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目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」(J.S.Bach)

バッハの曲

1、代理

 たいへん便利な世の中であると思う。面倒な家事も代理、費用さえあれば大抵のことは代理可能である。
 では、愛情は?愛情は代理可能か?大半の読者は「ノー」と答えるかもしれない。パパ活などを見てみれば分かるように大枚はたいても金銭では女の子の愛情は買えない。やや無理やりだが、あえて言う、そこで人形である。人形は愛情の対象たりえるのだろうか?
 そもそも、人はどんなに美しい容姿をもっていたとしても歳を経ればいつかその美しさは失われる。穏やかではないが、それを拒否しようとすれば相手を「殺す」しかない。この世に存在していては、どうなっているかと気になってしまう。未練は断ち切らねばならぬ。完全なる個人の思い出にするためには対象に必ず死を齎さなければならない。時間という瞬間々々の連続的な檻に閉じ込めて置かぬように観念的な死では手緩いのである。
 過激なことを述べたが、無論、そんなことは出来ようはずもない。そこで、愛情の代理として人形が必要なのではないかという疑義が生じる。読者からの失笑を覚悟の上で筆者はかかる問題を真剣に考えている。江戸川乱歩の「人でなしの恋」を見てみるがよい、若く美しい妻がありながら等身大の人形に心奪われ、情念を燃やす夫がいる。

2、生死

 人形は老いぬ(黄変など経年劣化はする)。飲食は不要、排泄という醜い行為もしない。すなわち、人形はおおよそ人間臭い世俗的な生というものを感じさせない無機質な存在である。そこに死を連想させる美しさがあるように思われる。ドールオーナー諸賢におかれてはカワイイはずの人形なのに時として恐ろしく冷たい表情をしていると感じることはないだろうか。このようにお迎えした瞬間に既に死んでいるような人形は敢えて殺す必要はないのである。
 他方で、オーナーはなるだけ生身のある人間として扱おうとする。先日、東京でドールをお迎えしたが、お顔から衣装まで全て揃っている小さい子であった。フルチョやカスタムヘッドでない限り通常はどこかの工場で大量生産されるのだろう、整然と店舗で陳列されている人形はただの物質に等しい、極めて無個性、無機質な存在に見えるかもしれない。

先日、お迎えした子。名前はまだない。

 しかし、無論オーナーはそれでは物足りない。オーナーは脳内で性格や声を、さらには名前を与える。命名はそれ自体強烈な個性の付与行為であって、これらの行為により人形を無個性、無機質から解放しようとする。つまり、オーナーの人形に対する情念が大量生産品から唯一無二の存在へと「人格」を与えるのだ。
 とすると、人形には死と生という恰も対極にあるような両方の性質が矛盾なく併存していると考えることができよう。人形はしばしば「よく生きているみたい!」と言われることがあるが、それだけではまだ人形の本質に迫ってはいない。人形には生と死の両義性かあるのだ。

3、生産

 さて、「愛情」の代わりはできたとしても、「愛欲」や「性愛」、つまり、性交が原始的に不可能である以上、人形が人間の代わりになるなど茶番ではないかという謗りを受けることもあろう。
 しかし、はたして性交なるものは愛情の必要条件ではあるまい。例えば、LGBTの方々を指して「生産性がない」などと宣う古い人間を見かけるが、噴飯ものである。なぜ生産しなければならぬのか、その根拠は?人類が絶滅するから?では、絶滅してはならない根拠はなんであろうか?そもそも人類の誕生すらなんの根拠もないのだ。
 だいたい、ラブドールは身体的または精神的ハンデなどの性的不能者のために制作されたのではなかったか。

4、覚醒

 さて、生と死の両義性をもつ人形が、たいへん不思議かつ魅力的な存在であることが分かるだろう。
 まだ人形を持っていない方、経済的に余裕があれば是非お迎えして、ドールオーナーとなって欲しいものである。また、既にドールオーナーである方、永遠の眠りについているかのようなあなたの人形に目覚めよと声をかけてみよう。きっとその声が聞こえているはずである。

以上


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