Were Wolf BBS ShortStory_波の行く先
あの村を最後に訪れたのは、どれぐらい前だっただろう。
おそらく私が生きている限り二度と行くことはない場所。優しくて、悲しい人達が今でも住んでいるあの場所。
そして、私が知る由もないものがいるであろうあの場所……。
そこは海の側だというのに活気のない、寂れて閉鎖的な村だった。
行商人の私が訪れた時も村人達と必要以上の会話はなく、正直行商ルートから外したところで特に損もないような場所だ。時折情報を交換する同業者達にも、何故私があの村にこだわるのか問われることもあるぐらいだった。
「やり手の行商人であるアルビンが、わざわざ遠回りしてまで行くような場所でもないだろう。買える物もなきゃ村人達もこっちを歓迎しない。あの村に何があるっていうんだ?」
海辺の村を訪れる前に仕入れに行った市場の片隅で呆れたようにため息をつく仲間に、私は困ったように笑う。
商売人には会話も大事だ。だから旅立つ前にはお互い顔を見せ合い世間話をする。行く先と目的さえ告げておけば、たとえ旅先で何かあったとしても手掛かりにはなるからだ。
「そうですね、確かにあそこは何もない村ですからね。しいて言うなら気になる人の様子を見に行くため、でしょうか」
「あの、気の触れちまった神父の事かい?」
甘い茶を無造作に不揃いのカップに注ぎ、呆れたように呟く彼に私は少しだけ眉を上げた。
分かっているのに聞くのだから意地が悪い。いや、分かっているからこそ警告のために聞いてくるのかもしれない。一銭にもならない相手に、お前は何を求めているのかと。
「ええ、皆さん放っておけばいいと言われるでしょうが、どうしても気になってしまうんです。確かに商売には何の得にもなりませんが、最後に残るのは縁ですし」
私が何もない村を定期的に訪れる理由。
それはその場所に、自分で自分の心を殺してしまった人がいたからだった。
彼はジムゾンという名の神父様だった。そして彼がいる教会には、ディーターという記憶喪失の男が住み着いていた。
正直二人の間にどんな関係があったのかを私に知る由はないし、知る気もない。そんなことを詮索したところで何の意味もないからだ。私が知っているのは「同じよそ者同士だから」と村を訪れたときに良くしてくれた二人の姿だけで、今でもそれで充分だと思っている。
そんな彼らが住んでいた閉鎖的な村に、ある日人狼が現れた。それは昼間は人間の姿で潜み、夜になると正体を現し人を襲い喰らう化け物で、その噂は私も知っていた。そして、そんな化け物が現れた村がどうなってしまうのかも。
その騒ぎが起こったとき、神父様は神から与えられた人狼を見つけられるという力でディーターが人狼ではないとの神託を受けた。だが、もう一人の占い師はディーターを人狼だと宣言した。
その結果が割れてしまった者の先は決まっている。処刑、という残酷な方法で永遠に追放するだけだ。人間であるかどうか分からない曖昧な者を生かしておく道理はない。
ただ、その処刑は神父様の心を殺す理由になったのだろう。村はその後なんとか人狼を退治できたが、壊れてしまった心は元には戻らなかった。その話を知ってから私は何かと理由をつけてはその海辺の村を訪れ、近くを通る商売仲間や旅人達にも「もし迷惑でなければ、近くを通りがかったときにでも様子を見てやってはくれないか」と頼んでいる。
出されたお茶を黙って飲み干した後、私は天を仰ぎ荷物を背負いあげた。これ以上の会話は蛇足だ。向こうも本気で私を止めるつもりもないだろうし、次の誰かが来たらすぐに忘れてしまうような他愛のない話だ。人とのつきあいなどというものはそれでいい。
「ここまできたら私の気が済むまで通おうと思いますよ。一銭にもならない、愚かな話かもしれませんが」
目的地に向かい小さな馬車を歩ませていると、風とともに潮の香りが強くなってきた。
前に海辺の村を訪れた時には、私が旅立つ前日に片目に包帯を巻き足も杖をつかなければ歩くのに苦労するほどの大ケガをしていたシモンと言う名の兵士が村にたどり着いていた。私が村を発つ時に近くの街まで送っていこうかと申し出たのだが、彼はそれを断った。彼の事も気になってはいるが、あれから何度か月が満ちてしまったので、もう別の場所に旅立っているだろう。
「神父様はお元気でいらっしゃるでしょうか」
