溺れる旅の、はじまりのとき
思春期って、いつから始まり、いつ終わるんだろう。
それは、肉体的なものや、年齢的な精神の成長における、平均スケールのなかでは語り尽くせない氣がする。
思春期のすごしかたについて、世界には一見参考になりそうなものがありあまりすぎるくらいに存在しているなぁと、改めてまわりをみてみると感じるのだけれど、真面目に思春期、という世界を端から端まで見つめ尽くそうと決めてみたとき、純愛からアブノーマルまで、あらゆる歪みと変質である愛のかたちを網羅して、それでも満たされきれずに人はなにかを探し続けているような氣がした。
少なくとも、わたしは満たされないなにかを、自分のなかに持っているなぁと感じた。
そのなにかはたぶん、思春期に存在している。
そんな、いつも通りの根拠のない確信だけを抱いて、きがつくとわたしは身ひとついのちひとつで、「思春期」という未知の世界にドボンと飛び込んでいた。
外側の誰かから与えられたものではない、わたしのなかの、真実の思春期。
年齢的には、思春期という季節はとうに過ぎているし、今更思春期を目一杯いのちに溢れさせるのはちょっぴり恥ずかしさと躊躇があったはずだったのだけど、普段ツンデレなくせに、こういう時だけはやけに素直なわたしのいのちには、この旅をはじめない、という選択肢は存在していなかったらしい。
からだも大きくなって、少しだけいろんな人生経験を積んで、ちょっとだけ大人になった今だからできる、思春期の世界の旅。
大人のわたしに見守られながら、ちいさなわたしにもどったようになって、わたしはその音が描き続けた軌跡を辿りはじめた。
なぜ、大人になっても、子どもみたいな人たちが世界に存在するのか。
なぜ、人は孤立を恐れながらも、孤独を必要とし、引きこもるのか。
なぜ人は真実の愛を求めながらも、真実の性のホメオスタシスが創造した、歪みの世界の維持に全力を傾けるのか。
すべての問いのこたえは思春期にあって、そこには深い、真実の愛の世界だけが存在していた。
この、溺れるみたいな深みにハマらないようにと、世界が伝えてくれていた様々なすべてを捨てて、何もかもを手放して、存分に歪みを感じながら溺れて尽くしてみた先に、在る世界。
とてもかっこ悪くて、どろどろで、重くて、反社会的、人間として欠陥で、あらゆるコンプレックスが浮き彫りになったようになり、乱暴で、制御不能で、世界のすべてを拒絶する。
わたしの人間としての生命の力は思春期の、そんなところに眠っていた。
幻想の旅を終えると、自然に真実の旅がはじまる。
生命は、自分の生き方を知っている。
人間とはなにか、生命とはなにか、外側から教えてもらわなくても、自分自身として生きはじめる力を、みんな、生まれると同時に宿して生まれてくる。
時には溺れながらでも、旅をして、生き続け、いつのまにか大海を自在に泳ぎまわり、海に融けた大きな空を飛びまわるようになる。
思春期は、溺れる旅のはじまりのときなのだと思う。
だから存分に溺れろよ♡っていう、自分からの愛に見守られながら、溺れてみたのです。
常に暴走するみたいな世界に慣れるまでは苦しかったけど、溺れていた頃も、少しだけ泳ぎ方を覚えた今も、なかなかすごい世界を見続けている(*^^*)
これは、そんな世界の冒険者の、はじまりの日記。
すべての、まだ思春期を終えてないいのちへ、こころからの愛をこめて
2019年2月22日 日本
地球に暮らす、さやかより♡
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