11 星のささやき
広い広い野原で、風の声を聞く。
『リーザは、今、幸せ?』
ずっとずっと遠いところからやってくるママの声。それにリーザは心の中で答える。
「うん、幸せ……多分」
最近リーザの回りではいろいろな事があった。
ずっと病気で寝ていた神父様の所に、ディーターお兄ちゃんがやってきた。ディーターお兄ちゃんがずっと看病してくれたおかげで神父様はどんどん元気になってきて、最近は教会でリーザ達に読み書きを教えてくれるようになった。ディーターお兄ちゃんはリーザ達ともよく遊んでくれる。だからリーザはとっても嬉しい。春になったらディーターお兄ちゃんはどこか行っちゃうって聞いたけど、ずっとこの村にいて欲しいなって思う。
そしてレジーナおばちゃんの宿に、行商人のアルビンさんと一緒にニコラスさんという旅人さんがやってきた。目の色が右と左で違う不思議な人……これはまだリーザとニコラスさんだけの秘密。綺麗な金髪がママみたいだから、一緒にいるとママを少しだけ思い出す。
あとずっとリーザのことを嫌っていると思っていた村長さんが、本当はリーザに謝りたいと思っていたと言ってワンピースをくれた。今日着ているのもその服。ママも子供の頃に着てたこの服が、リーザはとってもお気に入り。
村長さんは少し赤い顔をしながら、ママが子供だったときのこととかをたくさん話してくれた。パメラお姉ちゃんも「良かったら今度泊まりに来てね」って言ってくれた。
いいことばかりあってリーザは少し心配になる。
いいことなんだけど、でもやっぱり寂しい。
「ママ、リーザ一人でどうしたらいいのか分からないの」
でも風は何も言ってくれない。
幸せだけど、やっぱり一人は、寂しい。
ママ。
とても優しかったママ。
リーザがお腹をすかせていたときは、いつも美味しいご飯を用意してくれたママ。
「ママはご飯食べないの?」
ママはリーザが食事をしているとき、いつもニコニコと笑いながら見ている。
「いいのよ。ママはリーザがごちそうさましてから食べるから、心配しないでお腹いっぱい食べるのよ。リーザはたくさん食べて大きくならなきゃね」
「うん。リーザ早く大きくなって、ママにいっぱいごちそうしてあげるね」
「ふふっ、楽しみにしてるわ」
でも知ってる。
ママはリーザと同じご飯は食べない。
狩りはとっても上手だけど、ママは自分で狩った物を食べない。
だってママは人間だから。
そしてリーザは人狼だから。
ママがいなくなるとき、夜遅くまでママは色んな話をしてくれた。
リーザが人狼だって事や、これからはしばらく人を食べてはいけないこと。そして狩りをするためには仲間を作らなきゃいけないこと。
「リーザ、人狼は群れを作らなきゃ狩りは出来ないの。だからもしママが帰ってこられないときは、リーザは自分で仲間を作るのよ」
「どうやって? リーザなんにも分からない」
泣きたかったけど泣けなかった。ママはリーザも大好きだけど、死んだパパのことも大好きだって知ってたから。ママはパパの仇を取るためにリーザを置いていくことも分かってた。一緒にいたらリーザもママも一緒に処刑されちゃう。だからママはリーザを守るために、ここにリーザを置いていく。
ママはリーザの髪を撫でながら優しくぎゅってしてくれた。
「いい、リーザ。人狼は囁きで人に聞こえないようにお話しすることが出来るの、それは分かるわよね」
「うん、分かる」
「だから一人になったときは囁きなさい『私はここにいるよ』って。その声を聞いた仲間がきっと来てくれるから。それまでリーザは人として生きるのよ」
リーザはこくんと一つ頷く。
「しばらく人間のご飯だけど我慢出来る?」
「大丈夫。リーザ人間のご飯も好きだし、我慢出来る」
「ふふっ、リーザはいい子ね……ごめんね。ママ、リーザのことが大好きよ」
知ってる。
ママがリーザのこと大好きなの、リーザはちゃんと知ってる。
お腹がすいたリーザのために、道で病気のふりをしたり男の人に声をかけたりしていた。爪や牙はないけど、ママは狼のように立派に狩りが出来た。ナイフや細い紐で手際よく狩りをして、人気のないところで待っているリーザの所にご飯を持ってきてくれる。
リーザは泣いているママのほっぺにちゅっとしてあげた。多分ママにキスしてあげられるのはこれが最後なんだろう。何故か分からないけどリーザにもママにもそれが分かっていた。
