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【アップ】2023年12月3日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/live/j884tc60zms?app=desktop&feature=share

【アメーバブログ】
聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。
ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^
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前奏
招詞 ヨハネの手紙一4章9,10節
頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問64
「二番目のいましめ」
こどもさんびか
みんなでたたえましょう[改8(2節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 95番
聖書
マタイによる福音書1章1~17節(新約P1)
エレミヤ書23章5~8節(旧約P1219)
説 教
「イエス・キリストの系図
~神の契約とその実現」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 162番
使 徒 信条
聖餐式感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 542番
祝 祷
報 告

讃美歌~♬

讃美歌95番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=PJRvsm-STIc

わが心は
あまつ神を とうとみ、
わがたましい すくいぬしを
ほめまつりて よろこぶ。

数に足らぬ
はしためをも 見すてず、
よろず代(よ)まで さきわいつつ、
めぐみたもう うれしさ。

御名(みな)は清く
大御業(おおみわざ)は かしこし、
代々(よよ)にたえぬ みいつくしみ、
あおぐものぞ うくべき。

低きものを
高めたもう みめぐみ、
おごるものを とりひしぎて
散らしたもう みちから。

アブラハムの
すえをとわに かえりみ
イスラエルを 忘れまさで
救いたもう とうとさ。

讃美歌162番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=EYZWdJMKJ5w
1
あまつみつかいよ、イエスの御名の
ちからをあおぎて主とあがめよ。
ちからをあおぎて主とあがめよ。
2
いのちをささげし あかしびとよ、
ダビデの御裔(みすえ)を主とあがめよ。
ダビデの御裔を主とあがめよ。
3
世のつみびとらよ、イエスの愛と
なやみをおもいて主とあがめよ。
なやみをおもいて主とあがめよ。
4
よろずのくにびと、みまえに伏し、
みいつをあおぎて主とあがめよ。
みいつをあおぎて主とあがめよ。
5
とわに世をしらす イエス君にぞ、
かむりをささげて主とあがめよ。
かむりをささげて主とあがめよ

2023年12月3日 礼拝説教 中心聖句

アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
マタイによる福音書 1 章17 節

見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。
エレミヤ書 23 章 5節

はじめに
主の待降節を迎えた、今日、神の約束の救い主、イエス・キリストの福音を学ぶ。

「アブラハムの子」とは。旧約聖書によれば、その子は「イサク、イシュマエル」(歴代誌上1章28節)。イシュマエルは「(エジプト人の女奴隷)ハガルが男の子」(創世記16章15節、「息子たち」創世記25章13~16節)。マタイ福音書が「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と教示する目的は、神の召命に従ったアブラハム(アブラム)に立てられた、神の約束(創世記12章,15章,17章)。「しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる」(創世記17章21節、「誕生」21章、「奉献」22章)。このように、「アブラハムの子」とは、その子孫(血統)にまさって、「神の約束」(契約)の子。「ダビデの子」も同様。「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ」(サムエル記下12章15節)、「七日目にその子は死んだ」(12章18節)。マタイ福音書が「エッサイはダビデ王をもうけた」「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを」と教示するのも、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエル下7章12節)との「神の約束」の実現。このように、マタイ福音書が、各書が書かれた順序とは別に、新約聖書の筆頭に置かれる理由がここにある。実に、旧約聖書の全体が、神の召命と選びと救いの土台であることを予表する。

「イエス・キリストの系図」は、このように、「アブラハムの子ダビデの子」という、神の約束の子として生まれたイエスを、神の約束の実現として生まれた、救い主として証する。それは、「アブラハムからダビデまで十四代」「ダビデからバビロンまで十四代」「バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」とまとめられるように、神の備えられた完全な系図として証しされる。しかし、その完全さは、血統の純粋さに帰されるものでなく、神の契約の民、イスラエルの諸々の罪(心と言葉と行動)を覆って余りある、神の憐れみによるもの。じつに、神の民の待望した「キリスト(メシヤ)」は、永遠の御子でありながら、罪をほかにしては、人間として、ヨセフの子として生まれ、世の罪を負う、贖い主となられたお方。

「バビロンへ移住させられた後」と言い、その後の「帰還」を記さない。離散民の多くは、各地にとどまり、律法の規定を守り続けた。イエスの十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤ人の王」。しかし、イエスは、永遠の神の御子、まことの王。わたしたちの主となられた「贖い主」。「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13章8節)。
おわりに
真の預言者エレミヤは、新しい出エジプトとして、「ダビデのために正しい若枝を起こす」との神の約束において、救いの日の到来を告げた。この「到来」こそ、わたしたちが、今日、待ち望む「主の到来」。世界のすべての人々が、主のもとに来る日を、切に待ち望みたい。

