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ニュークロスの悲劇(上)

ニュークロスの悲劇(上)
 前日に雨が降れば、翌日の町では、濃霧が漂い、場所によっては、先が見えないところがあった。ニュークロスという、ロンドンから少し離れた町があり、その土地の者、又よそ者は、その町を「郊外」としきりに呼ぶ。貧民街が中に数点あるが、過去の歴史に於ける見栄えから「田舎」とは呼ばれない。そのような外観と内実とは、常に、人の喜びと悲しみを見据える視点を曇らせていた。よそ者に対しては、特定の用事でもない限りは、そこへ近づくことをさせず、土地の人々に対しては、水たまりを思い出させて、少々の空想を共に「ポンド・ロット」との別名を立てさせ、又その町を出る者に対しては、ありふれた感動にピリオドを打たせて終点を仄めかす様子があったという。冬は雪が町を彩り、車で5マイル行くのが至難の場合もある。霧が出るのは大抵冬が訪れる前であり、今である。風は冷たく、雨はぬるい。心地よいものは、見知らぬ人の情である、等の噂がちらほら飛び交う。都会で思い通りに楽しんだ後で、散在する路地に入れば、コツコツ、という靴の音がやけに響いた。

 コツコツ、と長い歩幅を思わせる靴の音がした。見知らぬ町では市が催されており、そこに集った雑踏をかいくぐり、あの男はやって来る。建物は、スカイラインを幾つも重ねて、空を隔てる為、間道であるその通りは暗い。その闇に紛れながらこうもり傘をさすあの男は、沈黙を以てやって来る。「コニー・ロッド」という酒場へ向かう様子であり、その10数年流行り続けた新鮮なギャンブルができる場所を、あの男は好んだ様である。その場所は、酒場ながらに、あの貧民街でくたびれたジャンキー達が、鈍った感覚を取り戻す為の挫折と戯れることができる安楽な空間を醸し出し、バイカーと呼ばれる安酒をあおってルーレット、ポーカー、又悪い夢を売る女が盲目を与えるひとり遊び、等の内で、つかみたい者が勝利をつかむことができる、という酷くつまみ易い強制と暇を御馳走としている。その魅力を知ったよそ者、又、ジャンキー達は、その後、間違いなくそこへ行った。こうもり傘をさしたその男の名はトムソンといい、役者であった。暫く芝居小屋へ通う内に、良くない妄想に駆られてしまって財産を売り、とかく商売敵と噂された娼婦の女に夢を寝取られてしまい、手の平の皺を数えている内に光が差して、その後まもなく、その貧民街で働くことを夢に見たのである。又、よくある家計の誤算が肩を押して、幾度かは敵に、商才の内で挑んだ日々もあったが、要の十八番がどうしても冴えずに、心身、環境、共々滞り、ついにこの場所へ堕ちて来た、というのが本当らしい。その貧民街に友人が居た彼は、沢山の太陽と月の下を通った後で、その友人に頼った。彼の父親が仕事の都合で町に戻るまでの間でもある。友人の名は、デストロイといい、彼の旧友である。彼もデストロイも、ニュークロスの出身ではなく、元々の生れはロンドンである。彼の遠祖を辿れば貴族階級にあり、デストロイは農家であった。青年の時代に仲たがいをし、しばらく疎遠になっていた彼等は、ここ、ニュークロスで再会し、確執を忘れるようになった。デストロイには妻子がなく、中流家庭の身の上だったが、彼に対しては、やはり親身になり、仕事を世話して、アパートを見付けてやり、それ等の援助のお陰で、彼は働きに出ることになる。