「リーザもママのこと大好き。パパのことは覚えてないけど、ママが大好きなパパも大好き。だからリーザ一人でも我慢する。だから大丈夫なの」
「ありがとう、リーザ。本当に大好きよ……」
ママがいなくなってから、リーザはレジーナおばちゃんの所の子になった。
小さな小さな村だし、リーザと同じぐらいの子はペーターしかいないから、ママが言ったとおり狩りは出来ない。一人いなくなっただけで分かっちゃうぐらいみんな顔見知りだから。隣村まで行けば人がたくさんいるんだけど、一人で遠くまでは出かけられない。
この前レジーナおばちゃんと一緒に寝たとき、夜中に目が覚めた。レジーナおばちゃんはリーザの隣でぐっすり眠っている。
「おなかすいた」
レジーナおばちゃんがすごく美味しそうに見えた。
いつも美味しい料理を作ってくれたり、優しくしてくれるレジーナおばちゃんがご飯にしか見えなかった。たぶんリーザはレジーナおばちゃんが死んじゃったら、悲しくて泣くと思う。いなくなっちゃったらどうしようかと思う。
でもやっぱりレジーナおばちゃんは、ご飯だ。
「………」
毎日シチューや美味しい料理でお腹いっぱいになっているけど、いつも何か足りない。リーザはいつもお腹がすいている。我慢出来ないほどじゃないけど、食べても食べてもお腹がすく。
「お水……」
お水を飲んで寝てしまおう。そう思ってベッドの横のある水差しに手を伸ばした。でも水差しの中は空っぽで少しも水は入っていない。そういえば寝る前に喉が渇いたからレジーナおばちゃんと全部飲んだんだっけ。
「汲んでこなきゃ」
水差しを持ってリーザは外に出た。廊下は暗いけれど、リーザは人狼だから灯りがなくても全然困らない。昼ほどじゃないけれど、ちゃんとなにがどこにあるかはっきり分かる。
「寒い……」
外はひんやりとして寒かった。空を見上げると真っ白い月が少し欠けて昇っていて、星も綺麗に見える。夜の空がこんなに綺麗だなんて知らなかった。
そんなときだった。
「おい、こんな夜中に何やってるんだ?」
リーザはびくっとした。こんな真夜中に歩いてる人がいるなんて思わなかったから。
するとその人は後ろからリーザの頭をくしゃくしゃ撫でた。
「悪い、驚かしちまったか」
「ディーターお兄ちゃん……リーザすごくびっくりしたの。こんな夜中に何やってるの?」
リーザがそう言うとディーターお兄ちゃんは空を指さして笑う。
「いい月夜だから散歩。リーザこそこんな夜中に何やってるんだ、寒いだろ」
「あ、うん。喉乾いたけどお水なかったから汲みにきたの」
散歩、って言葉が何だか素敵に聞こえる。誰もいない村を一人で散歩したら楽しいだろう。カタリナお姉ちゃんの羊も犬もみんな眠っていて、誰も起きてる人がいない村。何だかそう思うとドキドキした。
ディーターお兄ちゃんはリーザの持っていた水差しをヒョイと手に取った。
「水汲みか。寒いし手が冷えたら眠れなくなるから俺がやってやるよ」
「うん、ありがとう」
いま村の中で起きているのは、リーザとディーターお兄ちゃんだけだろう。早起きのオットーさんもまだきっと夢の中だ。リーザはディーターお兄ちゃんが水を汲むのをわくわくして見てた。お昼だったら何とも思わないのに、何故か夜中ってだけで何もかもが別世界のように見える。
「ほら。こぼしたら大変だろうから、持ちやすいように半分ぐらいしか入れてないぞ」
「ありがと。ねえ、ディーターお兄ちゃん」
「何だ?」
「夜って、なんかドキドキするね」
リーザがそう言うとディーターお兄ちゃんはクスッと笑う。
「そうだな。特にこんな綺麗な月夜は心がざわめく。リーザも早く寝ろよ、あんまり起きてると夜の住人になっちまうぞ」
「ディーターお兄ちゃんはまだ散歩するの?」
「いや、もう帰って寝るさ。おやすみ……あ、そうそう、今日会ったことは内緒な。夜中に出歩いてるって知られると色々うるさいからな」
ディーターお兄ちゃんはそう言って手を振った後、足音も立てずに走っていった。
「おやすみなさい」
水差しを持ったままリーザは部屋に戻った。もうレジーナおばちゃんは美味しそうに見えなかった。でも、その夜はなんだかわくわくして眠れなかった。
ディーターお兄ちゃんはこんな綺麗な月の日にはいつも散歩しているんだろうか?