(Mynote)
二〇二三年一二月三日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。今日は待降節で聖餐式の日である。(※待降節とは、クリスマスの四つ前の日曜日から、クリスマスの為の準備をする期間の事)。
(子供メッセージ)
「第二戒は何ですか?」
「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。偶像礼拝を禁じて居る事が記されて在る。『出エジプト記』の事が引用され、その時のエピソードが語られた。厳しい奴隷の地・エジプトから奴隷の国民を、神様はモーセを遣わし、導き出された。その時に国民は「どんな事でも守りますから私達をお救い下さい!」と心から祈り願った。それだけ厳しい奴隷の生活が強いられて居た事が窺える。そこでモーセを通して全ての人に十戒が示された。けれど多くの人は奴隷の地から約束の地(自由の地)へ誘(いざな)われる途中で偶像礼拝をしてしまい、その十戒の内の一戒さえ守れない弱さを思い知った。
(公同礼拝)
『マタイによる福音書』(第一章一〜一七節)
『エレミヤ書』(第二三章五〜八節)
『マタイによる福音書』では、イエス様がお生まれになる迄の系図が記されて在る。アブラハムから始まり、イサクが生まれ、ヤコブが生まれ、ユダとその兄弟が生まれ…と、その後、ヨセフとマリアからお生まれになったイエス様までの事が記されて在る。これは先ずイエス様がどの様な系図を以てお生まれになったかを知る上で、彼らの歴史を知りつつ当時の時代背景に想いを馳せ、飽くまでイエス様が人として人の間に遣わされ、それと同時にイエス様が誠の救い主である事を知る契機・土台にも成る。『エレミヤ書』でもこのイエス様の事が記されて在り、「主(しゅ)は我々の正義」と唱えられ、「イスラエルの家の子孫を北の地と、その全て追い遣られた地から導き出された神は生きて居られる」と言う日が来ると預言の形で記される。
『マタイによる福音書』が冒頭に置かれてある理由も、このイエス様がお生まれになる迄の系図がきちんと記されてあるから…と言う人々も居る。イエス様の事に就いて直接語り、読者に少しでもイエス様の事を解り易く伝えられると補足した上で。
聖書の時代、特に旧約の時代に於いて人々は、この旧約の時代に神様から直接教えられた事柄が全てと信じ、「我々はアブラハムを信仰の父とする兄弟姉妹…」「我々の律法はモーセの教えに在る」等と主張して、長らくイエス様の存在を普通の国民と同じに見、幾ら預言を聴いても奇跡を見ても知ってもそれを信じず、或いは一時(いっとき)信じてもすぐに忘れて、とにかくイエス様を「自分達の救い主」として認める事をしなかった。それ故にあの十字架刑(磔刑)に至るのである。これが人の現実に在り、誠の救い主を「誠の救い主」(真実)と見抜く事さえ出来ず、やはりそれ迄の人の間に伝えられた習慣により姿勢を変えず、生き方・人生迄もを決めてしまう。そしてその信仰と信じた自分達の信念・主観・生き方を邪魔する者が現れたらやがて憎しみを以て敵対し、人の習慣通りに神秘と称した「自分達に通じる正義」の奥義によりその相手を裁き、自分達こそが正義の人…と称するのである。この通りの事が、イエス様が生きて居られたあの時代に起きて居た。
ここで重要な事は、神様が人に与えられた恵みと救いを正しく見抜く力を信仰から得る事、又その為に心を常に柔軟にして寛容に在り、それまで自分達を守って下さった神様の愛と恵みを素直に受け取る心の許容を持つ事に在る。
イエス様は神様の一人子であり、その一人子であるイエス様を神様は人の為に遣わされた。即ち、罪から生まれた人のその罪を贖う(清める)為にイエス様は人の世に遣わされたのであり、人として罪人の為に十字架に掛かられた事により「全ての罪人(人)の罪を背負う事が出来る」その姿勢を持たされ、飽くまで人の「罪人である立場・境遇・条件」に合わせて救い主に成って下さったのである。この事は初めから神様の御計画に在り、この事を全ての人がどれだけ素直且つ本気で受け取り信じる事が出来るか?それこそ神様からイエス様を通して与えられたその愛と恵みをどれほど知る程に信じる事が出来るか?…がクリスチャンを始め、全ての人に問われるのである。マタイはイエス様の事を人の地上で紹介する傍ら、その主張のメイン(福音書を記し後世に遺した最大の理由)は「イエス様こそが神様から一人子として人の世に遣わされ、全ての人にとって救い主と成った。この人の他に救い主は無く、もし在ると主張すればそれは邪教の救い主を主張して居る事になり、この唯一の真実と正義に在るキリストと、他の邪教との区別を明確に付けねば成らない事」を求めた点に在ろうか。無論、他の福音書もその内容とコンセプト、伝える処は同じである。表現の違いだけで伝える内容は同じである事を踏まえる。
