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陰陽師0みたよ

 コンタクトレンズの装着液が切れた。乾いたケースの底で転がる一滴の桃色を見ていると、そういえば口座残高もちょうどこれと同じように底を尽きているのを思い出し,気鬱を募らせながら歯磨き粉を歯ブラシに乗せる。この土日,本当は家に立て籠ってモンハンでもしていようと思っていたのだが、彼女の強い圧力に押し負けた私は金曜夕方に「明日映画行こう」の言質を取られてしまっていた。鑑賞する作品は『陰陽師0』。そう、昨今の邦画あるあるの、山崎賢人中心の“いつメン"で作られた量産型映画である...などと言いながらも,こういった批判が本質的でないということは重々自覚するところであった、というのも,主演男優がいくら被ったところで個々の作品はあくまで個別的であり、穿ったメタ認知を排して作品それ自体として鑑賞を行うべきである、という反省を行う小人が頭の中にいた。それ故、今回は私の中にいるその様な、私の偏屈さに歯止めを掛けてくれる貴重な小人の声に耳を傾けるという意味もあり、正直見たくもなかったが『陰陽師0』を鑑賞することになったのである。
 観るからにはきちんと観よう、そう決意していた。映画というのは往々にして,興味がそそられないものでも一定時間集中して鑑賞していれば自ずから没入感が生じてくるものだ。
 レイトショーということもあり、件の八番シアターはもう間も無くくたばるであろう我が実家の要介護認知症老人の骨密度並みにすかすかであった。腹が減っていないと豪語していた彼女がしっかり購入したバーベキュー味のふりふりポテトを,彼女がトイレに行っている間中に振りに振りまくる。シアター内で反響するポテトと粉の音を聴きながら山崎賢人が物忌みや方違えをする場面を想像していると何組かの鑑賞客が入場して来て慌ててポテトの震度を下げた。彼女が帰ってくると忽ちシアターが暗くなり,ここに来て「帰りたい」、「モンハンやりたい」などと切実に助け求めるものの時既に遅し、早速山崎賢人(安倍晴明)が意味深な夢を見始めた。
 安倍晴明が見ていたのは両親を斬り殺される夢であった。この後同じ夢を何度も見るが,犯人の顔は逆光(?)か何かで見えない。どうやらこれは実際に見た記憶が夢になって現れているらしく、しかしどうしても顔の見えない(思い出せない?)晴明に対し,カウンセリング役の僧侶は「見えているはずですよね?見えないのはあなたの意識の問題です」と言う。
 カウンセリングを終えた晴明は帰り際に,寺の廊下で露骨に不細工な貴族(?)達に呪術をやってみろと言われ,そこで実際に庭にいた蛙を葉っぱを飛ばして爆散させる。血飛沫が飛び,貴族達は「ひえ〜」とこれまた露骨に情けない声を挙げながら退散する。それを廊下の奥で見ていたのが、陰陽師界のお偉いさん,染谷将太演じる源博雅である。
 博雅は安倍晴明のことが気になり、陰陽師学校を訪れる。この陰陽師学校は身分制度が厳格で,陰陽博士である五人のおじさんが牛耳っている組織である(もう既に、歩いているだけで明らかに悪そうな顔のやつがこの中にいる)。博雅は博士達よりも偉く、恭しく出迎えた博士達に「今日はあなた達ではなく晴明に会いに来たのだ」と言い切る。当然博士達は不機嫌そうな顔をし、北村一輝演じる博士は晴明に「何を言われても断れ。お前の様な学生に対応できるお相手ではない」と嫉妬と警戒心丸出しの発言をし、「そこまで命令される筋合いはありません」とINTP過ぎる晴明に言い返されると、先にストスト歩いて行く晴明の背中を正に"腑が煮え繰り返る"といった形相で睥睨した。
 さて、博雅と対峙した晴明であるが、ここでも不躾な態度で博雅を困惑させる。話の内容は呪術で、晴明は呪術に掛かる奴なんて馬鹿だ、と言い切ってしまう。鼠をいきなり出して身体を這わせたりと、色々な呪術を博雅に実演してみせる声明。そしてそれに対して『寄生獣』で同級生の惨殺死体を目の当たりにした時くらいビビる染谷。この一件から、晴明と博雅は仲良くなっていき、一緒に皇族の徽子女王が頭を悩ませているという夜中に琴の音を鳴らせる怪異と対峙することとなる。そしてその後に起こる陰陽師学校内の殺人事件も二人で解決に向かって奮闘し,最後は全ての黒幕が現れて...。という話なのだが,面白い(面白くない)のは安倍晴明の呪術に対するスタンスである。というのも,安倍晴明は博雅に会った時,呪術のネタバラシをしてしまった。それは「錯覚」である、と。蛙を殺したのもいい感じのタイミングでどん!