たまに訪れる旅人達や生き残った村人達が世話をしているはずだが、正直それにあまり期待はしていない。幸い神父様は気が触れているとはいえ最低限自分のことは自分で出来るが、私の心配はそれではなかった。
神父様は狂気の縁で孤独を抱えていないだろうか。
私は一人だが孤独ではない。むしろ一人の方が気が楽だ。だから行商人として単独で旅暮らしをしていても耐えられるし、それが原因で命を落とすことになろうとも、ある意味仕方のないことだと覚悟もしている。
でも神父様はどうだろう。孤独に気づいてしまった人は、その隙間を一人では埋められないだろう。たとえ狂気の縁にいようとも。
私が行ったところで神父様の孤独を埋められない事は分かっている。それでも……。
「私は酷い偽善者かもしれない」
あの優しい人が守りたかったもの。それに思いを馳せた。
風が強くなる。
村が近づき、春先の生暖かさを含んだ風が湿気とともに潮の香りを強く運んでくる。
不意に海の方に目を向けたその時だった。
「アルビンさーん!」
「……神父様? 神父様じゃないですか!」
私を呼ぶ懐かしい声。
馬車道の先にある大きな木の下で手を振っていたのは、私が今思っていた神父様その人だった。
「お久しぶりです、アルビンさん。私、随分皆さんにご迷惑をおかけしていたようですね」
久しぶりに普通の会話をした神父様は少し痩せたような印象を受けたが、壊れてしまう前のあの時のままだった。その姿に、私は胸が詰まりそうになりながらも馬車から飛び降りる。
「い、いえ、お元気になられたんですか?」
神父様はあの、狂気に囚われていた時のことを覚えているのだろうか。覚えているいないに関わらず、私が安易にそれに触れてもいいのだろうか。
そう思って立ちつくしていると、小走りで近づいてきた神父様が私の手を取った。
「ええ、元気ですよ。そうそう、村もずいぶん変わったんです」
その手は氷のように冷たく、まるで死人のようだった。そのあまりの冷たさに戸惑う私に神父様は言葉を続ける。
「宿屋も再開したんですけれど、今日は是非教会に泊まっていってください。お話ししたいことがたくさんあるんです」
その時だった。
冷たい指が私の掌に触れる。
「神父様?」
「さあ、余計なことは後にして行きましょう」
馬車に向かっていく神父様の背を見つめたまま、私は掌に書かれた言葉を頭の中で反芻していた。
『カエレ』
教会に馬車を止めた後、神父様は村を案内してくれた。
「アルビンさんがここを離れた後に色々あったんです。私も元気になりましたし、村の人も少しだけ増えたり減ったりしまして」
浜辺へと続く坂道を歩いていると、沖の方に小さな船が何艘か浮かんでいるのが見えた。神父様曰く、潮の流れが変わったのか村人達は最近漁に出始めたのだという。私は辺りを見渡した。
何かがおかしい。
具体的に何がとは言えないが、背中がざわざわする。村人が減ったり、とはいったい何を指すのか。私はその疑問を口に出した。
「そういえば神父様、トーマスさんはどこか行かれたんですか?」
トーマスとはこの村に住んでいた無愛想な木こりの男の名だ。神父様が心を殺してしまった後食事などの世話をしていたはずだが、彼の姿が見当たらない。私が村を訪れた時には、声をかけてくるわけではないが必ず何かを監視するかのように姿を見せていたのに。
振り返った神父様が笑う。
「……さあ?」
「さあ、とは」
こんな寂れた場所から彼が今更村の外に出るとは思えない。ならばもっと前に出て行く機会はたくさんあったはずだ。それこそ人狼騒動が解決したすぐ後にでも。
「神父様?」
今日は海が凪いでいる。穏やかに寄せては返す波のように神父様がまた笑う。
「彼は特によそ者に厳しかったですから、新しい住人が増えていく事に我慢が出来なかったのかも知れませんね。あ、そうそう。シモンさんのことを覚えてらっしゃいますか? 彼も村に定住したんですよ」
神父様が指した浜辺には水平線の先を見つめるシモンと、その隣には彼を支えるように寄り添う女性の姿があった。
「シモンさん、アルビンさんがいらっしゃいましたよ」
「あ、ああ。久しぶりだな」
私の姿を確認したシモンは一瞬驚いたように目を見開いた後、何故か困ったような、泣く寸前かのような複雑な表情をした。包帯を巻いていた左目は治らなかったのだろうか、手作りの眼帯が痛々しい。
