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【アップ】2024年10月13日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KzAFDHaAIvk

【ブログ】
ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12872399338.html

前奏
招詞 哀歌3章22〜25節
詩 編 歌 65編 4節
聖なる主の宮のよきものもて
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
スコットランド教会新カテキズム
「堕落の結果」
こどもさんびか
あいのしゅイエスは[改 124(3,4 節)]
牧 会 祈祷
讃美歌 249番
聖書
マタイによる福音書9章9〜13節
ホセア書6章1〜6節
説教
「神を愛して生きる」
藤井真
祈祷
讃美歌 324番
みことばの交読文
ヨハネの手紙一 5章 1〜4節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 544番
祝 祷 《歓迎礼拝準備祈祷》
報告

讃美歌~♬

讃美歌249番
https://m.youtube.com/watch?v=6eq9HfsasBo&pp=ygUQ6K6D576O5q2MIDI0OeeVqg%3D%3D
(ブログを見て下さると歌詞を閲覧できます)

讃美歌324番「主イエスはすくいを」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=rT8qjBSsAQM

1)
主イエスは救いを もとむるこの身に
ゆたけきめぐみを そそがせたまえり
いよいよわが主を 愛せしめたまえ

2)
ひさしくそむきし この身をみすてず
すべてをゆるして あわれみたまえり
いよいよわが主を 愛せしめたまえ

3)
みめぐみうくべき いさおなき身を
かくまでめぐみて すくわせたまえり
いよいよわが主を 愛せしめたまえ

4)
この身とたまとを ことごとささげて
とうとき御名をば ひたすら讃めつつ
いよいよわが主を 愛せしめたまえ

2024年10月13日 礼拝説教 聖書箇所

マタイによる福音書 9 章 9~13 節

9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

ホセア書 6 章 1~6 節

1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。2 二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
4 エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。5 それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。6 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。

(Mynote)

