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法について

子どものころ「罰」の意味があまり理解できなかった。

何度も悪さをして、親をがっかりさせて、夜、父が帰ってくると家の外に放り出された経験は一度や二度ではない。
そのたびに「自分がしたことの“悪さ”と罰の重さが見合っていない!」と感じたことを憶えている。こんな目に遭うくらいなら次はバレないようにもっと巧くやろう、という悪の決意を固めただけであった。
罰は、何かが欠落した人間を決して善くはしないと今でも切実に思う。

かといって「制度をハックしてやろう」とする悪人が一定数存在することを織り込んだシステムの構築はナンセンスだとも思っている。
単純に今のレベルの社会を維持するためには、歩み寄ろうとしない者にまで与える席はもはや以前の感覚では用意できないというハード面の諦観もある。
しかし何より、そうした悪人を文明社会の構成員として「相応しくない」畜獣のごとき人間未満と定義して「管理」しようとするのは、あまりにも非人間的だ。支配と強制による矯正。仏性を舐めているのか?

高校〜大学1回生くらいのころは、そうした悪人としての自覚と自責の念から、法よりもどちらかといえば福祉の方に関心があった。しかし福祉にも限界はある。光源が増えれば増えるほど、取りこぼした人たち、新たな影が生まれていく。

罰を理解できない畜生が善く生きていくためには、どうにか人間らしく愉快に暮らしていくためには、ブン殴ったり無視したりするよりも、むしろ積極的に自らの善性を切り分けてやらねばならいのではないか。大学2回生あたりに福祉から教育へと関心はシフトした。
幼い魂にはまず善い人間のロールモデルを用意して、そこに注意を向けさせてやる必要がある。

今のところ、そのときの「気づき」が今の俺を俺たらしめていると感じる。
やはり人は教えに向かわなけれなならない。
罰は人を矯正しないし、福祉も完全に機能することはない。ただ魚を与えるのではなく、釣り方を教えられた者だけが、明日の糧に悩むことなく愉快に暮らすことができるのだ。

正しい教えだけが悪人を善き処に向かわせるという確信と同時に、法の「意味」が朧げながら見え始めてきた。
おそらく法は、悪人を善くするためではなく、善人が悪処に堕ちないために用意された、譬えるなら駅のホームの「黄色い線」なのだと思う。善悪のグラデーションは各人にあれど、法の内側で活動する限り、巨大な鉄の塊に巻き込まれる心配はない。

そう思えるようになったきっかけのような出来事がある。

2021年9月、裁判員としてとある傷害致死事件の刑事裁判に参加した。

裁判はすべて平日に行われるため、
裁判所から配られたパンフレットを片手に
会社に直談判、特別休暇をもぎとって参加した

暴行の様態が悪質で、プロの裁判官は3人とも実刑7年以上という見方であった。

被告人は高校卒業後、頼りない父母を支えるためにずっと自分を犠牲にして働き続けた。会社での勤務態度も良好で、係長としての任を全うしていた。勤務先の社長や実母が証人として出廷し、寛大な処置を求めた。そうだそうだ。彼はまだやり直せる。執行猶予をつけろ!

当時、青臭い教師の卵だったころの自分をまだ捨てきれていなかった俺は、裁判官と裁判員、見学の司法修習生たちが同席する評議の際、必死に被告人の将来性を訴えた。罰は人を善くしない、そもそも裁判員制度は司法の場に血の通った民意を反映させるための場ではないのか?
俺の弁護を聞き、一回りも二回りも歳上の人たちの意見が変わっていったのは嬉しかった。
執行猶予派は多数とは言わないまでも、評決のおりにはほとんどの人がはじめの主張よりも減刑に傾いた。

議論を重ねていくうち、3人の裁判官のなかでも40歳くらいの、最も経験値と判断力のバランスが取れていそうな脂の乗った法の番人が「罪を犯した人の更生という視点だけでなく、やったことの責任を取らせなければならない」と云った。はは〜ん、なるほどね。どうやら法を守る者だけが、法に護られるらしい。俺の納めている税金は、まったく正しく活用されていることだなあと思ったものだった。

結局、俺の青臭い熱弁が奏功したとはとても思えないが、しかし似たような事件の判例と比べると、かなり寛大な判決になった。

ふだん黄色い線の内側に立っているだけでは見えない、法秩序という巨大な鉄の塊が実際に駆動している現場を見ることができたのは、この「社会」の末端構成員としてはたらき続けることに新たな意味を与えてくれたように思う。

みんなも裁判員に選ばれる機会があれば、ぜひ参加してみてほしい。

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