「私は少し離れてますので、よろしければ二人でお話してください」
そう言った神父様は私たちから少し離れ、波打ち際で何かを拾い上げてはしばし眺めていた。それを無言で見ていると、拾ったものを眺めては海に戻すような事を繰り返している。
「……」
沈黙を重ねていても仕方がない。商売の時にするような愛想のいい笑顔を作り、私はシモンの方を向いた。
「お久しぶりです、シモンさん。おケガの具合はいかがですか?」
見た感じではケガは大分良くなったようだが、その思い詰めたような表情が気になる。私の挨拶にシモンは自分の手で左目を隠すような動作をしながらゆるゆると首を振った。
「体の方はかなり良くはなったが、左目は駄目だった。仕方がない、生きているだけでもまだましだ」
聞けば左の目は光を感じるのがやっとだと言う。傷の具合を見せてもらったわけではないが、この村に医者はいなかったし、私が離れた後もろくな手当は出来なかったのかもしれない。まだケガからさほど時間が経っていない今なら、なんらかの手の打ちようはある。
「それは不便ではありませんか? もしシモンさんがよろしければ、次に来る時に街からお医者様を連れて来ることもできますが」
その時だった。
シモンから一歩後ろにいた女が前に出て、私からの言葉を遮るかのように笑った。
「大丈夫よ。お医者様なんて連れて来なくても私がついているのだから、いつかきっと何もかも良くなるわ。ねえシモン、そうでしょ?」
ただ微笑んでいるだけなのに、何故かその目が恐ろしかった。いつかきっと何かも良くなる……これ以上それに踏み込んではいけないと、私の勘がそう告げる。
「そうですか、なら私の気遣いは余計でしたね。今の話は忘れてください。シモンさん、そんな素敵な方が側にいらっしゃってお幸せですね」
踏み込まない代わりにこれだけは聞いておきたい。しばしの沈黙の後、シモンは私に向かってこう告げた。
「ああ、幸せだ……分かっているのにな」
シモンは幸せだと言っているはずなのに、その表情は覚悟を決めた人間のそれだった。傾いてきた日の光が凪いだ海に反射し、私は思わず目を細める。
「そうですか。なら、私からは何も申し上げる事はございません。神父様、教会に戻りましょうか」
この村は何かが歪んでいる。見たことのない新しい住人、漂う不穏な気配。私はそれに気づかないふりをしなければならない。
波打ち際にいる神父様の元に向かおうとする私を女が呼び止める。
「あら、お客様なら是非家に寄っていらして。シモンとも積もるお話もあるでしょう、お茶でもお出しするわ」
……そう簡単に見逃してはくれないか。
だが私はまだ何らかの外にいるはずだ。その気になればまだ逃げられる場所に。予想が間違っていなければこれで引き下がるであろう言葉を、私は平静を装いながら吐き出す。
「いえ、私は教会に用があってここに来たのです。なのでお気遣いなく。シモンさん、お幸せに」
最後の言葉だけが、私の本心だった。
「明日の朝早くにはここを発たなきゃなりませんね」
貸してもらった部屋でベッドに体を横たえたまま、私は心の中でこう呟いた。
どうやら私の予想は当たっていたらしい。教会に用があると言った後、女は私を引き留めはしなかった。もしかしたら神父様が宿屋ではなく教会に泊まるように言ってくれたのも、このためだったのかも知れない。ただ、それがいつまで続くのかは謎だ。
「今日は私がご馳走しますね」
その夜は神父様が食事を用意してくれた。だが、その晩餐も奇妙だった。
……食器がひとつ多い。
私と神父様しかいないはずなのに、三人分の食器が用意されている。
そして私と神父様しかこの教会にはいないはずなのに、別の「誰か」の気配がする。教会にいるのにまだ気づかないふりを続けなければならないのか。背中に冷たいものを感じながらも、私はそれをやり過ごして食事を続けた。
「久しぶりにシモンさんにもお会いできましたし、神父様が元気になって安心しました。大変でしたね」
空になったスープの皿に神父様がおかわりをよそおうとするのを断わり、私はテーブルに視線を落とす。
「ありがとうございます。そうですね、この村では本当に色々ありましたから」
色々。
海に記憶喪失のディーターが打ち上げられたこと。人狼がこの村に現れ村人達を襲ったこと。その中でディーターが処刑されることになり、それがきっかけで神父様が正気を失ったこと。
