失恋する、ということ
夜中に突然、"よし、失恋だ!"という音が自分のなかを貫くなり、なにそれ面白そう、と思ってしまったいつも通り考えなしなわたしは、うっかり開かれた扉の先へと躊躇なく進んでしまい、三秒後に死んだ。
いのちからの落雷はいつも唐突だけれど、「失恋」という言葉が指し示すであろう自分の人生の出来事に、心当たりはあって。
あぁ、めっちゃ恋してるなぁ、以外の言葉が見つからないにも関わらず、きっちりとフラレも成就もしないで、好きなままで、ここまでしあわせに生きてこられてしまった。
だけど、ふとした瞬間、微妙な葛藤を生み続けている、やや複雑な想いがある。
そもそもわたしは昔からあきらめが悪いというか、基本的にあきらめることを知らないので、例えば「ちょっと一旦諦めるわ」とわたしが口に出したとしても、実際にそれと人生が交わらない世界に飛び込んで生きて見せたとしても、わたしのいのちの目は片時も、ソレから視線を外すことはなく、実に虎視眈々と「再び道が交わる時」を待っていて、その時がきたらもう一ミリの迷いもなく、それまでの世界を円満退社して、光の速さでそこに居る。
わたしの世界において、「あきらめる」には、しっかりと先がある。
わたしの生きたい世界が、その先に、ある。
わたしがあきらめる、を選んだ時。それはあくまでも現時点での終局であって、わたしの人生が続く限り、それが如何様にか開く可能性は生き続けている。
つまり、完全にすべての終わりではなかった。
では、「失恋」は?
失恋した後、その先に、ソレは存在するのかな‥?
正直、一瞬で自信をなくしたわたしは、もう即座に氣絶して、死のうと思いました。
それの無い世界なんて、生命として生きてゆくのは無理だって思ったからね。
いのちをひとまず生かすために、嘘をついて、世界を殺す。
それはたぶん発展してゆくとテロリストみたいな思考の種であり思想で、その逆をやると、生きた屍となるわけだけど、どちらも、わたしたち人間は、生きるために、時々、やる。
でも、その、 "見ないことにしたいと思った世界のわたし" が死に至る瞬間、ある真実に、きがついてしまったのです。
ただただ、穏やかに、
【純粋な愛だけが在る世界】
深夜、轟くままに受け入れた「失恋」という音がもたらす本質。
そこにあったのは、わたしが恋したそのものが、ただ柔らかく満ち足りて広がっている世界だった。
その恋にまつわって数年。想う時間が長くなり、わたしのなかでのこだわりが増すほどに、だんだんとその恋に投影されていった、人間としての様々な欲望。
そして、その欲望への執着があったこと。
その欲望への執着を、「恋」という字に押し込めて、決して失わないようにしていたこと。
これを失ったら終わりだという思い込みを握りしめながら、叶え叶えと、願っていたこと。
こうやって文字にして書くと、なかなかにおどろおどろしくて吐きそうなのだけど、「恋」という、一見キラキラしていて楽しそうな予感のする一言に押し込められて見えなくなっていた、わたしのエゴのすべてが、受け入れるままに「失恋」という名前の書かれたGateを通り抜けてみたら、きれいサッパリ剥がれおちていた。
そうして、サッパリとした意識で、自分の本当のあるがままを感じてみて、初めてきがついた。
もうこのままでは、これ以上は進めないよ、というところまで歩き続けて、ひとつのかたちのゴールまでたどり着いていたのに、エンディングを迎えるのを拒んでいたばっかりに、せっかく、その恋がまだ恋になる前に、わたしに手渡してくれていた、"自分自身を生きる"ということを、いつのまにか放棄しそうになっていたことに。
わたしをわたしで居させてくれるその恋が恋として続くためならなんでもしようと、変ながんばりを続けていたこと。
だってそれを好きなままのわたしは、本当に生きてるもん。
好きを好きなまま、あきらめなくていいように、努力してるもん。
こわいけど、不安だけど。
"わたしのすべてを変えてしまったこの恋をしているから、わたしは大丈夫"
‥‥‥‥‥
‥‥‥‥‥‥‥
本当は不安で、助けてよって感じている自分を押さえ込んで、わたしはいつしか、わたしを生かしてくれた「恋」に、自分のすべてを預けてすがっていました。
"これがあれば、大丈夫"
この言葉をつかうとき、人間は必ず、無条件に死ぬまで生きて存在する、という生命の命題を、握りしめているソレに向かって思いきり手放しています。
いのちを懸けているともいえるのだけれど、言い換えると、自分のいのちの責任を、ソレに預けて安心している。
存在が存在するための相互依存ってやつです。
時にそれは人が人生を生きる理由にもなるし、その関係性の維持に努めることは、人間の自由な生に、一定の秩序を与え、おおきな安心の土台となってくれたりもする。
それはとても優しい世界だし、世界平和だと、わたしはおもう。
時には仕事だって、そういう繋がりから生まれたりするし^^
だけど、そんな世界で、苦しくなるひとが、いる。
なにかが違うんだって、与えられ続ける優しさに満足できないで、ここではないなにかに願いをよせて、自分のなかの祈りを反芻させ、生きようと・・・生きたいと、試みている、そんないのちが、ときどき在る。
そういういのちはたぶん、本当は、苦しいのでも、嬉しいのでも、祈っているのでもなくて、ただ単に、魂の恋をしているんじゃないかなって、わたしはおもう。
