Were Wolf BBS ShortStory_Nachtmahr
月の光が俺の前に長い影を落とした。
金属を含んだような甘い香りの中、俺はまだ温もりの残るその体を強く抱きしめる。
『私を……喰らってください、何も残さないぐらい。それが私の望みです』
耳に蘇るジムゾンの言葉。
嗚呼、なんてこいつは馬鹿なんだろう。人狼に焦がれて喰われることを望み、その言葉の通り喰い殺されてもなお幸せそうな表情をしているなんて。
だが、その愚かさを愛しいと思う。
その想いを羨ましく思う。
俺が初めて人を喰ったのはまだガキの頃だった。
誰かに狩りを教えてもらったりしたわけではない。俺の母親はジムゾンのように人狼に焦がれた女だった。俺の世界には産まれてからずっと俺以外の人狼は存在していなかったのだ。
あの女は本能的な飢えと乾きに苦しむ俺にナイフを突きつけこう言った。
「ディーター、苦しいでしょう? 私を食べて行きなさい。そして一人で人狼として生きなさい……」
今考えればなんて自分勝手な話だろう。人狼として生きる術も俺に教えず勝手に俺に喰われることを望み、そして望み通り喰われて死んでいった。右目に付けられた傷もその時のものだ。俺に自分を喰わせるために、あの女は俺をナイフで斬りつけたのだった。
これは一体何の悪夢だろう。
今まで人間だと思っていた自分が人狼だと知らされたこと。
母親が自分をナイフで殺そうとしたこと。
その母親を自分で殺して喰ったこと。
人狼として目覚めたこと。
どうやって喰い殺したとかどんな味だったかなんて覚えちゃいない。ただとにかく生き延びるために戦い、殺し、飢えと乾きを満たすために黙々と母親だった物を喰い、悪夢なら覚めて欲しいと願っていた。
気が付いたときには骨のかけらも残っておらず、自分の中で何が明らかに変わっていた。
狩りを楽しめ。人を騙し、殺すことを躊躇うな。そして生き延びるためなら愛しい者さえも自分の血肉にしろ。自分の中で目覚めた人狼の血がそう叫ぶ。
「……畜生」
手の甲で口を拭い、その辺にあったバンダナを包帯代わりに額に巻き付け、床を一瞥した。そこには母親が生きてきたという証すら残っちゃいない。
「生きてやる、行ってやる……」
そうして俺は人間を捨てた。
……ガリッ……ガリッ……。
骨を噛み砕く音が頭に響く。窓から差し込んでくる光は月から日に変わっている。
礼拝堂の真下には直接日光が入り込むことはない。薄暗い神の像の下で俺は淡々とジムゾンだった物を喰らい続けた。骨のひとかけら、血の一滴すらも残さないように淡々と咀嚼し飲み込み続ける。
「…………」
もう冷たく硬くなっている体を俺は何度も抱きしめた。体半分俺に喰われ、無惨に緋色の傷口や内蔵を晒しているのにそれでもジムゾンは微笑み続ける。
「ジムゾン……」
返事がないのを分かっていながら俺は思わず名前を呼んだ。
返事の代わりに響くのは骨をかみ砕く音。それだけ。
急に荒野に放り出された俺は、まず生きていくためにいろいろなものを捨てた。人狼として生きる前に「人」として生きていかなければならなかったからだ。プライドだの羞恥心だのは生きていく上で邪魔になるだけで、そんな下らない物のために死ぬのはまっぴらだった。
どうせ人狼として生きていくのだから、同じ所に留まる必要はない。潮時だと思うまでは体だろうが何だろうが売れる物は売るし、盗みでも何でもやった。その間に獲物の一匹も見つけられれば上等だ。人間一人喰えればしばらくは飢えに苦しむこともない。
街から街へと移動するときに人狼仲間と一緒に狩りをすることもあった。だが、人間暮らしが長い人狼とはどうもウマが合わなかった。
群れを作っての狩りは連携が大事になる。人を騙すこと、殺すことに躊躇するような仲間ならいない方がよっぽどマシだ。一度それで襲撃先がぶれて失敗したことがある。なんとか機転を利かせて形勢を立て直したから良かったようなものの、下手すりゃそれが原因で全員が人間に吊り殺される所だった。
「馬鹿野郎! 今日の襲撃先は決まってたはずだ。そんなに吊られたきゃお前が勝手に一人で死にやがれ!」
