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【アップ】男山教会2023年1月15日礼拝説教/讃美歌〜My noteもあります
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=LbUmyd7S_fc&feature=youtu.be
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12785255856.html
(ブログを見てくださると聖書と歌詞も閲覧できます)
前奏
招詞 ヨハネの黙示録4章11節
頌 栄
たたえよ、主の民[讃21-24,こども改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り
十戒・祈祷
子ども説教
子どもと親のカテキズム問18
「神さまを礼拝する人間」
こどもさんびか
あかるいひかりを[改11(1節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 280番(1,2節)
聖書
使徒言行録28章16~31節(新P270)
説 教
「希望につながれて」
蒋淳吉神学生
祈 祷
讃 美 歌 280番(3,4節)
みことばの交読文
ペトロ一1章3~5節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 539番
祝 祷
蒋淳吉神学生
報 告
讃美歌~♬
讃美歌280番(歌詞付)54年版「わが身ののぞみは」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=hYmo6zd8csk
1
わが身ののぞみは ただ主にかかれり、
主イエスの外には よるべきかたなし。
わがきみイエスこそ すくいの岩なれ、
すくいの岩なれ。
2
風いとはげしく なみ立つ闇夜も、
みもとにいかりを おろして安らわん。
わがきみイエスこそ すくいの岩なれ、
すくいの岩なれ。
3
この世ののぞみの 消えゆくときにも、
こころはうごかじ、 みちかいたのめば。
わがきみイエスこそ すくいの岩なれ、
すくいの岩なれ。
4
見ぬ世にうつりて まみゆるそのとき、
主の義をまといて みまえに立たまし。
わがきみイエスこそ すくいの岩なれ、
すくいの岩なれ。
讃美歌539番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=RLNZOZY75YY
あめつちこぞりて
かしこみたたえよ
みめぐみあふるる
父、御子、御霊を
2023年1月15日 礼拝説教 聖書箇所
使徒言行録28章16~31節
16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。17 三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。 18 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。19 しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。20 だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
21 すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。22 あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。
25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。27 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」(※:底本に29節が欠落)
30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
(Mynote)
二〇二三年一月一五日(日曜日)。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問一八』
「神様を礼拝する人間〜イエス様が死んで葬られた後、何が起きたのか?」
「十字架での死から三日目に墓の中から甦り、もう二度と死ぬ事は無い(『ルカによる福音書』第二四章一〜八節)。この事を、イエスキリストの復活と呼びます」
イエス様が人を愛された様に、人々も周りの隣人を愛する事が大事である。その為にイエス様の十字架を信じ、その救いに歩み、力を得る事が大事に在る。それこそ救いの道に在り、永遠の命への道に在る。
(公同礼拝)
説教題『希望に繋がれて』
蔣淳吉(ジャン・スンギル)神学生より
聖書
『使徒行伝』(第二八章一六〜三一節)
パウロは番兵を付けられながらも、その番兵から少し離れ、一人で住む(居る)事を許された。パウロは何も国に反く事が無かったのに、囚人として捕えられた。
ローマ人達は取り調べた結果、パウロに何の罪も見出せず、パウロを許そうとしたのに、それをユダヤ人達が許さなかった。イエス様の十字架の時と同じである。そしてパウロはカイザルに上訴するに至った。
しかしパウロは同胞を訴えようとはしなかった。パウロは直接ユダヤ人達に向かい、自分の鎖に繋がれた手を振り翳しながら「私がこの様に繋がれて居るのは、イスラエルがそう望んだからだ」と言った(鎖に繋がれた手を振り上げる素振りは「おそらくそうだろう」と言う想像による)。でもユダヤ人達は互いに論じ合い、意見が合わず、更にパウロが語る言葉を信じなかった。
「その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒される事が無い為である。」(『使徒行伝』第二八章二七節)
そしてパウロは晩年まで借りた家に住み、そこに訪れた者は誰も憚らず皆招き入れ、神様の事(福音)を宣べ伝えた。この期間は満二年だった。
「…日を定めて、大勢の人が、パウロの宿に詰め掛けて来たので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国の事を証し、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得に努めた。」(『使徒行伝』第二八章二三)
『申命記』(第二一章)を参照の事。
サウロ(以前のパウロの名前)は以前、イエス様を迫害する者だった(『使徒行伝』第九章)参照。
『エペソ人への手紙』(第二章五〜六節)参照。
サウロはイエス様(の霊)から「なぜ私を迫害するのか?」と問われた。「なぜ私達を…」ではなく「なぜ私を…」と訊かれた。
ユダヤ人達もモーセの律法に従う姿勢で、常に「救い主の出現・到来」を待ち望んで居た。でも本当の救い主がイエス様でありそのイエス様がやって来たと言うのに、ユダヤ人達はイエス様をその救い主とは見抜けず、挙句は十字架に付けて殺してしまった。ピラトはイエス様を釈放しようとして居たが、それを大衆の力で以て覆し、飽くまで「十字架に付けよ!」と激しく大喝し、イエス様の処刑を心の底からピラトに願った。そして代わりに盗賊殺人者のバラバを「釈放しろ!」と訴えた。ユダヤ人達はイエス様ではなく、バラバを救ったのである。この事がこの使徒行伝の間にも、ずっと響く形で在る。影響して居る。
パウロはそれまでイエス様を迫害して来た異邦人(ノンクリスチャン・或いはキリスト教を嫌う者)だった。でもイエス様を通し神様に救われ、その後は一八〇度真逆の、使徒としてのクリスチャン人生を歩まされる事に成る。これは神様に依るパウロ(サウロ・異邦人)への愛に依る救いに在り、導きに在ろう。
そしてこの時でも(使徒行伝の時でも)、ユダヤ人達は未だパウロの言葉(神様の国の事、イエス様の事、福音)を信じない者と信じる者とに大きく分かれ(信じない者もかなり居り)、そのパウロから叱責されて居る。このユダヤ人達の姿勢・在り方を、現代に置き換えても、現在の多くのクリスチャン・世間一般の人達と考えて良いだろう。
パウロの手に繋がれた鎖の事を「伝道による鎖」とパウロは呼び、その福音への道を大胆に歩み、更に導かれながら、宣教に動いて行った。その鎖、伝道、福音は、全ての人にとって大きな希望である。
(御言葉の交読文)
「私達の主イエス・キリストの父である神が、褒めたたえられますように」
「神は豊かな憐れみにより、私達を新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…」
「また、あなた方の為に天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました」
「あなた方は、終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける為に、神の力により、信仰によって守られています」
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
アーサーホーランド 2023.01.15 成増教会礼拝
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=0j6lQScYqvg
[ドキュメンタリー]放蕩息子たちの帰る場所
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=gfhre6IfM8Q
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
思記〜『湖畔の記』より
信仰の材料は罪である。悔い改めの材料が罪に成る為、悔い改めが必要な信仰生活の材料と成る。
人には存在と言うものが在る。輪郭が在り、体裁が在り、ぬくもりが在り、気配が在り、内から湧き出る力が在る。語らずにして語る、その行動で証する、これが出来るのである。誰にでも出来る。神様はその賜物を初めから人に与えられて居る。
一つ、世紀末でもう直ぐ世界が終わると分かった時には、人間は少しばかり欲望から解放され、神様が与えられた本来、純粋の美しさに戻る事がある。明日、今後の為に稼ごう・儲けよう・自分だけが得しようとする欲望が「無駄だ」と知るからだ。