「お気に入り」の有無って、人生そのものの類似品
「つかえればいいじゃん、100均で十分だよ」
っておもってましたおもってました。
「これとこれが500円違うってなにが違うの? 色? ならこれでいいじゃん」
ええ、そうしてましたとも。
ずっと、そうしてました。
使えて安ければ、それでいい。
それで節約してる自分は賢い消費者なんだってニコニコホクホクしていました。
今ならいえる。お前はアホや。
そして、今のわたしも、アホまっしぐらです。
アホまっしぐらの自分に自戒を込めて、あの時何があったのかを思い返してみようと思います。
っていうかそろそろほんとに人生浪費すんのやめないとどんどん時間残量が減っていくっちゅうねん。
なにしとるんやワレェ。
って、住んだこともないのにエセ関西弁が溢れ出してきてしまう程度にはなにしとるんじゃいと自分に対して腹立たしく思っているところもあるのでね!!
それじゃダメって気づいたきっかけは、あのひとのヒトリゴト
大学時代、料理が好きな教授が自分の腕を披露したいという目的が大フューチャーされて開催されている研究室旅行 “教授の大先輩の住む古民家に皆で料理して泊まって呑む会〜メインは先生のさばく新鮮なお魚料理〜美味しい日本酒もあるよ” が毎年開催されていたのですが(名称はいまここで私がなんとなくつけた。なんとなくわかって)これが、まぁめんどくさくもあり、素晴らしくもありのまさに大学生!といったイベントだったのですが
あるとしのこの旅行先で、先輩が何気なくつぶやいたヒトリゴトがずっとずっと心に引っかかって離れなくなってしまったのです。本当に、ぽろっと出たような、鋭い苛立ちの発揮のようなその一言は、今でもガッチリ心に残るひとつの石碑のようなものの一つとして君臨し続けることとなってしまいました。あれから15年以上たった今でもあの時の空気感とあの一言あの声は鮮明に思い出すことができます。あんなに苦手なあの人だったのにその一言がその後の私のものの見方を大きく変えることとなったのです。
あの日あの時あの言葉
うちの学校では珍しくもないのですがその方には社会人経験がありましたし、結婚されていました。「はぁ? ケチャップ? あれは砂糖よ!」などと名言も多く、はっきりした性格でもあり目立つ方だったなぁと懐かしく思い出します。
この会のメインイベントは教授の大先輩が念願かなって手に入れた田舎暮らしを実現しているところに10人くらいでお邪魔してワイワイと囲炉裏端で飲んで食べてをする会なので当然女性陣が中心になって午後からの買い出しや料理をしていくことになるのですが、彼女は「家庭の台所を取り仕切っている人の実力」を見せつけまくってくれました。手際と言い、献立作成能力と言い、食材の知識と言い、みなで「おかーさん!」と呼んでしまいたくなるほどの頼もしさを発揮されていたので、皆がその陣頭指揮に従ってハイ!ハイ!と動くような状況になっていったのですが、目的の古民家に到着して台所を一目見た途端にその彼女がぼそっとひとこと、呟いたのです。
「これだからお気に入りの道具を持ってない人の家っていうのは!」
心底嫌そうな顔でした(わりといつもそんな顔でしたけど
本当に、ただの一瞥をしただけで吐かれたその一言が、わたしの心に刺さっていたのです。
そのときはあまり意識してなかったんですが、後からじわじわとその言葉は染み入ってきたようで、数日後にふと、おもいだしてしまってよくよく考えてみたら気づかきました。あれ?「お気に入りの道具を持ってない」ってそんなに知らない人の家の台所をちらりと見ただけなのになんでわかるの?って。
そこは絵に描いたような『田舎の一軒家の台所』だったのですが、たしかに物はものすごくたくさんあったのですが、多量にあるとはいえ広い台所に整頓されていて、目には心地よいところであったような記憶があります。
でも、今ならわたしにもすぐにわかる。
「お気に入りのものがない」のは一目でわかるんです。
理由は簡単。用途のかぶる雑多な道具が多数置かれているからです。それだけで簡単にわかります。
「ものに愛情を持てているのかどうか」
それは、生活の全てに関わってくるとても大切な指標だったのです。
お気に入りの、もの
お気に入りの「心にピタッとハマる大好きで大切な道具」がひとつあったらどうしますか?
