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世界と、その頂。降り積もる万象


 前回までのナルニア話はこれを書くための序章でした。
あの物語を読むことを核として、わたしのなかに形作られた世界観を、ざっとここに書いてみようと思う。

ナルニアをよんでいたら…しばらく読み返せていなかったから、「わたしの心の中にあるナルニアの全てを回想して」に近いのだけれど、なんだか考えが溢れ出してしまったので吐き出そうと、いつものようにTwitterをひらいておもうままに活字を紡いで書き散らかした。わたしのようなイメージ思考の毒霧まき散らかし系魔人にはこれが思考をとどめて形にするすごく有効なツールなのだけれども、自分で読み返しても頻繁に、エッセンスすぎてわけがわからないものになることは多い。それをなんとか補足して、形にしてみようとしtれみます。「書き散らかし」なだけあって、断片をそのまま放流している形になってしまっているので完全な再構築になっちゃいますけど。

著者のC.S.ルイス氏はキリスト教の研究者であったと聞きますが、キリスト教的考え以外にもいろいろな考えを取り込んでいるようにも思えます。わたしのこれも、たんに「自分が考えたこと」であり、昨日読んだカスピアン王子の角笛以外はここ4年ほど読めていない状態ですし、ナルニアがきっかけでこんな考えに至ったというだけのものなので、ナルニアとしっかり絡めてしまうのもどうかとは思ったのですが、その地盤がないと説明が難しかったので、前段二編を出してからの投稿となりました

これかきおわったら読むぞ「さいごの戦い」を!

今読んじゃうと、あ!ここ勘違いだ!とか出てきちゃいそうだからね




さて。

ナルニアを読んでいて思ったというか、思っていた、思い出した、見えてきたことなのだけど。

ナルニアで書かれていた世界の始まりの光景はとても印象的なものでした。「悪ってなぁに?」と口々に言う物言う獣たちの姿。そこは「これからできてゆく世界」であり、「あたらしい場所」「白紙に近い社会」であることが明確に表現されていたから。なにか、新しいものを始めるときはー新しい場所、組織、生命…どんなものも喜びや期待、希望に満ち、白紙という状況の上に正しさと清浄、幸福や発展がみちあふれたところとして出発できるだろうということが、ここまで時間を積み重ねてきたらよくわかるようになった。新しく作り上げられたところの特権として、更地or白紙から作り上げるというのは、良くも悪くも何もないところから始められるということに他ならないからだ。「すこししかない」ということはコントロールが容易であるということにもつながり、問題はおこりにくい。

でも、どんなに理想的にコントロールされていた世界や組織でも、歴史が重なれば、そうならないように細心の注意を払っていたって、悪や穢れや汚れも積み重なり、悲しみも悪感情も降り積もってしまう…その細心の注意こそがそれらの促進剤となってしまったりすることもあるだろうし、どのような手段によってもそれは免れることのできないものなのだろう。人が生きていく場所には「そこにあったもの」として、なにかに刻まれて残ってしまうものが、確実にあるのだ。おそらく、そのようなものがあることに気づき、何か消せる手段はないのか、祓えないのかと願ったのがお祓いや懺悔や免罪符の原点なのではないだろうか。「あんなことをしなければ」「あのひととであわなければ」「祖先がそんなことをしてしまったばかりに」「あの事件がなければ」なんてところから「毎日歯磨きしていれば」「一日五分でも勉強していれば」まで、罪や穢れ、感情や歴史、積み重ねを一旦消去するための手段は人類の誰もが一度は欲しがるものなのではないだろうか。

でもね、そんな行為や思いすら、「あったもの」として降り積もるんだよ、人の世は


「そこにあったもの」は、消えずに降り積もる。個々人のなかにも、組織の中にも、世界の中にも、宇宙の中にも。爆発した星だって、消えてなくなるのはその形だけであって、その構成成分は消えずに飛散し、どこかに残っていくのだから。わたしたち人間の体だって、燃やされれば煙のような粒子や気体、燃えかすになって確かに「残って」いて、消えることはない。飛散はするが、消滅はしていない。煙として空中に飛散されたとしても、いずれ地上に降り積もる。そう、地上に長く形を持って続いたものほど、どんなに広い土台に立てたとしても、そこに降り積もるものがある限り、砂時計の下の段のように、どんどんと上から降り積もるものを浴びつづけているうちに小山のようになり、降り積もるものの上に競うように建てていくほかなくなるために、その地はどんどんと狭くなり、高くもなり、大山の頂のようになってゆくほどに豊穣で自由なはじまりの大地からは遠ざかっていってしまうこととなるのだ。