それは、他のだれも代わることができない恋。
恋愛的な恋に限らないけど、こんな風に、なにかを一途に思いつめて、恋し続けて、いつしか行き詰って、この優しい世界で苦しくなるくらいに、自分自身の想いに忠実に生きたいと願っている。
もしそんなひとがいたら、わたしはぜひ、その一途な想いからの失恋をしてみることを、オススメします。
それも生半可なやつじゃなくて、本氣のやつ♪
相手にふってもらったから終わりとか、周りの人にとめられたからあきらめるとか、人間時間でずいぶん長いこと経過したから大切な思い出ボックスに仕舞えるとか、そういうのは、失恋というか、そもそも恋、ではない。
わたしは地球の動物たちを心底リスペクトして愛してるので、できればバカにしているとか、ましてや優劣をつけているなんて誤解しないで欲しいのだけど、リスクであきらめて次へいけるようなおもいは、恋というよりは、いのちが生まれてくるときに標準装備されている、生殖本能に近いとわたしはおもう。
もう少しいうなら、それはスピリットの恋ではなくて、肉体の恋でもなくて、諸々、様々な領域からの記憶によって発生する恋だ。
この、生殖本能でのコミュニケーションやパートナーシップの在り方は興味深いし、どんな時代、どんな環境や状態であっても、生命が種として存続していくシステムとして、すごく有能。
でも、時々、そういう、ある種の生命の存続システムからはみ出すような恋がある。
それは、世の中に流れている存在意義に照らし合わせると、一見、なんのためにあるのかわからないけれど、問答無用で、それがこの世界に存在していないといけないってわかるようなもので。
理由なんてわからないけれど、愛しくて、美しくて、その、まだ誰も知らない、誰にも見えない”花”がひらくのを、自分ひとりだけが知っていて、その時を楽みにしているような、他者からみたら、不毛な恋だ。
失恋を奨めておいてなんだけど、それが終わるか終わらないかといったら、
「本当に終わりがくるまでは終わらないでしょうね 」
としか、わたしは言えない。
そういう類の恋のことだ。
あきらめるなんて考えもしないから、思い抜くしかない。
やれることをとりあえず、全部やってみるしかない。
そうして、これ以上いったら、たぶん倫理的にアウトかもなーというところまで思い抜いて、その恋が、苦しいばっかりになった時、ふいに「失恋」は訪れる。
「恋」という字に目一杯詰まった自分の欲望や妄想や幻想を、「恋」という文字ごと、問答無用で失うこと。
その、前代未聞のおそろしさと、きもちよさと、わけのわからなさの境地の饗宴が、わたしにとっての「失恋」という体験でした。
まるでね、まっさらな、生まれたてのヒヨコになったかのような心地で、わたしは本当に久しぶりに、自分が恋した「それ」を見つめた。
それは、柔らかな光だった
まだ言葉にすることのできない、満ち足りた光
人間がそれをなんて呼んでいるのか、わたしは知っていた。
それは、「愛」と呼ばれるもの
真実の恋の終わりには、ただ、愛だけがあった
終わりなき旅みたいなこの恋をまっさらに還して、「失恋」という扉は、わたしにそれを伝えていった。
そして「失恋」がわたしに伝えていったすべてにわたしは打ち抜かれて、たぶん、いたく感動し、きがついたら一年放置していたnoteを夢中で書き始めていたわけなのだけど、書きながらね、まっさらに還ったヒヨコは、また白でも黒でもない曖昧な、グレーなヒヨコにかえってゆくわけで、わたしのなかの怖がりちゃんが思いっきり「ちょぉぉぉぉ勝手になにしてくれてるのぉぉおわたしの恋!!!恋っ!!!」って悶絶したり、センチメンタルさんがちょっと泣いたり、眠り姫と三年寝太郎がここぞとばかりに眠り続けてくれたりと、現在、人生がしっちゃかめっちゃか真っ最中ですが、まぁたぶん大丈夫だなー、と、すべてを見守る年長者は、「ええよ、ええよ」と微笑みながら、今日もげんきに生きています。
だって「これがないと死ぬ」とか言ってたすべてを失っても、まだ生きてるし。
残念だけど、魂の恋をするとき、そのいのちには生命力しかないな、という結論です。
なんとかしてもらおう、がすべて剥がれおちて、幻想も妄想も願いさえも剥がれおちて、それでも生きる。
それは、生まれた時からもっている最も純粋なそれが、握りしめなくても、守らなくても、他のなにかにすがらなくても自分と共にたしかにあって、それが生き続けてここに在ることを、どこかで知っているからなんじゃないかな?とおもいます。
だから人は恋をするし、時には失恋して、まっさらに還る。
失恋したら、痛みだけは残るのかなって思ってたけど・・・
それすらもなく、ほんとうに、まっさらになる。
それは、なにかの積み重ねが変容して、生まれ変わるのにも似ているのかもしれない。
ほんとうはその繊細な領域はまだ、うまく言葉にならないけれど、しいていい表すのなら、魂の恋が、魂の愛に還ったみたいに。
人間は弱いけど強いね(*^^*)
地球はほんとうに、面白いね♡
そんな、まさかの「失恋」GATEから始まった、さやかの地球誕生日記-Senseの章-。
2019年1月10日 3時9分 日本
今日も地球は不思議で、快適でした♡
地球に暮らす さやかより♪