「使いたい」と思うのではないでしょうか。
心底惚れて鬼ローンで頑張って買った愛車があればドライブの回数も寄り道の回数も増えます。どうしても欲しくて大金を注ぎ込んで買った万年筆があれば日記とか始めちゃいます。片想いの彼が「返さなくていいよ」っていってくれたシャーペンがあればニヤニヤしながら彼の似顔絵なんて書き始めちゃいます。使う予定もないのにどうしても欲しくなってしまったヒトメボレした便箋があれば無理やりにでも手紙を書く理由を探そうとするでしょう。
お気に入りの道具があったならその使用頻度は高くなります。
機会があれば使いたいし、存在を思い出していたいし、思い出を重ねていきたい
大切なものや大切にしたいものに対して人はそのような思いを抱きます。
なので、似た用途の他のものを使うよりも、それを使いたくなるのです。
お気に入りのものがあれば、それ自体をきちんと理解しようともしますし、そうすればその機能を十分に発揮させ幅広く使えるようになります。周辺の類似物の必要がなくなってしまうのです。そして、何かそれの機能に不足を感じて次の道具を買い足そうとしたときは、今あるそのお気に入りのことを考えて、被らないもしくはその子を補佐するようなものを手に入れようとするでしょう。あまり必要性も愛も感じていなかったものたちはそこで淘汰やリストラをされていきます。
そしてなにより、お気に入りを使うのは「嬉しい」ですし楽しいことです。
だから、つぎに手に入れるものもできれば「おきに入り」になるようなものを探すようになります。そうすればまた、使われる道具は減り大切にされているものが一つ増えます。
そして、自分の日々の生活の楽しい嬉しいここちよいがふえるのです。
きちんとお金をかけたちゃんとした道具は大抵、値段相応の使いやすさや機能が備えられ、デザイン性にも優れています。
「見るだけでちょっと嬉しい」「使ってみてもっと嬉しい」そういう道具は仲間を呼びます。なにより、そういうものを知ってしまうと後に戻るのはもう難しくなってきます。「我慢や工夫をしなければ快適に使えない」「見た目も気に入らない間に合わせ」でしかないものを使うことによりこまごまとストレスをうけながら生活していたことに気づいてしまうからです。道具を使うということは嬉しいと、合わないものを使うことはストレスであることを知ってしまうともう戻れません。きっとあなたは、少しづつ「生活を好きで満たそう」とし始めるはずです。
生活を「好き」で満たすと、なにが起こるか。
「好き」をありったけ詰め込んだ中で暮らすことは大人の特権なのかもしれません。
居住空間自体が好きで満たされるとそこ自体が大きなパワースポットと化します。心地よさと嬉しさに包まれた空間です。そこにいるだけで嬉しくなり元気が出てきます。何かが壊れたらすぐに直そうとするでしょうしひとつひとつのものを大切に扱おうと手入れをするでしょうから散らかりませんし、掃除も苦ではなくなります。視界の全てが好きや嬉しいで満たされていき、反対に雑多なものは排除され、不用品は淘汰されるので、管理自体の手間も大幅に削減されていくのです。
先輩のあの日の一言からここに至るまでは、このような発見の連続でした。
100円のもので事足りていると思っていたところに、1000円、2000円をかけてゆく後ろめたさや罪悪感も最初はありました。こんなにお金かけていいの? 色なんかに差額500円も払うの? って、思いました。
でも、「ちょっといいもの」って、ちょっとやそっとじゃ壊れずながもちするんですよね。10倍、20倍とは言わないまでも何個分もの機能をまとめたうえに使いやすく目に嬉しくてそのくらいの値段なら逆に安いんじゃない?とおもえるようになりました。実際、なくすとか壊すとかで買い替えたりコマコマ買い足したり、そのために収納を買い足したりということは無くなってキッチンはスッキリし、空間的な意味でも快適な状況を維持することができるようになりました。
色におかねをつかってもいいんです。
その子が本当に好きで愛せるようになることに意味があるのですから。
本当に気に入った色なのなら、そこにあるだけで気分が良くなります
その「気分が良くなる効果」には十分にお金をかける価値があると思います
あのとき、わたしが築いていた快適で素敵で、大好きなものに満たされている素敵なキッチンのことはずっとずっと忘れられないでしょう……
わたしの「好きの帝国」は失われたまま
何故過去形なのかって?