それだからこそ、社会に技術は発展して、守り育てるちからとなる

高い山では人は生きづらい。
食べるものを作り、効率をます道具を増やし、豊穣の森への憧憬は慰みを発展させ、人がより、人として生きるようになってゆく。人がより、人を生かすように、なっていく。それをみて「技術が人を大地から切り離したと非難する」近視野な人々も現れるだろう。なくては生きれぬ、いかされているその術を非難する人々も。鶏が先か、卵が先か。大地から切り離されていくことは止められないから、技術が生まれていくというのに。

しかし、山の頂はどんどんと高くなり、酸素は薄れて太陽は近くなるが、確実に広く裾野へはつながっていて、頂上付近に棲まう者も裾野に住まう者ももちろん存在しているだろう。山がどんどん積まれるほどに、裾野はどんどん広がっていくので、山頂付近と裾野での人の密度の差は大きくなるばかりだ。大きくなればなるほど、裾野の村は分断されて、彼ら同士の交流も難しくなっていくであろうし、それだけではなく、裾野にも人が住む限りは、降り積もって、しまうのだ。大山の裾には小山ができ、山腹にもでき、交流が断たれてしまえば全く別の文化を興すことにもなりえようし、敵対することすらあり得るだろう。そして、頂からあふれる者も快適高度から落ちる者ももちろん存在するだろう。人が生きる限り、のぞみが生まれ、望みが生まれてくる限り、失望や諦めも、随伴するのだから。そしてまたうまれる、ふりつもる、もの。

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そのような世界の中において、その仕組みをなんとなく感づいてきた人々は、最高度の頂に棲まうものを夢想してそこに至ろうとしてきたのではないだろうか。それこそが神の世、技術の粋であり、理想郷であるのだと信じて、目指してきたのではないだろうか。自然に翻弄されて苦しみもがいてきた物が降り積もった存在としての記憶からか、はたまた反対に自然の脅威こそを求める想いからなのか、そこに山があれば登るのだ。登ろうとしてしまうのだ。坂があれば登るハムスターのように。上り切ると、出られないバケツがあるともしらずに。しかし、人の世の頂にはそんな救いは置かれていない。

この世界では誰も、これは嘘だよ、ここで終わりだよ、「はい、これは終わり、こっちにおいで」なんて言ってくれないし、バケツの水で溺死して終わり、なんて撤去は設定されていないんだ。おわらない。たかだかひとりが死んだって終わらない。絶望的なほど厳然と、積もってしまう。自分さえ。何もかもが、積もる。作者はいない。全能のものの思惑通りに動かされるようなことも、ない。決断は、委ねることができないが全て、確実に降り積もる。

なかったことになんて、一つもなりえない。
すべてが、「あったこと」なのだから。

そうなると、悲しみや苦しみだけしか積もらないなんてことにならないようにするためには、全てを失くすか、生み続けるしかない。

そして、すべてをなくすよりも、生むことの方が簡単なのだ
簡単ではあるけれども、それはすべて、また積もる。

死してもなおも、積り続ける

誰かが死を選んだとしても、それは死を、死により起こることを積むことに過ぎず、自分がこれからを見ることを放棄するだけのことに過ぎない。悲しみや虚しさを多量に積むくせに、自分は逃げたつもりになるだけだ。死後の世界があったとしても、なかったとしても、自分で選んだ死は、自分の存在に積まれてしまうであろうし、周囲に対して多大なるものを積む結果となるであろう。


だからぼくは、うみ、つくり、そだて、そだち、暮らし、笑い、もがく中で、自分にできる精一杯でいい、悲しくないなにかを少しずつでも降り積もらせることができたら、多くの生物がそれをすることができたのなら存在の意味が悲しいものではなくなっていくのではないかと考えている。それが生命の意味だと、考えているのだ。

おそらく、獣たちや虫たち、人でない生き物たちが積んでいるものにヒトは支えられて、なんとか生きながらえてきたんだろうとも納得ができる。それこそ、豊かな土のように。降り積もるものが悪徳ばかりにならないように。

善くあるように、生きること
自己を正しく高めていくこと
それによって、できることはたくさんあるんだ


創造神が存在するのなら「美しいものが降り積もる可能性」と「悲しいものが降り積もる可能性」のどちらも考えていたのだろうと思う。アスランのように原初の悪を締め出すつもりでいたのかもしれない。

しかしひとたび原初の悪が入り込んでしまったた、世界を治めることができるのは、悪も善も択ぶことのできる力をもつ、人間=アダムの息子、イブの娘たち以外には存在しなくなってしまう。善なるものであるはずのアスランにこそ、それはできないことなのだろう。そして、彼は世界の一端などではないのだからなおのことである。