このイエス様の系図を知ると共に、イエス様こそが誠の主であると知る事、それを信じる事が全ての人に大事と成る。旧約聖書でもイエス様の事が記されて在り、全ての人にとっての救いの預言は全て「一人子として遣わされるイエス様の存在」に終局して行く。先週に学んだアポロのエピソードに於いても、幾ら聖書に精通して居り「自分は正しい信仰者である」と豪語して居ても、神様ご自身が人に約束された・教えられた要点、即ち神様と人との間に於いて契約された救いに就いての知識(イエス・キリストに就いての知識)が無ければ、どんな信仰も土台が無いのと同じに成る。詰り一人子として人の間に遣わされたイエス様こそが全ての人にとって救い主であり、その知識を素直に受け取り信じる上で、それ迄の信仰を正される形で更に強めて行く事(強められて行く事)が要に成る。旧約と新約とは神様と人との間で成された契約の事であり、この旧約は新約の内容を預言して居り、旧約と新約とを合わせて聖書と成る。聖書は神様が全ての人に与えられた救いの書であり、命の書に在り、昂る事無く、全ての人はこの神様が人に与えたその二つで一つの契約と、正しい誠且つ唯一の救い主であるイエス・キリストの事を知らねば成らない。そのイエス・キリストこそ人が救われる最大の土台に成り、救いの源に成り、救いの契機を与える存在に成る。イエス様の系図は旧約の時代から続いて居り、旧約の時代から「救い主がお生まれに成る事」が記されると共にその救い主がイエス・キリストである事が既に証されて居る。この要点を神様に聴き学び直し、知って信じ、正しく救い主への知識と経験を持つ上で「自分にとっての救いが何か?」を全ての人が本気で問わねば成らない。その答えは必ず神様からイエス様を通し、信仰に依り教えられる。
天に居られる地上の全ての人にとっての御父、誠であり唯一の神様は、全ての人(神様から生まれた兄弟姉妹)が悪魔と罪から離れ、信仰に依り救われる事を願って居られる。この事も人に課した神様の御計画の内に在る事で、生来罪人として生まれた人が信仰に依り育てられ、救いの境地に立つ事(導かれる事)を人の試練とし、その「乗り越えられる試練」を全ての人は神様から与えられ今経験して居る。この「試練を乗り越える力」は人の自力に無く、神様から与えられる。唯一誠の救い主であるイエス様の存在を通し、その事を信じる信仰に依り与えられる。
イエス様はヨセフとマリアの息子として、大工の家の子としてお生まれになった。当時、そのイエス様の事を知って居た者達にとって、その彼・イエス様が「救い主だ!」と言われても、そこら辺りの近所に居る自分達と同じ人間であるとして、中々信じる事は出来なかったろう。だからこそイエス様はあれ程の非難と誹りを受け、迫害され、やがては磔刑の罪に処される迄に成り、人々はイエス様の事を「唯の夢想家・狂言を豪語して民衆を惑わす者」としか見なかった。けれどそんな人達の中で、確かにイエス様を信じ、救われた者達が居る。これも奇跡に近い事に在ろうか。そしてそのイエス様に依る信仰の救いはそれから二千年経った今でも福音として伝えられ、今や世界のベストセラーとして聖書が在り、キリストに依る自然の経過、世界情勢の変遷を見知って居る事に成る。即ち信仰とは先ず「信じる事」に尽きるものに在り、その信じる対象を唯一誠の正義、真実に見定めねば成らない。ここで誤れば、そのまま邪教を盲信する事に繋がる。この真実を見極める心と目を、全ての人は神様から与えられ、その後、誠の信仰に生かされる事に成る。そう成る為の祈り願いを、人は神様と一対一の時間・空間に於いてせねば成らず、その事に依り救いの土台が初めて得られる。この事をどれだけ本気で信じる事が出来るか。神様に会い、イエス・キリストに会い、信仰に依り、どれだけ自分の心が変えられ、生き方を変えられ、信仰に依り救われる事を大事とし、それだけに一途となる事が出来るか。これが人として全ての人に問われるのである。

【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/

【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/

Table Café~

榎本保郎牧師 ミニ説教18 「人と異なることをもあえて」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zJN_HPUMu0E

「ここに、私がおります。私を遣わしてください!」
THE DAILY with Arthur Hollands 2023/12/08
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=EiF67kwlqPE
(お暇な時にぜひどうぞ)

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