それは、現在はキッチンがめっちゃくちゃだからです。もう、なにがどこにあるのかもわからないし間に合わせの低額小物がチョコチョコ顔を出してしまっている有様です。
なにがあったかといえば、一気にやってきた結婚妊娠出産引っ越し妊娠出産です。自分のものの中に夫の所有物である大量の安い=間に合わせ品が合流し、捨てていいものかもなかなか判断できず、調理量や傾向が変わったために使うものも使えるものもかわり、片付けるヒマも愛せるキッチンにする余裕もなく、忙しいからそれでいいじゃんにしてしまっていました。これじゃ、全くダメです。生活がどんどん、わびしくささくれだっているのがわかります。料理をする気も起きないし、日々に喜びがなくなっています……。子供に割られるだろうからと貴重な皿もしまいこんでいます。これではまずい。お皿を割る数や怪我をする率が増えているのもこの悪循環の影響もあるのかもしれません。心にあるのはあの心地よさ。いつかああしたいと思っていても、使いもしないものの山の中に埋れてしまったいまでははるかかなたの富士山の景色のようで……
最近SNS上の広告でもよく見かける「貧乏人の家は汚い」というのが真実だということがよくわかります。物が多くなればなるほど、管理にコストが奪われますし、意識を割くことも少なくなるため使いきることもできず結局他のものが増えていってしまうのです。「お金はさみしがりやだから仲間をよぶ」のと全く同じことで「モノは寂しがりやだから同じような仲間をよぶ」し「ちゃんとみてくれないと数を呼び集めようとする」のです。
いかんですこれ。本当にいかんです。
だってこれ、雑多なものに自分の人生を食いつぶさせているということに他なりません。
それはわたしの生活、つまり、わたしの人生が雑多なモノで埋められているってことですもの。好きでも、嬉しいでも、楽しいでも素敵でもなく、ストレスの溜まるのたまるどうでもいいもので今のわたしは出来上がってしまっているということなのです。
阻んでいるもの
「お母さんになったんだからそんな贅沢しなくていいでしょう」と「疲れた寝たいめんどくさい」そして夫の言う「もったいない」に流されてしまった結果がこれです。誰も幸せじゃありません。一刻も早く、この全てを焼き払って自分のリソースを増やして楽しいと嬉しいを少しでも増やしたいっ!! と、おもってもそうはいきませんので、まずは一つ一つ捨てたり吟味したりする作業が必要でしょう。しかし、それにも時間もリソースもかかるんですよね。少しでも早いほうがいいのはわかっているのに、そのリソースを割くのがいやでたまらなくなってしまうのは、モノたちを、ひいては自分を粗末にしまくっていたツケそのものです。
「これだからお気に入りの道具を持ってない人の家っていうのは!」は、「これだから自分をわかって管理していろどっていない人は!」ということとほぼ同じ意味だったのです。一番もったいないのは、こんな環境で生活している自分自身だよ。うん、わかってた。
後悔先に立たず、と言いますが
人間はやはり、流されてしまいやすいモノで、気がついたらこんな遠くまで流されてきてしまったなんてところまで行ってようやく気づくことがあまりにも多いです。こんなに無駄なものに覆い尽くされて周囲が見えにくくなってしまっているような状況でも、大きく光り輝いて見え続けていた「モノを書きたい」という欲求のおかげこれを書き、書いたことで、今の暮らしがどれだけクソなのかを再確認させられてしまいました。
みせつけられてしまったので、クソはクソなりに脱クソを目指して動き始めます。クソー!俺のくそーーー!!がんばるぞー! 捨てなきゃならんもんを捨てて、娘たちと楽しく暮らすぞ俺のくそーーーー!!!