と足を鳴らして蛙を逃し,傍にあった桶の水をいい感じに(ちょうど4Dシアターで手前から噴霧される水の様に)飛ばし、焚かれていた若干の幻覚作用のある(?)香の作用や貴族達の先入観も相俟って錯覚を生じさせた、ということであった。博雅に披露した呪術も、鼠に見えていたものがただの雑巾だったりと結局は錯覚である、というオチであった。陰陽学校の師匠であるお偉いさんの爺さんに対しても晴明は「陰陽師なんて、ありもしない鬼を吹聴し、呪術とか言って人々を不安にする詐欺集団だ」くらいに言い切ってしまう。つまりこの作品内における呪術とは専ら観念的な体験でしかなく,実在を伴った物理現象ではないのではない、というのが序盤から明かされる。この後も晴明は「事実だけを見ろ(呪術という錯覚に騙されるな)」や「祟りなんて無えよ。後ろめたい気持ちのある馬鹿達が勝手に祟られたと思ってるだけだ」などなど言いたい放題で,実写版呪術廻戦を楽しみに来場した観客達はこの辺りで絶命する。呪い殺されたという例の学生殺害事件に対する晴明の対応も,呪術師の「呪」どころか「じ」の字もなく,FBI捜査官さながらの物的証拠に基づいた推論と検死(墓荒らし)によって犯人への糸口を掴んでいく。ここまで鑑賞して私は「主観を離れた客観的事実に依拠した認識こそが正しい」、「呪術なんて錯覚で存在しない」など、露骨に現代人の価値観にマッチする様に調整された安倍晴明のキャラデザインには些か違和感を覚えた。ファンタジーとして呪術をやり過ぎると内容が幼稚になりがちなのは事実だとは思うが,それにしてもここまで呪術を「錯覚」で片付けられてしまうと、そもそも陰陽師学校、ひいては陰陽師という制度そのものを存在させている平安時代の政権全体が「馬鹿」ということになる。実際博雅ですら馬鹿呼ばわりされているのだ。また露骨過ぎるほどの「晴明アゲ」の描写は多く,最早周りの学生達など、晴明の頭脳明晰さ、戦闘能力の高さを引き立てるためだけに存在する舞台装置以外の何者でもありはしなかった。平安時代に転生した現代人の様なキャラデザの晴明が、平安の世で分かりやすく無双する様は、些か邪推かもしれないが、「陰陽道などという非科学的な学問を信仰していた平安時代の人々に対する現代人目線の見下し」を利用し、観客に思考停止的な共感と安売りの優越感を抱かせることを狙っている設定であるとしか思えない。作中で散見される身分制度に対するこれでもかというほどの批判的な文脈にも、似た様な意図があるように感じられた。たまたま生まれた時代が現代なだけの人間達が先人達の行いを瑣末な戯言として小馬鹿にするという構図は大変気分が悪く、これで易々と気持ち良くなってしまっている阿呆共は千年後の人間達に今自分達がしているのと同じ様に嘲笑されるという可能性に思考が及ばないのだろうと思った、さて、そんな観客批判はさて置き,作品批判に移ろう。最初に言っておくが私ははなから批判するのが目的でこの映画を観たわけではない。現代哲学の授業を受ける時と同じくらい大真面目に思惟を巡らせながら見た結果として,おかしな所が多かったと思っているだけだ。この映画のおかしい所は「呪術=錯覚/思い込み」という構図に集約される。映画の中盤以降は晴明と博雅含む学生達が森の中に迷い込み,色々と危険な目に遭うという展開で進む。博雅は炎のドラゴンに襲われて手が黒焦げになってしまうし,晴明はまたあの夢を見て泣き始めるし,学生達は殺し合いを始めるしと大変な展開が延々と続き,それが黒幕と思しき人間の踊る「狂気の舞」による呪力作用であることも示唆される。お分かりいただけただろうか?全て錯覚である。炎のクソデカドラゴンを晴明がかっこよく召喚した水のドラゴンがやっつける!かっこいい!...錯覚である。学生達が殺し合いをしている!恐ろしい!...妄想である。博雅の手が焦げた!普段は感情的にならないあの晴明が友達のために怒っている!...思い込みである。どこかでこんな展開を見たことがあるな、と数秒考えた後に思い出したが,これは『映画クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃!』と全く同じである。一応、集団的な無意識の世界に入り込んでしまったという設定になっており、完全に主観的な妄想というよりは他者と共有可能な共同主観的夢体験ということで、夢の中で死ぬと現実でも死ぬのもあり緊張感も一応あるのだが,にしても延々と、それが晴明の言う「馬鹿」の見ている錯覚であると知らされた上でCG塗れの夢映像を見せられる観客の気持ちにもなってほしい所である。