森の横に建ち、網戸のないわが家では、家のなかを虫たちが歩きはじめると、夏がきたなぁ、と感じる。
生態系が交わっているから発生するこのような出会いは、だけど、必要以上に起こることはなくて、空いてるけど無差別に虫や植物が大量発生するような事態には、今のところなっていない。
なぜなら、彼らは生態系ごとわが家のなかを横断しているから、何かが入ればそれを食する何かも入ってくるし、それがはいればその最初の何かはいなくなり、そうしてそれを食するために入った何かも、結局はいなくなるからだ。
森という最高の環境を持ちながら、森ほど彼らにとって暮らしやすくはない人の家のなかで、彼らが必要以上に大量発生することは、本来ないのだろうなぁと、ここに20数年間暮らし続けて、そんな風に感じる。
そんなこんなで、今夜は毒虫と遭遇した。
しかもベッドの上だ。
女の子なら叫んで取り乱した方が可愛いのかもしれない場面だけど、わたしは一瞬驚いたあと、「あ、夏がきたなーー」と、風流を感じてしまった。
毒虫は、夏によく遭遇する。
ベッドのうえで、今年もめぐってきた風流を眺めながら、わたしはしばらく、その毒虫を外に出すかどうか考えた。
なぜなら今日のわたしは、とにかく動きたくない状態なのだ。
毒虫がベッドにいたからとて、彼らが本当はとても慎重な性質であり、自分からわざわざ人に近づいてくるような存在じゃないことを、長年の森生活でよく知っている。
(ゴキブリはちなみに好奇心が結構旺盛かつCommunication可能な存在で、放っておくとこっそり近づいてくるので、見つけたら「ここにいると死ぬよ」、と告げて、自分から外に出ていってもらう)
だから、普段なら放っておいたと思うんだ。
この部屋にはわたししかいないし、最悪、なんらかの要因で驚いた彼らに刺されても、痛いのと、ちょっと腫れがしばらく続くくらいで、いのちには関わらない毒虫だし、そんなことでわたしは虫たちを嫌いにはならないから。
でも。
刺されたら痛いのは、確か、なんだよね
そう思った瞬間、少しだけ毒虫を外に出すかどうか迷った。
せっかく静かにそこに居るから、下手に怯えさせたくないし、かといって、怖がりな彼らがCommunicationに応じるとも思わなかった。
それで、わたしはしかたなく、しばらく様子をみることにした。
無理に外に出すのも、そのままにするのも、どっちもわたしの本音じゃないのなら、間をとって、様子をみようと。
そうしたら、ね。
普段はぜったいに近づいてこないその虫が、だんだんと近づいてきたんです。
隠れながら。
また顔を出して。
少しずつ、わたしのそばに。
そうして、あ、掴めそうな距離にきた、と思ったときに、そばにあったノートにその虫は乗って。
わたしはそのノートに毒虫を乗せたまま、ベランダまで歩いていった。
ビニールに捕獲しても、ジッとしているところなんてみたことなかったのに、毒虫は動くノートのうえで、びっくりするほどジッとしていた。
そうして、ノートに乗せられて、ベランダから外に出ることをいつのまにか了承していたらしい毒虫は、結果的に自らの意思で、わたしを使って、わたしの部屋から出ていった。
怖がりでいつだってわたしたちに背を向ける毒虫とはCommunicationできないんじゃないかな、と思い込んでいたわたしの驕りを、見事に綺麗に、塗り替えて。
"刺されたら痛い"
という、彼らの持つ毒。
わたしたちには、きっとその痛みを避けるための、あらゆる手段を選べる可能性がある。
殺したり、避けたりもそうだし、捕獲したり、根絶したり、コントロールしたりもそうだと思う。
Communicationも、そう。
でも、痛みを避けることなく、だけど、刺されることを受け入れることもなく、本当は殺したくないのに、それを堪えて殺すわけもなく、そんなどっちつかずな自分の心だけを受け入れたとき、わたしはCommunication不可能だと信じていた彼らと、そうしようと思わなくても、Communicationをしていた。
彼らの怯えは、わたしたちが「毒の与える痛み」に感じている怯えそのもので、それを自覚しさえすれば、彼らが毒を持っていようと、薬を持っていようと、ただ、他のいろんなものと同じように、お互いにイーブンな関係だった。
きっと、人間同士の世界でも、同じようなことが起こっているのだろうな
ありきたりな初夏の毒虫との出会いは、なんだかとても、深いSenseの世界だった^ ^
Book of natureとはよくいったものだけれど、森のそばの生活は本当に多くのことをわたしに教えてくれる。
この近代の世界でも、アスファルトに閉じられていない、土と雨の流れる森の世界が、わたしの暮らしにあってよかった。
生命は、本当にamazing^ ^
2019年5月7日 令和を迎えた日本にて
地球に暮らす、さやかより♬