコーカサス高地とキリキアおよびメソポタミア北部で分裂するアルメニア国内の教会合同という一大ミッションに奔走した。しかし厳密なカテゴリー論に基づくコーカサス高地の法脈とは異なる、否定神学的な一なるキリストへの讃美は、アルメニア教会においても信仰告白に採用されることはなかった。このあたりは浜田華練博士の研究に詳しいので、興味のある人は是非あたってほしい。というかこの分野で学術的に信用できる日本語の資料が現在ほぼ彼女の研究しかないので、アルメニア教会を中心とした東方キリスト教の文化・思想・歴史に興味がある方は既にご存知のことかと思う。

20世紀に入り、エキュメニズムが叫ばれるようになるおよそ800年近く以前に愛に基づく教会間対話を訴えた詩人/文学者/修道士がいたことは驚嘆に値する。
教義の違いを認め合い、相補的な関係としてともに有効であると主張した彼のことばは信仰の違いのみならず、民族や言語、性別や経済格差などの断絶を超克して平和を伴った共生を実現するためにも有効だろう。

上述した通り、そもそもアルメニア語自体が5世紀前半に聖書翻訳のための筆記言語として成立しているので、ことば(Ban)と信仰の結びつきが他のキリスト教圏にくらべても段違いに強固だ。現代においてもアルメニア使徒教会では、古典アルメニア語が不変かつ普遍の典礼言語とされている。

そして天国事務所ちゃんが俺のアカウント名を作品にしてくれたとき、ああでもないこうでもないと議論をしたり、信仰について狂ったようにツイートする安眠計画の「ことば」をモチーフに選んでくれたであろうことは疑いようがない。

受肉(インカーネーション)はビザンツ帝国の時代から現代まで特別に注意深く取り扱われてきた概念であることは百も承知の上で、いやむしろその伝統に讃嘆しつつ、あえて「バチャ豚」のように叫びたい。

俺のロゴス(ツイート)がインターネットで受肉したぞッッッ!!!!


アーメン

いいなと思ったら応援しよう!