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曲率の反転性

これは、コラッツ予想に取り組んでいた時に発見したことですが。

コラッツ予想の詳細は、そうしたサイトに譲るとして、ここでは、コラッツ予想で示されている操作、つまり、「偶数なら 2 で割り、奇数なら 3 をかけて 1 を足す」という操作をすることを、「コラッツ操作」と仮に呼ぶことにします。

まず、「どの正の整数もいずれ1に収束する」ということは、確実に1に収束すると分かる数をたどるとよさそうです。

これは例えば、2^n だと確実に1に収束しますが、詳細は別の記事にするとして、今度は、特定の正の整数からどのような展開があり得るか、という観点から、一般形を導き出そうとしました。

そうしたら、収拾がつかなくなってきたんですね。

当たり前なのかもですが、あらゆる可能性を網羅しようとしても、可能性のバリエーションが広がるばかりで、一向に収拾がつきません。

で、ここで、奇妙なことに気が付きました。

まず、特定の正の整数から出発すると、可能性のバリエーションはどんどん広がっていく「かのごとき状況」になります。

ところが、1に収束するということは、可能性の幅は次第に狭まっていくはずです。

では、可能性の幅が広がっていく状態から、可能性の幅が狭まっていく状態へと、どの時点で遷移するのでしょうか。

この状況を図示すると、以下のような感じになっているわけですよ。


曲率の相互反転性

これ、下から上に向かっていくとします。

そうすると、緑の点から広がる可能性は、たくさんの青い線として表現されています。

しかし、ゴールは紫色の点なんですが、その点に至るラインは、収束するたくさんのピンク色の線として表現されています。

で、緑色の点から出発して紫色の点にたどり着くということは、青色の線からピンク色の線へと、どこかで「乗り換え」が生じる必要があります。

ところが、私の数学力ではその一般形が分からないので、ここで中断しましたが、しかし、背理法はまさに、ここの部分を間接的に証明しようとしているのかもなあ、とは思いました。

ま、「間接照明」ならぬ「間接証明」ですかね。

背理法は、証明したい結論を否定すると矛盾が生じる、というようにして、証明したいことは結果的に正しいことになる、みたいにして証明する方法のことですが、ここでぶっ飛んだことに言及しますと、結局のところ、この世界とは「背理法による神の存在証明の試み」だった、ということです。

この世界の発達とは、「神は存在しない」と仮定すると矛盾が生じる、したかって神は存在する、という流れの証明をしようとしている、というわけで、これはまさしく「背理法」なわけですよ。

それはともかく、で、これは実のところ、青色の線が広がっていく空間と、ピンク色の線がすぼまっていく空間とは、「互いに曲率が逆」という捉え方が可能です。

つまりこれは、空間曲率の反転の必要性、ということでもあります。


ここまではいいんですが、では、個別の数から具体的にコラッツ操作をした時には、なぜこうしたことをいちいち意識せずに済むのだろう、ということが気になりましたが、これ、具体的に操作してみると分かりますが、具体的な数からの操作の場合には、実際には、可能性が無限に広がっていくわけではないんですね。

選択肢は常に一つです。

例えば、5 であればその次は必ず、5×3+1 で 16 になります。

ということは。

「可能性は無限に広がる」というのは、実は錯覚だということです。

では、なぜこのような錯覚が生じたのかというと、これは、特定の正の整数についてではなく、正の整数の一般形について考えたから、ということだったようです。

一般形について考えるということは、例えばですが、5 も 37 も同一視する、ということになりますが、そのようにしてすべての正の整数に関して、「その次」にどうなるかを次々と予想していくわけですからね、そらもう、なんか無限に展開していく「かのごとき感覚」にも襲われるってもんですよ、あんた。

で、一般形から最初の操作をすると、これは例えばですが、正の整数 n が偶数の場合には 2 で割り、奇数の場合には 3 をかけて 1 を足すという操作をすることになるので、この時点で一般形の展開のバリエーションは2種類になります。

その結果が偶数であれば、また 2 で割ればいいんですが、奇数だった場合にややこしくなってきます。

この辺りの事情から、これは「×3」という演算が含まれることにより、 mod 3 という捉え方が必要のようだ、というのはわかりましたが、そこからさらに広がっていくバリエーションに関しては、少し計算してみましたが、「お手上げ」でした。

いくつかの選択肢は再び繰り込まれていくことが分かりましたが、選択肢はそれ以上に増えていくわけで、mod に関する予備知識がなさ過ぎたため、今後の展開についてまるで予測が付かず、「お手上げ」と相成りました。

で、その前に、1 に収束すると分かっている数、ということが少しわかっていましたが、その一群にたどり着く時点はどこなのか、というところで、先のイラストのようなことが頭に浮かびました。

結局これは、神にたどり着くには、「生き方の幅」は、ある時点からは、拡大から収束に転じる、ということとも通底しているわけですよ。

しかし、その一方で、特定の数からの道のりは、必ず1つです。

ということは、自分の人生にしたって、コラッツ予想における「特定の数からの道のり」のようなものがあるわけですが、しかし、「可能性は無限」という「キャッチコピー」に踊らされる、つまり、「コラッツ操作のようでコラッツ操作でない、非本来的な操作」をし続けることにより、自分の道を見失っているわけですよ。

これは実に興味深いことです。

「自由とは不自由なものだ」という感じにもなるわけですよ(笑)。

ちなみにこれ、「自由とは不自由なことだ」ではありません(笑)。

日本語は、「もの」と「こと」を微妙かつ絶妙に使い分けているんですよね。


それはともかく。

こうしたことすべて、実際には、ある種の錯覚によっている、ということに気が付くことが大事のようなんですよね。

つまり、例えば「可能性は無限」といったことは、あくまでも一般論としてのことであり、「特定のこの私」に関しては、こうしたことは全く当てはまりません。

しかし、「自分」というのを集合的なものとして捉えた場合には、こうした現象が生じる「かのごとき感覚」になるわけですよ。

なんかこれ、量子の粒子性と波動性なんすかね。


しかし、「特定のこの私」に関しては、このような顕著な反転は考慮しなくてもいい、とはいえ、この反転性は全くの無根拠というわけではありません。

それは、「特定のこの私」という感覚に沿って捉えると、この反転は、「出発点からどれだけ来たか」という感覚から、「ゴールまであとどれぐらいあるか」という感覚への遷移ないしは移行として、やっぱり表象されているんですね。

こうしたことは実に興味深いですが、この反転のタイミングに関して、一般的なことが言えるのかどうかは、今のところ分かっていませんが、もしこのタイミングに何か法則性のようなものが見いだされたら、それは、特定の正の整数から 1 にたどり着くまでに要するコラッツ操作の回数が予測可能になる、ということなのでしょう。


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