そう問いかける俺にそいつは懇願するようにこう呟いた。
「彼女を襲うのはやめてくれ。あれは……俺の女なんだ」
「んなおめでたい理由で仲間を危険に晒したってわけか。反吐が出そうだぜ」
その時俺は作戦リーダーだった。と言っても自らが率先してやったわけではない。元々そこにいた人狼達が俺を頼って来たからそれに乗っただけのことだ。それにいざとなれば俺はそいつらを見捨てる事も出来る。
「…………」
人間と長く共存している狼は知らぬ間に隣人に愛着を持つようになる。俺の脳裏に嫌な思い出がかすった。
『私を食べて行きなさい。そして一人で人狼として生きなさい……』
こいつは人間の女と結ばれて、その子供に何を伝えるつもりなのだろう? いや、そんな事は何も考えちゃいないのかも知れない。幸せに結婚して子供が出来て……なんて馬鹿げた夢でも見ているのだろう。その先にある悲劇には目もくれずに……本当におめでたい話だ。
そいつは俯いたまま頭を下げている。
「お願いだ……」
「分かった、お前が満足するようにしてやるから文句は言うなよ」
その日、俺は仲間であったそいつを処刑対象に推してやった。そいつが人狼である証拠なんて、俺がでっち上げなくても山のように出てくる。人狼を人狼だと問いつめるほど楽なことはない。
薄々怪しんでいた村人達……そいつの女も含めて、俺の言葉や態度で覚悟を決めたようだ。
人狼同士にしか通じない囁きが聞こえる。
『裏切ったな、ディーター!』
『裏切り? 先に裏切ったのはそっちの方だろ。お前の女だから襲うな、なんて人狼としてそれ以上の裏切りが何処にある?』
処刑台に乗せられたそいつは俺に向かって吐けるだけの罵詈雑言と、俺が人狼だという最後の足掻きと言う名の真実を吐いた。だがそれが、逆に自分が往生際の悪い人狼であるという事実を晒してしまったようなものだった。
台に足をかけながら俺はそいつに笑いながら囁く。
『ああ、お前の女とやらは今夜ちゃんとそっちに送ってやるよ。まあ俺達が先に頂いちまうから、骨も残っちゃいないかも知れないけどな』
『この……悪魔め!』
『悪魔だって? 笑わせるなよ。人狼だぜ、俺は。人間に飼い慣らされた犬コロなんかいらねぇんだよ!』
ガラン……という乾いた音に続いた悲鳴が、その村の最期の音だった。
「ディーター?」
ドアの向こうからから微かなノックの音と声がした。ずっと薄暗い場所にいたのと、ジムゾンを喰うことに夢中になっていたので時間の感覚が怪しい。持っていた懐中時計もネジを巻き忘れて止まったままになっている。
「……オットーか?」
「そうだよ。ずっと礼拝堂に鍵をかけたまま出てこなくて、ペーターが心配してるから様子を見に来た。良かった、ちゃんと生きてるみたいだね」
「馬鹿言うな。ああ……あれからどれぐらい時間が経ったんだ?」
窓から差し込む薄い光を頼りに俺は煙草に火をつけた。
「三日。僕達は明け方にはこの村を出ようと思ってる。とりあえず残骸の処理も終わったしね」
「そうか、じゃあ、俺も夜明けには外に出る。それまで待っててくれ」
俺がそう言うとオットーは何故かふふっと扉の向こうで笑った。
「ねえディーター、神父さんは幸せだと思わないかい?」
「何処が」
オットーの言葉の意図が分からず、俺は煙草の煙を長く吐きながら自嘲的に言葉を吐いた。確かにジムゾンの想いを羨ましいと思う自分がいるが、果たしてそれが幸せなのか分からなかったからだ。
オットーはドア越しに淡々と言葉を吐く。
「幸せだよ。自分が一番好きだった誰かに残さず食べてもらって、その血肉になって共に生きるなんて究極の愛の形だと思わないかい?」
「……分かんねぇな」
「いや、ディーターは分かっているはずだよ。何人もの人間を自分の糧にして、誰を食べたか忘れたとしても、きっと自分と共に生きる人のことは忘れない。僕はこの村で誰を食べたかなんて多分すぐに忘れてしまうんだろうけど、ディーターにずっと覚えてもらえる神父さんは幸せだ」
ガサッ、とドアの向こうで土を踏む音が聞こえる。
「好きな人と共に生きて、共に行ける……それがちょっと羨ましいと思っただけだよ。じゃ、夜明けに」