果たしてそれだけだろうか。
そんなことを考えていると、神父様は持っていたスプーンを置いて私をじっと見つめた。
「アルビンさんは、どうしてこの村に戻って来たんですか?」
真っ直ぐと私を捕らえる視線。私はそれから目を逸らすように目の前にある水の入ったゴブレットを手に取った。
「どうして、とは」
「そのままの意味です。どうして何もないこの村に戻ってきたのですか? あのまま私のことなど見捨てていても良かったでしょう」
心臓が跳ねた。
確かに行商人の私には何の得もない。それは仲間から何度も指摘されている。
ごまかしの言葉などきっといくらでも言えるだろう。私は小さく息をつき、神父様を見た。
「確かにその通りですね。私と神父様には何の関係もありませんし、第一そんな事をする道理も義理もない」
「なら、どうして」
水を一口飲む。
今更取り繕っても仕方がない。私の気づかないふりを見逃してくれるのかどうかは分からないが、神父様にもここにいるであろう「誰か」にも、これだけは伝えておいた方がいいだろう。
「多分、私は貴方たちの事が好きだったからです。ずっと一人で生きてきたであろう神父様のことも、その神父様のことを大切に思っていたディーターさんのことも。だからディーターさんがあんなことになって、神父様が自分の心を殺してしまったと聞いたとき、私には何も出来ない事は分かっているのに足が向いたんです。それでは答えになりませんか?」
私の答えは届いたのだろうか。
あの後神父様からの返事はなく、お互い無言のまま食事を続けてしまった。明日の朝も早いからと神父様は部屋に戻り、取り残された私も部屋に行くしかなかった。気づかないふりに慣れているとはいえ、せめてもう一言ぐらい私は何かを言うべきだったのかも知れない。たとえ偽善者と罵られたとしても。
「…………」
今は何時ぐらいなのだろう。考え事をしていたらすっかり喉が乾いてしまった。私はそっとベッドから起き上がり、テーブルの上にある水差しに向かって手を伸ばす。その時だった。
「……さんは……」
かすかに聞こえる小さな声。神父様が誰かと話をしている。
私はこれを聞いてもいいのだろうか、そう思う前に体が動いた。足音を立てないよう移動し、もし気づかれたとしてもすぐに開けられないようにドアを背に立つ。
「お前がそう言うなら、俺はそれでいい」
「……!!」
ああ、なんということだろう。
聞き覚えのあるその声に、私は顔を覆い天を仰ぐしかなかった。
間違えるはずがない。私が好きだった人たちが私の事を話している。本当ならすぐにでも飛び出して行きたいぐらいの衝撃だった。でも、それをしてはいけないことも分かっていた。
「どうして……」
「彼」は、ここにいるはずのない人だ。弔いもしたし、最期の様子も話には聞いている。その声がどうして聞こえるのか。
「やっぱり……」
顔を覆ったまま私はゆるゆると首を横に振った。彼が本当に扉の向こうにいたとして、それを確かめてどうするというのだろう。
不自然な村、不穏な空気、増えたり減ったりした村人。分かっているのに幸せだと私に言ったシモンの言葉と表情が脳裏に浮かぶ。
そして、もう一つ分かったことがある。
私は神父様が正気に戻ったのかと思っていた。でもそれは違う。
あの時から、神父様はずっと狂い続けたままなのだ。その狂気は縁などではなく、私が手を差し伸べたぐらいでは届かないほどの深淵。
もう、私にはどうしようもないのだ。
「…………」
呻くように顔を覆ったままの私をカーテンの隙間から差し込んだ月明かりが照らす。
ただ救いがあるとするのなら、それは彼らが永遠に孤独を抱えることがないだろうという事ぐらいだった。たとえそれが虚構だとしても、他人の幸せに口を出す権利など私にはなかった。
早朝の浜辺は靄がかかり、水平線を眺めても霧のせいで薄曇りの空との境目が同化していてよく見えない。夜明け前の風はまだ冷たく、深呼吸をすると春先の濃い緑の香りが鼻先をくすぐった。
「……神父様」
早朝に神父様が浜辺を散歩しているのは知っていた。神父様は私の姿を確認すると、寂しげに微笑む。
「アルビンさん、行かれるのですね」
「はい。お別れの挨拶に参りました」
山の向こうから上る朝日が少しずつ辺りを照らす。