(しばしご乱心)
きみたちへ
本当に、申し訳ないと思ってる
お片付けとかお手伝い、きれいなものがすきになりはじめてきたぽんちゃんに、それが楽しめる環境を一切提供できていない……おもちゃも本も散らかりまくっているから本来のパフォーマンスを全然発揮できていないし、きみの才能の目を伸ばすことなく摘んでいるような状況なのも、よくわかってる。
何よりも嫌なのが
「片付いた家で暮らした経験がないがゆえに片付け方を一切知らずに育った」わたしとおなじ轍を踏ませることになってしまっているのが今一番嫌で仕方ない。
本当に、申し訳なくて、悔しくてたまらない。
それがどれだけひどいことなのかもわかっているのに。
でも、どうしても人的なキャパが追いつかなくての今の状況なのです……ほんとうに、もうしわけない。
わたし、身を以て、日常であなたたちに伝えたくてたまらないんだ
「好きで日常を埋めて、素敵!や嬉しい!ダイスキ!!を呼吸すること」がどれだけ大切なことなのかをおしえたくてたまらないんだ。
この記事を書いていてそれに気づいたよ。
(だから本編の最後の方は思わず取り乱しちゃったんだけど)
今の自分がほんとうのクソofクソにみえてほんとうに憤懣やる方ない
きっと君たちもこういう、自分が情けないとか、俺クソじゃんとか思うとき、あると思うんだよね。無い方がいいような感情だけど避けては通れないし、こういうものを経験するのはいいことだとは思う。けど、もういい大人になってからは、できれば無い方がいいよね! うん、かーさんもそうおもうよ。その最中にいるけど、今。
ね、ほんとにね。
でもさ、こう考えようよ
「今のわたしはクソofクソ!! でもうんこにはうんこの利点がある!
このクソを肥やしにしてなんとかやってやるしかねぇ!!!」ってさ
クソofクソで、キングofウンコだとしてもさ
それを踏みつけて足蹴にして利用し尽くしてやれば、勝ちじゃん?って
かーさんは、汚部屋かつ自室のない環境で育って今に至るわけだけど
だからこそ「自分の愛せるもの」や「自分の支配下の空間」の重要さはよくわかっているつもり。汚部屋で育ったからこそ、子供の時になにを学んどいた方がいいのかわかったところもある。クソならクソなりに、クソなことを利用し尽くしてやればいいんだよ。クソだからこそ見えることだって、たくさんあるんだからさ。
一番しちゃいけないのは、クソだからって、そのまま直視しなくなること
そしたらきみは、ウンコのままだ。
蠅みたいな男どもしか寄ってこなくなるし、交友関係もそんなもんになっちまう
臭いものには近寄りたくないのは当然の話でね。
でも、適正に十分量に施肥された健康で美しい植物ならば、素敵なものが引き寄せられる。
あんたが今クソなのは、その先にもっともっと美しく伸びやかに健やかになれるチャンスだと思えばプラスになるんだよ。いつまでも、クソ部分を本体にしていちゃ、ダメなんだ。
残念ながら「俺はダメだ…うんこ以下だ…」って思うのって、すんごい気持ちいいんだよね。だって、ダメなら全ての責任を取れなくても当たり前だもん。だめなら、なにもできなくても許される気がしちゃうんだもん。自分を見下して苦しんでいるようにみえるけど、自分が楽になれるっていう、禁断のルートだ。めっちゃ、楽になれる。でもね、そこにいる限り、あんたは臭くて嫌な、役に立たないうんこのまんま。堆肥だってね、ちゃんと処理して、発酵させないと使えないんだよ。
う……しのごの言わないでちゃんと人の住める環境にしてくださいって?
はい……そうですよね、すぐにでもやらないとですよね……
あっ、はい、note書いてる暇があったらやれって、めっちゃ正論です、はい。
だってゴミ箱使えない人が家にいr……あ、はい。だったらわたしがやるしかないのもわかってます。はい。「くだらねーことに人生食いつぶされたくないんだけど!」って怒ってる場合じゃござんせん。はい。きみらの発達優先。はい。ど正論ですね。はい。はいごめんなさい……
まずはポコちゃんも入れるキッチンを構築しないとね。
ゼロどころか、マイナスからのスタートになってるけどね…
みんなで楽しくお料理するの、あこがれだったもん。
あ、はい。憧れとか言ってないで現実化できるんだからしろと、はい。はい。
中学生の君たちと仲良く並んでご飯を作るには、いまの2歳の君とできないと、きっと無理だよね。そして君たちに、片付けるを教えたり、しないといけないし、なにより、散らかっていることで浪費する時間はおそらく全て君たちから食われてるもんね。
うん、
かーさんがんばるよ。
これ以上怪我もしたくないしね。
子育ては、自分育て
必要なのに得られなかったものを彼らに与えるには、まず、自分がその分野でちょっとづつでも育たないと、与えることはできないのです
小さくてもまず、一歩から
脱クソするにはまず、かたづけないと、ね
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