二〇二四年一〇月一三日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を、神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「堕落した為に、アダムとエバはどの様な罰に値するものとなりましたか。」
「神様に呪われ、永遠の破滅に値すると言う有罪宣告を受ける者になりました。」
これは原罪に就いてのエピソードであり真実に在り、人の何足るかが教えられながら、新たな神様との関係(契約)が織り成される原点にも在る。人の罪の歴史が始まり、聖書に在る通り、全ての人の生活(人生)は罪に捕えられたものに成った。同時に常に神様から救いの手が差し伸べられ、信仰への道が与えられる。
イエス様は全ての人に、
「心を尽くし、精神を尽し、思いを尽し、力を尽して、あなたの神様である、主を愛しなさい」
と教えた。原罪とは、人の罪が為したものに在る。神様から言われた約束を蛇(悪魔)に誘惑されながら、自ら背く道を選んで木の実を取って食べたのである。だからアダムとエバから生まれた全ての人は、誰一人、神様との約束を守る事が出来ず、十戒にせよ完璧に守る事が出来ない。故に信仰が必要となる。人の罪とは見掛けに無く、その人の心奥深くに在る事を神様は知って居られる。
イエス様は、全ての人の罪を背負って十字架に付けられて下さり、陰府(よみ)に下り、三日目に死人の内より甦り、全能の父なる神様の右に座し給えり。詰り、全ての罪人が獄の淵より救われる事を先駆けて教え、イエス様に従う事、即ち神様に聴き従う事の大事を教えて下さった。
(公同礼拝)
『マタイによる福音書』(第九章九〜一三節)
『ホセア書』(第六章一〜六節)
この両箇所では、神様と人との関係が改めて教えられ、神様、即ちイエス様からの一方的な愛が語られる。
『マタイによる福音書』のこの箇所は、ちょうど十二弟子になるマタイがイエス様に語り掛けられ、弟子になる場面である。
当時、マタイは取税人であり、多くの取税人か座って居る所に一緒に居た。その場所は当時のユダヤ人から見て隠れた場所に在り、ローマに税を収めるユダヤ人達の反感を一身に受ける側に在り、マタイも又その内の一人だった。
その嫌われ者のマタイにイエス様は声を掛けられ、自分の弟子にした訳である。この流れを見て当然、当時の信仰厚い人々は疑問に思い、やがて憤った。
「なぜ、あなた方の先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」
とパリサイ人達は、イエス様の弟子達に言った。そしてイエス様はこれを聞いて言われた、
「丈夫な人には医者は要らない。要るのは病人である。『私が好むのは、憐れみであって、生贄ではない』とはどう言う意味か学んで来なさい。私が来たのは、義人を招く為ではなく、罪人を招く為である。」(『マタイによる福音書』第九章一二〜一三節)
この様に「病人」とは「罪人」の事であり、「義人」とはこの時のパリサイ人達の様な、高位に就く者であろう。イエス様がこの人の世に遣わされたのは罪人の為であり、その罪人の病を癒す為である。
人の世間では、謝罪して貰ってから、その人を許す風習がある。これはもはや法律に於いても正当化され、そう在る事が人の正義にも捉えられる。更には、謝罪されても許さない人が居る中、一度、罪を犯して生涯を棒に振るほど落ちぶれた人は、二度と社会に復帰出来ない場合もある。又その時でも復帰出来るのは或る程度の権力者に在り、或いは知名度を帯びた有名人で、人から栄華を受けて居ない人は変わらず、どん底の川の淵を歩まされる事もある。
神様がイエス様を通して人に教えた事は、人が謝罪する前に救いの手を伸べ、罪人の本来の住処・獄の淵から救い出される事の約束である。詰り、人の風習・常識とは逆の方法を取り、先に人を救って下さる。
この世には今でも、神様に気付かず、信仰に気付かず、立ち返らない人が多く居る。日本のクリスチャン人口は一パーセントに満たないと言われて久しく、その数が目覚ましく伸びた!とは世間のニュースでも報道されない。
世界のクリスチャンにしても、ゴッコ(儀式や形)のみで礼拝を捧げて居る人がどれほど居るかと言えば、その人数が分からないほど曖昧で、そうして居るクリスチャンも実は多いのである。
誰一人、十戒を完璧に守れず、罪の誘惑に常勝出来ず、クリスチャンでも当然の様に(ノンクリスチャンと同様に)して罪の淵に陥り、「助けて下さい!お救い下さい!」と連呼する状況が在る。十二弟子のペテロでも、イエス様への信仰から外れた事があり、他の弟子にしてもイエス様が捕えられ十字架に付けられる時、それまで救い主とあれほど信じたに拘らず、そのイエス様を全員が見捨てて逃げたのである。一般に考えて、我々も同じ事をするのではなかろうか。
人は常に罪に陥る機会に直面して居り、故に信仰が必要となる。神様の御力と聖霊の働きに依り、救われる様に祈り願い求める上で、常にその罪の淵から逃れる力を授けられなければ成らない存在にある。この事を現在に於いてどれ程の人が本気で考え、自分の罪深さを思い知る上、その信仰に依る救いを生活のメインに出来て居るか。信仰を問う時、この点が大事にあろう。
この聖書に在る当時、食事を共にすると言うのは、ユダヤ人にとってもその周りに住む人達にとっても特別な意味を持つ。友として食卓を囲み、身内として食卓を囲み、互いに許し合う為に食卓を囲む等、その食事を通して互いの愛を深め合う事を目的ともする。
マタイはこのとき文字通りに多くのユダヤ人・パリサイ人達からも「罪人」として憎まれ、嫌われて居り、仲間内の他は、誰もマタイと共に食事をする人など居なかっただろうか。その「人の常識・感覚・主義主観」を打ち破ってイエス様はマタイと共に食卓に着かれ、そのマタイを自分の弟子(使徒)にまでした。使徒とは神様に依り遣わされる者であり、マタイはこの『マタイによる福音書』を記す土台に成った上、この後、イエス様に付いて行き、神様から与えられた全ての仕事(使徒としての仕事)を成したのである。これは神様の御力に依るものであり、イエス様を通して与えられた聖霊の働きに依るもので、マタイ自身の力で為した事には無い。この時にマタイはイエス様を通して確かな信仰の土台を持つ事が出来、人として救われた。
今でも世界では、この時のマタイに起きたエピソードがそのまま起きて居り、唯一、神様から与えられ、イエス様を通して得られる、真実の信仰の大事が問われて居る。

【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/

【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/

Table Café~

榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw

"TO THE ENDS OF THE EARTH" 「地の果てまで」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=E0IyNlT5TzA

ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop

不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)

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