「そうですね。今日は天気もいいですから、早くここを離れられますね」
いつもと変わらない微笑み。それがなんだか寂しくて、私も同じように笑う。
「神父様、告解の代わりにひとつだけ質問を」
「何でしょう」
「どうして私を見逃してくれるのですか? 昨日再会したときにも神父様は私に警告をくれました。私にそこまでする理由は神父様にはないはずです」
声がかすかに震えたのは肌寒いからなのか、それとも別の感情からか。その震える声が波の音に消えそうになる。
「そうですね……どうしてでしょう。強いて言うならあなたはディーターを殺していませんし、私たちのことを好いてくれていたから、それでは答えになりませんか?」
波打ち際に視線を向けたまま話す神父様の声も、波と風の音に途切れそうだ。
「彼が戻ってきていたとしてもですか?」
この質問は私の命取りになるかも知れない。それでも確かめたかった。
私が着いたときにくれた『カエレ』という警告。昨日聞こえたあの会話。
『アルビンさんは見逃してもいいのではないでしょうか。あの人は一人の夜を越えていける人です。それに……』
『お前がそう言うなら、俺はそれでいい』
確かに私はあの時ここにはいなかった。だからといって、それが見逃す理由になるのか。だとしたら、何故シモンは捕われたのか。
もしあの時ここにいたら、私もディーターを殺す手伝いをしていたのかも知れないのに。
「ええ、これ以上私を困らせないでください。あなたは賢い人です。あの人と違って忠告を聞かない訳ではないでしょう?」
神父様が波打ち際で何か白っぽいものを拾い上げ、確かめもせずにそれを遠くに投げた。その姿からはこれ以上立ち入るなという拒絶が窺える。
あの人と違って、という言葉で私はシモンに起こった事を察した。きっと彼も忠告は受けたのだろう。その結果があれなのだ。
これは慈悲なのかも知れない。ならば彼らの気が変わらぬうちに素直に受け入れよう。私は持っていた包みを神父様に差し出した。
「分かりました。そういえば神父様にお土産をお渡ししようと思っていたのに、すっかり忘れていました。日持ちのするお菓子とお墓に供えようと思っていた煙草が入っています。ディーターさんにもよろしくお伝えください」
長年行商人をしているのだから別れには慣れているはずなのに、柄にもなく鼻の奥がつんとした。もう神父様と会う事はないのだろう。そう思うと自然に声が震える。
包みを受け取った神父様が幸せだった時のように笑う。
「ありがとうございます、ディーターにも伝えておきますね。アルビンさん、お元気で」
一瞬だけ触れた指はやっぱり死人のように冷たくて、それが余計に悲しい。
「さようなら、神父様。お幸せに」
「さようなら」
あとは波の音が響くだけだった。
神父様と会ったのはそれが最後だ。
見逃してくれたのは本当に彼らの慈悲だったのだろうか。私は海の近くを通るたびにあの時のことを思い出す。
今になって考えると何らかの兆候はあったのだろう。海の側なのに漁に出ず、よそ者に厳しかった村人達。昔の文献でも調べれば何か理由が分かったのかもしれないが、もうどうにもならない話だ。
それに長年旅暮らしをしていると、そんな不穏な村に出くわす事も恐ろしい目に遭うこともある。それがたまたま自分が親しい人間に起こってしまった。そう割り切るしかない。
ただ、神父様のことを頼んでいた商売仲間や旅人達には、あの後こう伝えておいた。「あの村は廃村になりました。もう訪れなくても結構です」と。大抵の商人達ならそれで察するだろうし、それでも好奇心で向かうものをわざわざ止める気はない。彼らが孤独を抱えていなければ見逃してくれるかも知れないし、忠告を聞かなければ捕まるだけだ。そうしてあの村は続いていくのだろう。
もし私が孤独であることに耐えきれなくなったとしたら、その時は流れ着く事もあるかもしれない。私は孤独ではないが、波の行く先がひとつ増えたと思えばいい。
その時、彼らは私を快く迎えてくれるだろうか。
「戯れ言ですね」
空を見上げると別れの日のような薄曇りの空に、ぼんやりとした月が浮かんでいるのが見えた。街が近いのか、潮の香りに混じって魚を焼くような匂いが鼻先をくすぐる。
「さて、行きましょうか」
潮騒が聞こえる。
次に行く場所は少しは賑やかだといい。私は帽子を被り直しながら遠い遠い水平線の先を眺めていた。