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【アップ】2023年8月20日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります
【本日の礼拝メッセージ】
湘南グレースチャペル
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=E2ayumz89qA
【ブログ記事】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12817030661.html
こちらから聖書と讃美歌を閲覧できます。
(下記プログラムは男山教会のものです)
前奏
招詞 詩編85編9~14節
頌 栄
たたえよ、主の民[こ改25
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問49
「みことばによるめぐみ」
こどもさんびか
ガリラヤのかぜかおるおかで[改54(2節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 260番下
聖書
使徒言行録16章35~40節(新約P246)
詩編132編8~18節(旧約P974)
説 教
「パウロたちの釈放~法的権利と義務の証し」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 290番
みことばの交読文
ペトロ一3章8,9節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 542番
祝 祷
報 告
讃美歌~♬
讃美歌第260番「千歳の岩よ」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=E2ayumz89qA
1
千歳の岩よ わが身を囲め
さかれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
2
かよわき我は 律法(おきて)にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
3
十字架の外に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
4
世にある中も 世を去る時も
知らぬ陰府(よみ)にも 審きの日にも
千歳の岩よ わが身を囲め
讃美歌290番(歌詞付)54年版「よろずをしらす」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=aYAjeBA4Wuk
1
よろずをしらす 愛の御手(みて)に
憂きも恐れも 委ねまつれ
嵐をしずめ 雲をはらい
神はまさみち示したまわん
2
思い乱るる わが心よ
救いの時を 静かに待て
忍びて待たば 暗き夜に
別れを告ぐる 朝はきたらん
3
頼れるものを 見捨てまさぬ
神のまことぞ とこしえなる
愛する子らを きたえたもう
父の愛こそ 限りなけれ
4
はせばを走り わざを終えて
さかえの国に かえる その日
命のかむり(冠) 授けらるる
悩みし子らは 幸なるかな
※8月20日 男山教会のライブ配信はありません。
2023年8月20日礼拝説教中心聖句
「今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
使徒言行録16章37節
あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまといあなたの慈しみに生きる人々は喜びの叫びを上げるでしょう。
詩編132編9節
はじめに
男山教会最初期の姉妹召天の日、主の喜びと祈りと感謝を新たにしたい。
1
「朝になると」とは、ついに、主イエスの福音を聞く機会を与えられた、看守とその家族が救われた、その夜明け。当時、看守の多くは、退役軍人であり、年金生活者。しかし、家族との時間が乏しい。「看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った」機会を与えられたことは、全く、主の恵み。主は、人の目には、最も救い難いと思われた看守とその家族全部を救われた。一方、大地震の中、牢の戸が開きながら、一人の囚人の逃げなかった事実は重い。看守はパウロの制止により一命を取りとめたばかりでなく、その責任を全うできた。事態は高官たちに伝わり、「高官たちは下役たちを差し向けて、『あの者どもを釈放せよ』」とも命令となった。「それで、看守はパウロにこの言葉(命令)を伝えた。『高官たちが、あながたがを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい』」。看守は、命令実行の責務を喜んで果たす。もはや、自害しようとした時の看守ではなく、キリストの解放を知る者としての平安の祈りの中で、パウロたちを、牢から送り出そうとする。
2
「ところが、パウロは下役たちに言った」とは、パウロの訴え。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか」「いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ」との訴えは、パウロがローマ法に従うことを求めるもの。パウロは「生まれながらローマ帝国の市民」(22章28節)であった。パウロは、自由都市タルソスで生まれた(9章11節)。自由都市では、独自の法律、習慣、統治者を用いることが許され、ローマ人の権威を認め、戦争に協力することが義務づけられた。パウロは、自分の特権を、とくにフィリピ教会(集会)の公的な信用と権利の回復、将来の安全のために公然と主張した。「下役たちは、この(これらの)言葉(数々の主張)を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ」。高官たちにとって、法を犯したことは、自分たちの身も裁かれること。自己保身と群衆の目がある。「町から出て行くように」とは、「わびを言った」ことは、懇願であって、悔い改めではなく、キリストのもとに来ようとしなかったことの反証でもある。
3
「牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い」とは、不当な辱めを受けながらも、公然と、主に固く立つ者としての証し。「彼らを励ましてから出発した」。後に、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(フィリピ1章5節)と、パウロは獄中から感謝と喜びの手紙をフィリピ教会へ書き送った。
おわりに
一連の出来事をとおして、主の守りと導きを認める。まことの祭司的王キリストの支配の中で、福音が語られ聞かれるところに、主の教会が建て上げられ、成長していく。世界の国々、人々に遣わされる福音の奉仕者たちの使命を、共に、担うとき、キリストの「王冠(支配)はダビデ(まことの契約と祝福)の上に花開く」。
(Mynote)
二〇二三年八月二〇日(日曜日)、今日も礼拝を守らせて頂けるこの環境を、兄弟姉妹共に神様に感謝する。
(※本日は機械の事情により動画をアップする事が出来ず、同じ聖書の箇所をメッセージされて居た湘南グレースチャペルの動画をアップして居ります)
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問四九』
「恵みを与える方法としての御言葉とは何ですか。」
「聖書の朗読と説教です。これ等を用いて、イエス様は、聖霊によって私達に語り掛けて下さいます。ですから、よく備えて礼拝に出席し、御言葉を受け入れ、心に蓄え、毎日聖書を読み、御言葉に従う事が大切です。」
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一六章三五〜四〇節)
『詩篇』(第一三二篇八〜一八節)
この『使徒行伝』の箇所は、牢屋に入れられたパウロとシラスに対し、長官と獄吏が釈放を申し出る場面である。
パウロ達は不当な教えを説き広めて居たとされ、女占い師の主人達により獄に入れられ、そこで鞭打たれた後、足枷まで付けられて、暫く捕らえられた儘になって居た。そしてそれ迄の事があった後、獄吏の何人かはパウロ達に救われ、長官に申し出た後、長官に遣わされる形でパウロ達を釈放する事にした。
しかしパウロはそれを「良くない事」とし、「彼らは、ローマ人である我々を、裁判に掛けもせずに、公衆の前で鞭打った挙句、獄に入れてしまった。然るに今になって、密かに、我々を出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここに来て、我々を連れ出すべきである」(『使徒行伝』第一六章三七節)と言い、獄吏はこの言葉をそのまま長官に報告し、長官達はそこで初めて「パウロ達がローマ人である事」を知って恐れ、自らパウロ達の前に来て詫びた上、パウロとシラスの二人を獄から連れ出して「この町から立ち去る様に…」と頼んだのである。
この時、長官達はそれ迄の自分達の行いを悔い改め、救われた上でそうしたのではない。パウロ達がローマ人である事を知った上、周囲の人々に対する体裁を繕った上、それを恐れて釈放し、(その事を恐れて居た証拠に)「町から立ち去る様に」と頼んだのである。そのままパウロ達がその町に居座り、自分達がした事(好い加減な裁判によりパウロ達を捕えた事)が公衆にバレると不味い…と思った為。
神様に仕える事と、人の世の国の律法に従う事を考える時、信仰に於いて「どの行動が正しいか?」について注意せねば成らない。人の法律(律法)に於いて正しくても、神様が人に定めた法律(信仰に於ける正義)に反して居れば、それは人として、クリスチャンとして正義には無い。
人の世では間違った裁きが度々為される事があり、例えば冤罪もそれに含まれ、イエス様が十字架に掛かられた時の事を思えばその典例に在ると分かるだろう。イエス様は何の罪も無いのに人々により冤罪に掛けられ、法の番人もその気になり、一つ一つの悪義を検証・立証しない儘(立証出来ない儘)イエス様を十字架に掛け(『ヨハネによる福音書』第一九章六節)、その冤罪を正義の裁きとして通してしまった。勢いと、雰囲気で一人の人を裁いたのである。
『ヨハネによる福音書』第一九章六節
このイエス様の時と同じ事が、このパウロとシラスの時にも起きて居た。だからパウロはその事の責任を長官達に突き付ける上、自分達がした罪(過ち)を自分達で認め、その尻拭いをさせる為に「長官自らここへ来て自分達を釈放させる事」を要求したのだろう。そしてその事を獄吏達も解って居たからその通りに行動し、長官達はその理解と共に「公衆の面前で体裁を繕う為」にもパウロ達に従う事にした。
パウロ達は間違った事をして居なかった。福音宣教に向けて活動して居ただけで、女占い師の主人達が「自分達の利益が無くなるから」と感情的にパウロ達に罪を着せ、有る事無い事言われた上で、冤罪を掛けられて鞭打たれ、大地震で獄から出たにも拘らずそこから逃げず、敢えてその場所に留まって居た。
そしてその延長でパウロ達は、間違った事をして居なかったから逃げる必要が無く(その町を立ち去る必要は無く)、獄を出て釈放されてから、その同じ町に在るルデヤの家に行ってそこに留まった。
一体その町を立ち去る形で出て行き、逃げ去らなければならなかったのはパウロ達と長官達の、どちらだったのか?この事を思わされる上、人の世の曖昧な正義の在り方と、信仰に於ける確かな正義の在り方を知り、自分がどちらに従うべきか。その事を真剣に考え、信仰に歩まされる事が最良に在る。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教8 「復活は神さまのわざ」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=oYuXSqAVIXI&list=PL8KCKaKra_aYWbpUw2b-jccg2eIg696Vx&index=6
自分の行いではなく、ジーザスの恵みによって、救われる
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KdTqp0CxRmA
イエス・キリストの生涯をたどる旅・2
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=tzfLoBiw_zA
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)