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【アップ】2023年11月5日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/live/uDbkKd8j19k?app=desktop&feature=share

【アメーバブログ】
聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。
ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12828750376.html

前奏
招詞 イザヤ書63章15,16節
頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問60
「十戒のまえがき」
こどもさんびか
ほめうたうたえ[改43(1節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 504番
聖書
使徒言行録18章9~11節(新約P249)
詩編126編1~6節 (旧約P971)
説 教
「恐れるな、語り続けよ
~主の収穫を感謝しつつ」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 514番
使 徒 信条
聖餐式
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 542番
祝 祷
報 告

讃美歌~♬

『実れる田の面は』讃美歌504番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=gRsHswp3EWg


実れる田の面は 見わたす限り、
穂波のたちつつ 日陰ににおう。
(おりかえし)   
垂穂は色づき 敏鎌を待てり、
いざいざ刈らずや、時すぎねまに。

しののめと共に とく起出でて、
暮果つるまでも 刈らしめ給え。
垂穂は色づき 敏鎌を待てり、
いざいざ刈らずや、時すぎねまに。

かりいれ豊かに、かりては乏し、
いそしむ僕を 主よ、増し給え。
垂穂は色づき 敏鎌を待てり、
いざいざ刈らずや、時すぎねまに。

かりいれ終えなば、あまつ御倉に
おさめて祝いの 筵にはべらん。
垂穂は色づき 敏鎌を待てり、
いざいざ刈らずや、時すぎねまに。

讃美歌514番(歌詞付)54年版「弱きものよ」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=iYErhPJOO6g


よわきものよ、われにすべて
まかせやと  主はのたまう。
主によりて  あがなわる。
わが身の幸は みな主にあり。

岩のごとく  かたきこころ
くだくものは みちからのみ。
主によりて  あがなわる。
わが身の幸は みな主にあり。

われになにの いさおしあらん。
ただ主の血に きよくせらる。
主によりて  あがなわる。
わが身の幸は みな主にあり。

死の床より  起くるその日、
勇みうたわん 主のみいさお。
主によりて  あがなわる。
わが身の幸は みな主にあり。

2023年11月5日 礼拝説教 中心聖句

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」
使徒言行録18章9,10節

主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。
詩編 126編1節

はじめに
宣教51年10月歓迎礼拝・合同夕礼拝の恵みを覚え、新たな幻を共に。

「(すると、)ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた」とは、この主が語られた時に、たしかに、パウロの心の中に一つの勇気と方向づけを与えられたことを物語る。先に、トロアスで見た幻は、マケドニア人への伝道を確信する分岐点となった(16章9節)。迫害から逃れて、マケドニア州(べレア)から、アカイア州(アテネ[アテナイ])に渡り、コリントに「行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と、後の手紙で伝える。それは、弱さに同情をしてもらいたいと願った言葉ではなく、むしろ、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言うほどに、世から見れば宣教の愚かさに仕えながら、身体的な弱さを心細い気持ちを負っていたことを告白するもの。かえって、パウロの「言葉も」「宣教も」「知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるもの」であった(コリント第一2章2~4節、「わたしは弱いときにこそ強い」コリント第二12章7~10節)。

「恐れるな、語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいるから」と、主は、パウロに命じ、約束された。「だれひとりとして、あなたを襲って危害を加える者はない」と、主は、これまで幾度となく危害を加えられたパウロを激励する。かつて、主の言葉が臨んだ時、真の預言者の召命を与えられながら、若さを口実にしてためらうエレミヤにも、「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と命じ、約束された(エレミヤ1章8節)。また、バビロンの地において、主の幻を示された時、大きな苦しみと無力さを覚えたダニエルには、「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい」(ダニエル10章19節)と命じ、力づけた。エレミヤも、ダニエルも、新たな力を与えられ、主の召しに応えた。

「この町には、わたしの民が大勢いるから」と、さらに、主は、一つの理由を伝える。主イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、同時に、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(ルカ10章2,3節)と言われる。主は、危害から解放を約束しているのではなく、どのような暴力も、伝道の妨げにならないことを約束される(かつてのサウロ、ステファノ等)。パウロは、シラスとテモテたちとともに、ティティオ・ユストの家(会堂の隣)を拠点しながら、「一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだった」(ローマ11章32節)と、パウロは、同胞イスラエルの不従順において、主の憐れみを認めたほどに、神の予定の教理は、慰めと希望を与えた。
おわりに
有り得なかった「シオンの復興」を見た時、「私たちは夢を見ている者のようであった」と言う。不可能を可能とされる御方は、ただお一人、全能の神。その大いなる御業は、主の深い憐れみと慰めによるから、今日の伝道を、共に尽したい。

