お久しぶりです
訳あって少々活動をおやすみしておりました。
唐突だったのでご心配おかけしていたらごめんなさい。
今日は、物心ついた頃から長年考えてきた事に対しての、今の自分なりのアンサーを書きたいと思います。
約20年近く、わたしは消えてしまいたいと思い続けていました。
今おもうとソレは、親が世間が自分が望むような『あたりまえ』『ふつう』に自分がなれないから。
ただ、それだけの理由だったように感ぜられます。
性別という固定概念への違和感。
不登校。
世代間連鎖による機能不全家族。
しかし、今になってしまえば、全てはただの経験の為の学びでしかなかったな、と。
それらの経験がなければ、今のわたしはいません。
雨風凌げる家があり、凍える事なく布団で眠れる幸せ。
色々あったとはいえ、家族がいるという幸せ。
『少し変わっている』という事は、素晴らしい1つの個性でしかないという喜び。
今日、ご飯が食べられるという幸せ。
朝が來て、また夜がくるというあたりまえのような奇跡。
大切な人々が同じ時代に産まれ、今生きている、という幸せ。
食事に長年、罪悪感がありました。
それは、自分や周りの願うような自分として生きていないにも関わらず、他の命を頂かなければ生きてはいけない。
心が枯れ果てていて生きる事を拒否してもカラダは食事を求める、という深い葛藤でした。
お肉は勿論、卵も、植物も、果物も、全ては命。
そして、生産してくれた方や、配送してくれた方、販売してくれた方、しんどくても働いてお金を稼いでくれた親…様々な存在なくては得られないモノ。
生きる喜びのないまま、食事をする事は苦痛で仕方がありませんでした。
今は、違います。
そうした様々な命に、存在に、また笑えるようになるまで生かされてきた。
だから、感謝してしっかり頂いて、健康なココロとカラダで小さな幸せを見逃す事なくタイセツに抱き締めて、しっかりと生きていこうと、そう思います。
きっと、わたしには大切なお役目があります。
それを喜びながら樂しみながらおこなっていけるといいな、と。
きちんとヒトとして生まれた喜び樂しみを感じながら、お役目もしっかりと成し遂げたい。
想像力が創造力であるのなら、それが宇宙の法則だというのなら。
あるがままを受け入れながらも、周りや自分の幸せを願う事、それが罪や贅沢であるとは今はもう思わないから。
待ちに待った春がやってきましたね。
華があちこちで美しく咲いて、心を癒やして笑顔をくれます。
大輪の華も美しいですが、小さな野の花の素朴な可愛らしさもとてもほっこりします。
新緑の生命力。
その耀き、美しさ。
晴れても清々しく、雨音も落ち着いて。
風がふいても心地よく。
疎ましかった暑さ寒さすら、こうしてカラダを持って生まれたからこそ感じる事ができるんだよなぁと。
生かされている、ということ。
目にみえるなにかにも、視えないなにかにも、いつも愛され視護って貰っているということ。
感謝しています。
喜ばしく思っています。
いつも、万物に感謝。
無限大のありがとうを。
どんな困難の中にあったとしても、視点ひとつで様々な奇跡と幸福にあふれていると氣がつける。
そういう今のわたしになる迄の、これまでの様々な苦難にすら今は感謝しています。
何度ブレようとも、また立ち還るだけ。
初心にかえるだけ。
初心に何度も還る内に、きっと経験値が貯まってこの穏やかな思考が自分にどんどん馴染んでいくだろうと確信しています。
自分の心の聲を、軀の声を、無視して人に合わせて無償で尽くして、自分が擦り切れていく事を繰り返すのは…なんだかもう、自分に申し訳がないから。
自分を満たせば、笑顔でゴキゲンでいられる。
笑顔でゴキゲンなヒトの傍にいると、わたしは幸せなので。
そういう氣をいつも振り撒いて過ごしていたいんだ。
自分が枯れていたら、怒りっぽくなってすぐネガになって、周りの氣も下げてしまうから、満たしておきたいんだ。
自分が氣力体力満たされていればこそ、やれる事も手伝える事も沢山あるって、改めてよくわかったから。
完全に後半ひとりごとになってしまったけれど、自分にとってとても大切な氣づきだったのでつらつら書いてみました。
目を通してくださったあなたにも、沢山の『ありがとう』を。
今日も明日も皆様に幸多からん事を御祈りしております。
🍀愛と感謝を籠めて🍀