見出し画像

ダンス・ダンス・ダンスール

まえに「わたしを構成する5つのマンガ」で書いたとおり、
わたしは大島弓子先生のマンガに多大な影響をうけていて、
それでなくてもマンガ大好きで、本を読むのも大好きだったけど、集中力を要さないマンガはエネルギー消費がすくないので、ぼんやり脳内バックグラウンドに流すのにちょうどいい、ので、
ぶっちゃけ文学作品以上にマンガの方が読んでる量はおおいかもしれない。

ってか、もともとファンタジーや児童文学作品のファンである自分は
文学研究対象の主流である古典(正典の意味でカノンとよばれる)の読書経験がとぼしくて、さらに付随して必要とされる哲学・言語学・社会学系のテクストとなると面倒でさわってもいなかったりする。
※講義や他人の議論から漏れきこえる部分からだいたいを想像して知ったかぶったフリで乗りきっている。ほんとはダメ。読むべき。
 でも重要な部分はみんなが口をそろえて言及する部分に収束するので、ぶっちゃけそこだけ知ってれば事足り・・・。

それはそれとして、わたしは狂信的な大島弓子ファンで、
たしかにわたしの細胞の一部は彼女がえがいた線、つむいだ言葉で構成されていると思っているし、
わたし自身にも見つけだせなかった言葉を思いもよらないかたちで差し出されたときの、あの驚きといったら。
あの悦び、鼓動、星のきらめき。

その瞬間だけだったら、それを感じさせてくれたマンガ家(マンガじゃなくて小説家でも、画家とかでもいいんだけど)は他にもいる。
今日マチ子先生の『吉野北高校図書委員会』とか、堀田きいち先生の『君と僕。』とか。
わたしの中のものじゃなくて、わたしの外側にあってわたし自身では決して見られない世界をえがいてくれた人たちは更に、もっともっとたくさん。

また話がそれちゃう。
とにかく、大島弓子作品を知ってるひとなら分かると思うけど、
彼女の作品はトクベツで、たとえば手塚治虫作品みたいに、未来永劫これを超えるものは現れないんじゃないかという、ひとつの極致を誇っている。
もっと別の角度から、ちがうアプローチでそれに迫ることはできるんだけど、
その形式としてはそれ以上ないというような、ひとつの完成形なのだ。

さてそこへ、あくまでわたしの中でなんだけど、
まったく別のスタイルでありながら、追いつき追い越さんと迫っているのがジョージ朝倉先生なのだ。
彼女の『溺れるナイフ』がわたしに与えた衝撃ははかりしれない。
マンガという媒体でこんなことができるのかと、
ほてる体温、肌をこがす火花、目のくらむような閃光を、モノクロの、2次元の画面で表現してみせた。
ストーリーだったりキャラクターの魅力ももちろんなんだけど、
あの作品全体に覆いかぶさるような、物憂い熱気、夏の陽射しのなかでまどろむような気だるさ、空気が身体にまとわりつく感じ。
あれがなぜ、どうして線と言葉で表現できるのか不思議だった。

で、『溺れるナイフ』はもちろん名作で大傑作なんだけど、
目下連載中の『ダンス・ダンス・ダンスール』が、
序盤のバレエ興味ない勢を置いてきぼりにして、どろどろ学園ドラマからめる展開から、
あれよあれよと重い衣服をぬぎ捨てるように抜けだして、
”なま”の衝撃を、感動を、むきだしぶつけにかかっている。

ガーンと殴られるような衝撃。
『ダンス』は序盤から「ビリビリ」「バチバチッ」「バーーーン」みたいな、少年マンガの格闘シーンみたいな効果音の描写があふれてたんだけど、
それがここに来て、ほんとに聴こえるようになった。

バレエくわしい人とか、好きなひとは最初っから感じてたのかな?
とにかく私は序盤、それこそ5巻とかその辺りまではひたすら退屈で、主人公の潤平に(も、その他のキャラにも)ぜんぜん共感できなくて、
ハズしたかなー、それより『夫婦サファリ』の続き読みたい、とか思ってた。

それがするりと身を翻し、目の前でとびちる火花、まぶしくて目のくらむような陽射しを、これでもかと浴びせてきた。

いつの間にか夢中になって、単行本派のわたしは常に最新巻の発売を心待ちにしているんだけど、
先日6/12に発売された最新17巻がまた、衝撃的にすばらしかった!!!
(イギリスにいるので、Kindleで予約購入。電子書籍は便利だけど、人に貸して布教活動しづらいのが難点。)

くぅっ、コマ投稿できないのが残念でならない!
(著作権者の許諾を得ずに作品等を公開してはいけません。ネット全盛期ではこの辺がかなり曖昧になってきているので、注意しましょう。
 実際のところ、非営利目的であれば罪に問われるほどのことにはならないだろうけど、厳密には違法です。罰則適用されても文句は言えない。そうでなくても、「知らなかった」で人を傷つけることのないように心がけましょう。)

ひとによってはきっと、なんでもない、なんてことのないシーン。
でも憧れのダンサーを前にして、初めてそのひとの踊りを観たときの衝撃を、感動を、それこそなんの衒いもない稚拙なことばで再現するシーンが、
そのまっすぐな、暴力的なまでのひたむきさをノーガードでくらうそのダンサーの心に起こるさざ波が、
息づまるような勢いで流れこんだ。

気づけば息を止めていて、気づけば涙がこぼれていた。

太鼓とか、生で聴いたことあるかな。そうでなくても、好きなバンドのライブ会場とか。
音って、生で聴くと振動なんだ。地面が、大気がふるえてビリビリと振動し、じぶんの身体も否応なく揺さぶられる、あの感覚。
身体のなかが震えるような、あの、生の音をくらう衝撃。

このシーンではじめて、序盤からずっと主人公の潤平が感じてきた衝撃音がわかった。
私にも、わかったんだ。
わたし自身が感じるように、じぶんの中で音が鳴るように、身体が震えた。

これがマンガで、線と言葉でつむぎ出されたなんて信じられない。
それだけのエネルギーを、丸ごとぶちまけられた衝撃。
マンガという媒体でこんなことができるなんて、想像もしなかった。

ストーリーで、キャラクターで、セリフで、表情で、共感させる、感動させるのとはちがう、
それはたしかに、空気が丸ごと震えるような衝撃だった。

あぁこれがどれほど、どれだけ人に伝わるだろう。
わたしと同じように感じるのでなくても、そこに確かに奇跡があった。
マンガであることを忘れるような、ひとつの奇跡をみたんだ。わたしは。

『ダンス・ダンス・ダンスール』はバレエダンサーの話だから、
バレエを通じてどれだけ物語を、生き様を、表現できるかを突きつめていくんだけど、
まさにこの作品そのものが、生命力のかたまりとして火花をちらして飛びかかってくる。

こんなことができるなんて思わなかった。
読後しばらく余韻のように痺れがのこる手で、ジョージ朝倉先生のツイートにコメントする形で感想をつぶやいた。

一体どれだけ、どのくらいの人がこの衝撃を体験しただろう。
それぞれ受け止め方はちがうかもしれない。
なんとも思わない人だっているかもしれない。
だけど私は、私にとっては、それは奇跡だった。

あぁこの煌めきが、一体どこまで、いつまで続くだろう。
瞬間が永遠となるような、そのために言葉が、本がうまれたように、
この作品が世に出たことを、じぶんがその瞬間に立ち会えたことを、じぶんの生命そのものに感謝するような、
こんな体験を、あと何回できるだろう。

きっとそう多くはないこの衝撃が、
願わくはほかの誰かにとっても救いとなりますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?