守るよりも、愛する
人間が病むときって、どんなときなんだろうって考えてみたのです。
結論から言えば、だいたいにしてこういう思考にはまり込むことこそが病みの始まりなんじゃないのかな、とわたしは感じるんだけど、一度立ち上がってしまった好奇心ってちっとも大人しくしてくれないから、そこはもう、我慢せずに最後まで思い抜くのがわたしの流儀♪
今までの人生のなかで、ほんとうにたくさん、いろんな物語を持っている人に出会ってきた。
それは、小説よりも映画よりも生々しくて、繊細で、奇想天外で、生命の力強さと、人間という生物の持つ深い喜びと悲しみの歌を聴くかのような日々で。
大概にして、理不尽でどうしようもなかったような過去のことを話すときほど、人は静かに穏やかに笑った顔で話す。
責めることも、怒ることも、悔いることもなく、その出来事が起こったことを完全に許しきれているわけでも、受け止め切れているわけでもなくて、ただ、こうして今を生きている、そしてこれからを生きていくのだ、という、静かな生命の言葉だけをのせて、その人たちはツラツラと、その出来事をわたしに笑顔で話す。
いつからかそれは、前に進むものの顔なんだな、と感じるようになった。
嬉しかったり、楽しかったりがおさまらなくて、ちょっと眠れない日があるように、ある時感じた悲しさや、苦しみや怒りが、しばらく消えずに残ることも、あるのだろうなと思う。
例えばわたしの場合は全部音の響きとしてそれを感じきるのだけれど、悲しみや苦しみの音は、耳をすませていればいつでも響いては深まって広がり、消えることってあるのかなぁと感じるほど、わたしのなかの、人間の意識のなかでとても大きい。
それはまるで海みたいに、意識を満たして、漣をつくりつづける。
温かくて、優しいのに、溺れるほどに地球を満たす海は、そこにきがつかなければ揺れなくてすむ根っこの傷みを、意識の上のほうに浮かび上がらせてくる。
理不尽に怒っては、ただ悲しかったり、悔しかったりした自分を、その海に沈めたまま生きていることを、その波は時々大きく打ち付けて、わたしたちに知らせてくる。
精神でも、肉体でも、だいたいの病みは、その海の温かさを恐れて、逃げ続けた先に存在するのだと、わたしは感じる。
自分が生きたから生まれた本当のきもちを、悲しみの海に沈めたままにした時、人間は、びっくりするほど、簡単に、病む。
愛する人や大切なもの、夢や信念の喪失とか、エネルギーの枯渇なんかは、そのひとつのきっかけであり、結果ではあるのだけれど、本当のところは、「自分が生命の海から、どんな風に抱かれていると思っているのか」の部分の方が大きいのではないかな、と思う。
先に書いた、わたしが人生で出会ってきた「前に進むものの顔」を持つ人たちは、悲しみや痛みや苦しみの海を自分の内に持ちながらも、そこへ自分を沈めたままにしなかったのだろう。
その、感情の流れを生み出した、自分が生きて生まれたから溢れた本当のこころの音を、感情ごと、自分の人生に引き受けて、まるごと、自分ごと、抱きしめたのだろう。
許せないけれど、あなたは、わたしそのものだから。
苦しいけれど、それは、わたしの本音だから。
いろんなことがあって、歪んだように見えているけれど、本当は、最初にその音が生まれた時から、なんにも変わらずに、その生命の喜びは、今もここに、生きているから。
だから、前に進むものの顔を生きる人たちは、自分の生きた生の話を、静かな笑みをたたえたまま、するのだろうな、と思う。
複雑な内面もそのままに、それらの音も隠さずに、ただ抱きしめるように、美しい旋律のように、ツラツラと、静かに。
生命は決して、時を止めることはできないから。
だから、時々は、思い出しながらも、生きるんだろう。
感情の嵐の轟音の奥にある本音が、必ずまた、美しく響きだすのを、誰よりも信じながら。
いろんなものを含むけど、海はきれいよ
生も死も、光も病みも、喜びも痛みも全てがとけて、そのままで、きれい
そのまま飲むにはちょっと、塩っぱいけどな^ ^
わたしたちは、ただ、それを思い出したらいいのだと思う。
いのちそのものと向き合ったとき、本当にコミュニケーションが不可能なほどに病んでいる人間に、わたしはまだ出会ったことがないのだけれど、たとえば、守ることが生きがいになるとき、人間はいつか病むのだと思う。
個としても、種としても。
守るために生きて、生きるために守り、ほんとうに守っていたそれがなんだったかも思い出せずに、守ることに執着した時、人間は、生命としていつしか、病むのだと思う。
その病みは、病気になったり、争を起こしたり、理不尽を続けたり、わたしたちが立ち止まり、その病みに留まり続けるために、本当にあらゆる手を尽くしてくるのだと思う。
それでも、そんな状態であっても。
生命は決して、時を止めることはないから。
わたしたち、人間として生きるいのちは、ある時ふと、前に進むものの顔になり、"そこから"を生きてゆくのだ。
その、前に進むものの顔となった人々は、生きながら、自然と大切ないのちや、生命そのものを守ってゆくのだけれど、彼ら自身はきっと守ることからは解放されて、生きることにいのちを燃やし続けているのだと思う。
全て自分にかえってきて、閉じこめておく棺も、沈めておく感情の海も必要としなくなった彼らの生きてきたいのちの旋律は、世界に溢れて、誰かをゆうきづけ、誰かを癒し、誰かを育むだろう。
全ての教訓は、いのちの世界の、音のなかに。
そうしてね、地球は、その音をぜんぶ覚えてると思うんだよね。
いのちが形をかえて、いつか還っていっても、ずっと覚えていて、そのメロディーを伝え続ける。
それは、子守唄みたいに、世界に響いてる。
わたしはその音を聴きながら、「愛する」、ということを知り、守るよりも愛すること、その音に心底きづいたとき、きっと、世界は大きく変わるだろうなと、ひとつの確信を、いのちは宿す。
留まり続けた人間の感情は、重くて向き合いがたい。
だから時々わたしたちは、そのままの形を守って、伝えてゆこうとするけれど、本当は、ただ愛しあえばいいのだよね。
生きているのだから。
人間と人間として。
同じ言葉をもつ、生命として。
守るよりも、愛し合おう(*^^*)
地球誕生日記 2019年2月17日 日本
地球に暮らす、さやかより♪
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