世界の一部であり、ほんの小さなかけらにしか過ぎないのに善悪の選択権をもつヒトという存在。アダムの子たちは限りなく自由かつ、ヒト以外には定められている「性質」があまり規定されていない(=本能以外の決定機構で行動することができる)不穏分子でもある。だからこそ彼らには、王や女王であることが求められた。彼ら自身が決断し、決定し、判断することが求められるからだ。「そいういうたちだから、そうする」「古の昔からそう決められている」わけではないのだから。

「魔術師のおい」でもたらされてしまった悪の侵入は象徴的でもあったけれど、完全なる悪の侵入は「遅らせる」ことはできても、完全に阻むことはできないのだろう。赤子の成長と全く同じように、だ。どこかに存在している限り、病原菌のように伝搬してきてしまう。悪い言葉が存在している限り、どんなに天使のような子でも、守り育ててきた子でもいずれ「バカ」などと口にする日がくるのと同じように。そのようなものと戦い続けなかればならないことも、かなしみのひとつなのかもしれない。

楽園には選ばれたものしかいけない。だからこそ最後のあの世界の先が描かれなかったのは「愚か者がいないと(少ないと)物語は成立しない」からなのだろう。美しい心と勇気と知恵を持った人たちしかいなければ、どのような冒険も平穏に成功するだろうし、無謀な冒険は最小限になり得てしまうので、壮大なストーリーはもはや生まれ得ないに近しくなってしまう。しかし、本来ならそこにもおそらくちいさな諍いはあるだろうし、悪の侵入もそのうちには起こるのだろうとも、予測はできる。玉ねぎの皮のように、むいてもむいても、中に行くほど柔らかく甘いかもしれないが、また同じものと言えるものが出てくるのだ。

そのような、悪や困りごとの侵入がない世界があるかもしれないと思えることこそが、最後の救い。頂への夢と同じだし、「新設」にある望みと同じものでもある。「天国へ至る道」という考え方に近いかもしれない。

薬物や性行為で天国云々言われるのも、そのつまれるもの、積まれたもの、つまれていることをひとときだけでも忘却させることができるからなのだろう。人は誰でも、その事実をどこかで感じているのだろうから。ひとつひとつは、つみかさなる。

しかし、王や女王たちだって、あの楽園にいたった後に、自らに降り積もったものを捨てて新設地を興そうとは思えないのではないかと、思う。積まれるものは、負ばかりではない。だからこそ、楽園に至ったものたちは余計に、積もったものがあるがゆえに、そこを離れようとは思わないだろうし、だからこそ、悪が呼び起こされてしまうこともあるだろう。積まれるものが負ばかりではないからこそ、希望もある。


「山に登って迷った時は、降りてはいけない。登っていくべきだ」

登っていくしか、ないんだよ
裾野に住んでいたとしても、動いたからには頂上を見上げることになる

でも、アダムの子たちには「そういうふうに決まっている」ことがないから、それをみても、自由に感じて決めてよいんだ


人間の始まりは、二足歩行による両手の自由
そして、言語の習得によって得られた思考という完全なる自由領域の取得だと考えている。

そうすると人間の本質的な特異能力は「自由」なのではなかろうかという発見に至ることができる。意志をもって決定できるという自由を持つ存在。だからこそ、さまざまのことが複雑化してしまい、決断と決定が多種多様大量になり、降り積もるそれら自体が自種を縛ってゆくことになるのだけれど。でも、だからこそヒトはヒトで、ヒトは自由で、「無限の自由であるが故に降り積もる制限のしがらみ」に縛られていくこととなる。それこそが人間存在の最大の矛盾なのかもしれない

全ての人々の日々の生活は皆の善意の上に横たわるはかない薄布のようなものだ。皆が他人に悪いことをしたいと思っていなければ、平和で穏やかな時間が流れていくが、その反対でひとつの悪意で簡単に引き裂かれてしまう。1人の人間が「誰かを殺したい」とおもって実行してしまえば、その周辺の平和は簡単に引き裂かれる。思うことには制限がなく、そもそもが自由である。そこに制限をかけていくのはあくまで個人個人の良心であったり、慣習に従おうという気持ちであったりするだけで、それらを採択するかどうかすら、個人個人の自由に委ねられてしまうものであることを現代の暮らしでは忘れてしまいがちだが。


自由であるがゆえに制限が必要で、制限があるがゆえに自由は完全には享受されない。しかし、その制限のおかげで制限された自由は担保されている…


これが、私がナルニアを書くとして考えたことのアウトラインのようなもの。
ひとつひとつのお話から導かれるものはまだあるのだけれど。
ひとまずはここで、Safariを閉じて、kindleをひらき、また、ナルニアの世界を味わいに戻りたいと思います

読むたびに、何かを見つけられる、それがナルニアの素晴らしさなのですから
この思考を携えて潜ればきっと、また何かに気づくことができるはずです
そんなふうに、生きていきたい


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Lico.
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