なるほど,『陰陽師0』は「陰陽師0人」という意味だったのか,などと考えながら画面を眺めていると,なんと徽子女王(衣装が花かっぱみたいでほんとに面白い)と博雅が花の舞う綺麗な場所(妄想である)で語り合っている(事実ではない)ではないか!博雅は徽子女王を陰ながら懸想していたのだが,彼女は帝に求婚されてしまっていた。徽子女王も博雅が好きだったから、最初は彼女の「身分制度なんて嫌!みんな勝手に私のことを決めてしまうの!」や要約すれば「私と駆け落ちしてよ!」くらいの内容のヒステリーで始まった絢爛たる修羅場であったが,博雅が「我々は無意識の世界で繋がっているのですから、大丈夫ですよ」と、何がどう大丈夫なのか全く分からない説明を施し、それに対して何故か納得した徽子女王は「ありがとう。私ずっと寂しかったけど、もう平気。帝と結婚するわ」と、これまたどうしてそうなったのか全く理解不能な納得をして、最後は無意識で繋がってるから肉体的に繋がらなくても良かったって言ってたのに何故かハグ(キスもしてたかも)をして、ハッピーエンド的な顔で夢から醒める、という理解不能な感動シーンが繰り広げられ,観客達は何も分からないまま「ワァ...」とちいかわの様に唸りとりあえず感動する阿呆や、晴明達と同じく寝落ちして無意識の世界に大突撃する者などに分断され,各々にカオスを嗜んでいるのであった。
 さて,夢から覚めた晴明は黒幕の所に一目散に駆け付ける。本当に一直線に行くのである。ドアを開けると「あなただったんですね!」と言い、すると奥から黒幕であった学長が「ワッハッハ」と出てきてたらたらと悪事の顛末を語り出す。アンパンマンくらい分かりやすい展開である。当然晴明がこいつをボコボコにするのだが,最後の最後で面白い台詞があった。晴明は呪術で学長を翻弄し,木の根で彼を拘束して空から出てきた菅原道真の髑髏の口から落とされる雷でトドメを刺すのだが,この時の晴明が「これは誰にも内緒なんですけど,僕は実は意識から物理現象を動かせる呪術がつかえるんですよね」的な事を言うのである。なるほど面白い。そうなると今までの晴明の露骨な「呪術=錯覚」というスタンスにも納得がいく。本物の陰陽師は晴明だけだったのだ。ここに来てガチのファンタジーである。初めからもう一人物質的次元に関与できる呪術師を用意して生命と戦わせた方が絶対面白かったと思うけどこれはこれで大どんでん返しになっていて面白いな、などと思いながら「お前は..本物だったのか...」と言いながら爆散する学長を見届ける。しかしその亡骸は無傷で,先ほどまで建物の天井を突き破っていた木の根も無いのである。はにゃ?????全部嘘だったにゃ????結局晴明の最後の発言も、恐らくは学長に死に至るほどの錯覚を生じさせるためのブラフでしかなく,やはりこの映画は『陰陽師0人』だったのか,と落胆しそうになったその時,一箇所だけガチモンの陰陽師が出ていたシーンがあったのを思い出した。それは冒頭の、徽子女王を悩ませる勝手に鳴る琴の弦に纏わる怪異の時である。晴明は琴の鳴っている現場に居合わせるや否や「鳴っているのは琴ではない」と言い,琴の弦を共鳴させて鳴らせている物理的な何かの存在を示唆し、床下のそれを探る。出てきたのは金色の龍で,晴明はそれをガラスの壺に閉じ込めて一件落着,という話であった。閉じ込められたガラス壷を後で博雅が確認するも,中身は空っぽであった。後にこの金色の龍は徽子女王の博雅を想う気持ちであったことが発覚するのだが,肝心なのはこの場面における琴の弦の振動と、それを惹起していた何かが物理的存在であった、という点である。つまり徽子女王は無意識のうちに金の龍を生み出し,その龍の力(呪術)で物理的次元に干渉していたことになる。そして作中でこんなことを実際に成し遂げていたのはこのシーンの徽子女王ただ一人である。晴明の最後の発言が万が一ブラフでなかったとしたら彼女は晴明と同格クラスの陰陽師、単なるブラフだったとしたら作中唯一のガチの陰陽師ということになる、というか、なってしまう、のでは?そんなことを考えているとラストで,晴明と博雅が「主観と客観なんてどうでもいい,今目の前にあるこれが全てさ」とか本当に元も子もないような語り合いをして、それで映画は終わってしまった。
 以上の様に、ファンタジーと科学を折衷しようとして無粋な展開になり,且つ矛盾点によってとんでもない解釈が生まれてしまった、というのが個人的な感想であった。一回しか鑑賞していないしこれを書いているのも後日なので漏れや記憶違いもあるかもしれない。考察し甲斐があるという点に関しては面白い映画だった、わけねえだろ

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