リーザも一度でいいから一緒に散歩してみたい。誰もいない道で夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、皆を起こさないように静かに歩いてみたい。
「誰にも言わないよ……」
内緒にしていたら、ディーターお兄ちゃんは夜の散歩に連れて行ってくれるだろうか?
すすきの原はしゃがむとリーザが隠れるほど深い。
リーザは一人になったとき必ずここに来るようにしてる。そしてママに言われた通り声に出さずに囁く。
『ここにいるよ』
『だから早くここに来て……』
『ひとりぼっちは寂しいの』
毎日毎日囁いても返事は来ない。
もしかしたら、このまま誰も来ないかも知れない。
そうしたらいつまでお腹がすいたのを我慢できるだろうか。知らないうちにレジーナおばちゃんを食べちゃったら、きっとリーザは村のみんなに殺されちゃう。そう思うと何だか悲しくなった。
「ママ、リーザどうしたらいいか分からない」
涙をぐっと堪えたその時だった。
『待たせたな。やっとここに来られたぜ』
『もう一人じゃありませんよ、リーザ』
リーザはその声を聞いて立ち上がった。でもすすきが深すぎて誰がいるのか、リーザからは全然見えない。
『誰? 誰なの?』
遠くから近づいてくるのが見える。リーザはそれを背伸びして見ようとする。
「俺をずっと呼んでたのはリーザの声だったのか」
すすきを分け入ってリーザの前に現れたのは、ディーターお兄ちゃんと神父様だった。ディーターお兄ちゃんは笑いながらしゃがんでリーザの頭をくしゃくしゃ撫でる。
「ディーターお兄ちゃん!」
「本当に座って待ってたとはな。全く、居待ち月様々だ」
神父様はディーターお兄ちゃんの後ろで少しだけ微笑んでいる。リーザは嬉しくなってディーターお兄ちゃんに抱きついた。ディーターお兄ちゃんからはお日さまと煙草の匂いがする。
「もうリーザ一人じゃないの?」
「大丈夫だ。俺はリーザの声を聞いてここまでやってきたんだ」
嬉しいときに涙が出るなんて知らなかった。涙は悲しいときに出るものだと思っていたけど、嬉しくて涙が止まらない。
「リーザ狩りとか全然出来ないけどいいの?」
「大丈夫だ。狩りもちゃんと俺が教えてやる。ジムゾンも一緒にな」
顔を上げると神父様が優しくリーザの頭を撫でて涙を拭いてくれた。
「私も狩りを一度もしたことがない人狼なんですよ。だから一緒に教えてもらいましょう」
「うん……あのね、ディーターお兄ちゃん。リーザのお願い一つだけ聞いてくれる?」
「借金以外なら」
背中をポンポンと優しく叩くディーターお兄ちゃんに、リーザはお願いをした。
「あのね、この前みたいにリーザも夜にお散歩したいの。だから今度一緒に連れてって」
「ああ、嫌って程連れてってやるよ。俺達は夜の住人だからな」
すすきの原が風でざわっと揺れた。
もうリーザは一人じゃない。
ディーターお兄ちゃんと神父様って仲間がいる。
夜にそっと抜け出して散歩だって出来るし、狩りの練習だって出来る。ママはいないけれど、もう全然寂しくない。
広い広い野原で、風の声にリーザは振り向く。
『リーザは、今、幸せ?』
遠いところからやってくるママの声。それにリーザは心の中で答える。
「うん、幸せだよ。だから心配しないでね」
『おい、リーザ! 早く来ないと追いてくぞ』
『今行くの!』
野原の先にいるディーターお兄ちゃんと神父様に置いて行かれないように、リーザは月の下を一生懸命走っていった。