 木曜日の朝10時、目覚ましが鳴り、”ジリリリリ..”という不快音がトムソンの眠りの内に響く。トムソンは、もそもそとベッドから抜け出して、右足の親指に、ぽっかり開いた穴の感覚と、きっとその為の隙間風に、妙に気忙しくさせられて、倦怠に捕われたか、一旦離れた沈静を再度取り戻した後、コーヒーをデカンタからコップへと注ぐ。靴下を履き替えた後、一度、窓を開けて空を見た。途端に形相を変えてバスタブに向かい、浴槽の罅と僅かに残る水滴の一面を省みた後で、洗面台に行って歯を磨く。タオルをさっと取り、顔を拭いた後、暫く黙っている。さっき見た空は、曇っていた。不意にネズミが一匹、天井を走った。妙な軽快音に少々困惑しながら、なつかしいピンナップをとめてあったコルクボードの横には、小さく貼られたカレンダーがあり、それを手に取り、空想と堅実とを以てゆっくり眺める。3口目のコーヒーはトムソンを覚醒させて、躍起に駆られながらトムソンは、その日を辿った。シュッシュッとなっているストーブの上のヤカンには、少ししか湯がなく、あと一杯分のコーヒーを作ることはできたが、それだけだった。トムソンは、二杯目のコーヒーを飲んだ。飲みながらテーブルの上に無造作に広げられた新聞に目を通して、その日の自分を確認した後、他人の真似をした。惜しいのは、昨日の新聞だったことである。しかし、トムソンの計算の内のことである。これから自分は働きに出るのだ。一般人と変わらない、そんなことを呟くトムソンの心中には、乖離し得ない両者の立場が、無造作に設定されていた。それは何度も見て来た経験であり、何度も回想してきたその過去が、見知らぬ情景とその背景とを思考の源に居座らせることにより、トムソンの感覚に白日夢を覚えさせている。そのような経過をトムソンは知っている。独歩と乱歩とを以て憂鬱が思索に耽り終えてから、やがては無関心を覚えながらにして、自然が魅力だけを残す形を以て雑事を除去してゆくのであろうと、密かにトムソンは期待する。変えられない運命は予定外の感動をトムソンの心中に取り込ませて、トムソンはいつしか夢の実現が自分に来ると、丈夫に、心に花を咲かせていた。何でも経験済みである、そう思わせる魅力的な虚構は、この現実に息づいていた。しかしトムソンは、それ等がどのようにして連動するのか、その真相について知らない。知っていたのはむしろ、対岸にいる憧れの騎士、デストロイであったことは、トムソンにも薄々気付かされる処であった。

 デストロイが階下で、車で迎えに来ている気配がした。車のマフラーから漏れる静かなボイルの音が、カラコロと彼の耳にこだました。彼は、とりあえず、一張羅は鞄に直して、二つ目の余所行きとして身に着けていた作業着を、鏡を背にして身に付けて、残ったコーヒーとヤカンの湯を流しに捨てた後で、部屋を出ようとした。その時、ネズミが走ったあの天井を覗くようにして見た。又、右袖のボタンは付いているのかどうか、確認しながら靴を履きかけた際、背後にしたベッドの方で、”ジリリリ!!”と鳴る。さっき消した筈の目覚ましが、又鳴った。消し忘れていたようであり、さっき読み掛けていた新聞を、足下にする形でもう一度眺めらがらベッドまで行き、うるさい時計を消した。10時半を指していた。大きな月が太陽に照らされる神秘のことを、少し思った。

 デストロイが来た。彼の身なりは、安っぽいアパートに住んでいるとは思えないくらいに見栄えのするテカリの入った黒いタイに、黒のスーツ、薄茶色のストライプが入ったワイシャツで彩られている。トムソンのアパートの部屋には、ちょっとした螺旋階段を上らなければ辿り着くことができない。郵便受けが鳥の巣箱のように備え付けられた壁を挟んで、螺旋階段は細い螺旋を描きながら上階へと伸びてゆき、その階段を下りた所には小さな駐車場があり、その駐車場は別段住居人の為のものではなく、管理人のものであり、管理人が車を使用する外出中には誰が停めても良い、という約束事は、その辺りに住むジャンキー達と、住居人達との間の暗黙の内に決められたことだった。

「遅かったな」トムソンが囃して言う。「なあに、道が混んでいたのさ。一昨日の晩から降り積もった、いや違った、夕立のような霧雨が気まぐれで作った霧が出ててね。」躊躇いなくデストロイは応えた。二人の友情に於ける関係は幼少の頃からそれ程変ってはいない。いつになっても二人は、友情を確かめ合う、等ということについては考えず、喜怒哀楽に、いつでも情を掻き立てることができる、このような自然の在り方は、自分達にとって必定のことであり、良し、としていた。又そのようにさせる根拠についての確信を、どうしても消すことができなかった。作業着の胸のポケットにボールペンを差して、トムソンは車に乗り込んだ。デストロイの運転する車はゆっくりと動き出す。


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