(Mynote)
二〇二三年一一月五日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
「『十戒』の前書きは何ですか?」
「『私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である』です」
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一八章九〜一一節)
『詩篇』『第一二六篇一〜六節)
この箇所はパウロが一年六ヶ月のあいだその地方に留まり続けて(先週のメッセージを参照)、神様の言(ことば)を教え続けた箇所の前後のエピソードである。パウロも人であり、何の不安も悩みも恐れも苦しみも無くその福音宣教をして居たかと言えばそうでもない。他の人(異邦人も含む)と同じく、自分が思う理想に物事が運ばず、やはり不安・恐怖・嘆き・苦しみ等に駆られて居た。そのパウロを励まし、それでも「恐れるな。語り続けよ。黙って居るな。あなたには、私が付いて居る」と神様に後押され、導かれ、守られて、その後も宣教活動を続ける事が出来た。
福音宣教はこのパウロの前から当然行われて来た事であり(旧約の時代から)、現代でもその本質を変えず続けられて居る。この男山教会も前年に五十周年記念を迎える事が出来たが、全ては神様の恵みと守りの中で成された事であり、全ては神様への感謝に尽きる。夫々の人の働きも、聖霊を通して神様がさせて下さった事に在る。
この『使徒行伝』(『使徒言行録』)の箇所ではこの様に、先ず福音宣教の本質と大事、そしてその宣教活動に携わる時の人(使徒)の姿勢の在り方に就いて教えて居る。
パウロは元々、「マケドニヤに人が立ってそこに来た」と在り、今信仰に於ける助けを必要とする人が居るから来たのであり、場所を選んで来たのではなく、その人が居たから来たのである(神様にそう遣わされたのだ)。福音宣教とはそもそも大変なものに在るが、それは人の目からだけ見てそう成るのであり、神様と常に共に在り、神様に守られて為す場合には、その「大変・難儀・不可能」は必ず払拭される事に成り、苦しみは喜びに変わるのであり、涙で出た旅路でも帰りには豊作に喜び、この事をどれだけ神様の前で信じられるか?が先ず問われるのである。この「そう成ると信じる事が出来るか否か」がどの宣教者にも先ず大事になる。宣教者はどの様な環境に於いても、イエス様が十字架に掛かられ全ての人の罪を贖い(清め)、どんな罪人でも信仰に生かされる上で救われる事を人に伝えるその本質を変えない。詰りその事だけを伝えれば良い訳で、その為の学びを神様の下(もと)でして、或る程度の知恵と知識を持ち与えられたら、誰にでもいつからでもずっと出来るのである。宣教により人が救われるかどうかは、神様の御力、聖霊の働きに依るもの。
多くの人に(現代でも)キリストの真実と現実とをきっちり分けて考える癖がある。キリスト教の十字架は十字架。でも日常で目の当たりにするこの現実は、その十字架とは別にある、と仕切りを付けて考える。詰り「キリスト教」を宗教で片付け、現実とは別個に考えるのである。これが本来有り得ない事なのだ。人は皆、神様に命を与えられ、この生活環境・土台(自然)が与えられ、その上で人は神様に生かされて居り、その「人の日常」はこの神様が創られた土台から生まれる。だから十字架、キリストの真実と常日頃の人の生活とを、分けて考える習慣を正さねば成らない。
信仰に生かされる人は「私は弱い時にこそ強いのである」と語る。「私から弱さを取り除いて下さい」と祈る事もあるが、「私からあなたへの恵みは充分である」と神様は教えられた。
「私は弱いから、未熟だから、献身できない。宣教活動出来ない」
と言うのは神様のこの言葉に依り理由に成らない。神様は初めから全ての人に、キリストの栄光を現せる才質を与えて居るからである。その選択肢をどう取るかは人間の側の問題に在る。人には同時に、善悪の行動を選び取る自由が与えられて居る。生まれながらに罪人だった人間が、自分から神様の下(もと)へ還る為の努力と契機が与えられて居るからである。イエス様の存在はまさにそれであり、イエス様が人の間に遣わされたからこそ「全ての人がその罪を悔い改めて救われる道(命)」が与えられ、これは神様が人に与えた最大の恵みである。「アダムとエバがあんな事をしたから駄目なんだ!その所為で皆こんな罪の悲惨な人生を科されたんじゃないか!」とは間違いである。現代人の誰がアダムとエバに成っても同じ結果だったと言う事。詰り、人間と言う存在そのものが罪人であり、罪人である以上、アダムとエバと同じ罪を犯して居たと言う事。だからそんな人間を神様は一度ノアの時に滅ぼそうとなされたが、その人間を愛され、一人子であるイエス様を通して救いを与え、人間の世界を続けられた。これは神様の御計画の内に在る事で、生まれながらに罪人だった人間はその御計画に従うしか無く、神様から生まれた人としてそれは当然の事であり恵みであり、生まれながらに罪人だった人間は先ずその自分の罪を悔い改めねば成らない。これはグッドニュース(福音)である。悔い改めにより、その罪から救われる道が用意された事。そして神様はその救いの上で使徒を遣わし、その活動を通して活動者を救い、この活動者により救われる人を多く募られて居る。救いの道か罪の道か、人はどちらかを選ばねば成らない。人は生まれながらに罪を犯す。だからこそ悔い改めが必要になる。己の根源を知り、救われる為の努力をし続けねば成らないのである。そしてその救いの契機は神様から与えられる。神様の御心に沿う形で与えられる。だから人は信仰生活への努力をする上で、その救いを待てば良い。聖書には日常で有り得ない(とされる)事ばかり、詰り奇跡が溢れる程に起きて居る。この奇跡が現代でも起きるのである。聖書の時代と現代との区別は無い。神様の下に在るこの「人の世界」の在り方は変わって居ない。

【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/

【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/

Table Café~

榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=q0lc_w0zV-I

ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop

「十字架の言葉は滅びる者にとっては愚かでも…」
THE DAILY with Arthur Hollands 2023/11/15
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=z0e2XwjT70c

不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)

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