ああ、やっとオットーの言葉の意味が分かった。
俺の母親もジムゾンも、俺と共に生き共に行く事を選んだのだ。そして俺が吊られるときには共に逝くことを……。
「つったく、何の悪夢だよ」
忘れるはずはない。
忘れられるはずがない。
『私を食べて行きなさい。そして一人で人狼として生きなさい……』
そう言って俺にナイフを突きつけた母親。あの時あの女にはそれしか俺に与えられる物がなかったのだ。そうだ、どうして忘れていたんだろう。俺が殺した最期の瞬間、あの女は微笑んでいたじゃないか。
そして最後までどうしても喰えなかったジムゾンの首を見る。その表情はやっぱり何度見ても微笑んだままだ。
「…………」
首だけになったジムゾンを抱きしめた。
これが最期だ。これ以上残せば朽ちてしまうだろうし、この微笑みをそんなもので崩したくはない。
「最後まで一緒に行くぞ……そして何処までも生きてやる」
冷たい唇にキスをした後、俺は何も言わずにそれに牙を立てた。
夜明けと共に俺は礼拝堂の重苦しいドアを開けた。久しぶりに吸う外の冷たい空気と、冬の匂いが鼻の奥をくすぐる。
「ディーター兄ちゃん、大丈夫?」
まだ少し眠そうな顔をしたペーターが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。オットー、時計持ってたら時間見せてくれないか?」
俺は懐中時計のネジを巻き直し、時間を合わせてからズボンのポケットにそれを突っ込んだ。今まで下げるチェーンがなかった懐中時計には立派なロザリオがチェーン代わりに腰にぶら下がっている。オットーはそれを見てクスッと笑った。
「それは形見の代わり?」
「ジムゾンが俺の中にいるっていうなら、これぐらいしても罰はあたらねぇだろ。それに聖書は邪魔になるからな……オットー達はこれからどうするんだ?」
俺がそう言うとオットーはペーターの頭をそっと撫でた。
「ああ、僕はペーターと旅をするよ。しばらくは飢えることもなさそうだし、ディーターのおかげで狩りの仕方も覚えた。あとは行けるところまで行くよ。ディーターは?」
「今まで通り一匹で流れるさ」
三人の間に沈黙が走った。多分これが永遠の別れになるだろう。お互いこれから生き延びられるのか、それともあっさりと何処かで野垂れ死ぬのか分からないが、二度と一緒に狩りをすることはないはずだ。
「ディーター兄ちゃん、これ……」
ペーターが布袋に入った何かを渡した。中を見るとそこには飲み物と一緒に、オットーが作ったミートパイが入っていた。
「これ、お弁当に食べて。オットー兄ちゃんが村の人たちで作ったミートパイ。僕も初めて手伝わせてもらったんだよ」
そう言うとペーターはいつものようににっこりと笑った。俺はその頭をくしゃっと撫でる。
「おう、道すがら弁当に喰わせてもらう。お前等も元気でな。どっちかが吊られそうになってもかばい合って自滅するなよ」
「ディーターも。僕達に狩りを教えてくれて本当にありがとう。感謝してるよ。じゃあ、さよなら」
「バイバイ、ディーター兄ちゃん。いつか僕もディーター兄ちゃんみたいな立派な狼になるからね」
「じゃあな」
そう言うとオットーとペーターは道の向こうに消えていった。誰もいない村に俺一人が取り残される。
「さて……と、皆いなくなったし最後の一仕事でもするか」
俺は礼拝堂に油を撒いた。そして鐘を一つだけ鳴らした後火を放つ。
もうこの村には弔う者も弔われる者もいない。
そしてジムゾンの柩代わりになった場所をそのまま残しておくつもりもない。
もしかしたらこの火を見て誰かが来るかも知れない。でもそうしたところでこの村の悪夢は全て終わっている。後はその残骸が残っているだけだ。
「夢は枯れ野を駆けめぐる……か」
俺は一気に山の中を駆け上った。体中の血が騒ぐ。さて、これから何処に流れるか。ずっと山間の村にいたから大きな街に出て大聖堂でも拝んでこようか、それとも海の方まで出て船で別の国にでも流れるか。
「まあ、行けるところまで生くしかねぇな」
ふと後ろを振り返ると、村のあった場所からはいつまでも白い煙が立ち昇り続けていた。
fin