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【アップ】2024年9月8日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/live/7fmpEJQOjnY?app=desktop&feature=share

【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12867698896.html
(讃美歌や聖書の内容を閲覧できます)

前奏
招詞 詩編127編1,2節
詩 編 歌 65編7節
歌声は全地に 響き渡らん
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
スコットランド教会新カテキズム
「祈りの規準:主の祈り」
こどもさんびか
けさもわたしの[旧 4(1,2 節)]
牧 会 祈祷
讃美歌 312番
聖書
使徒言行録20章17〜24節
詩編112編1〜10節
説教
「命を惜しまずに
〜救い主イエスの命に生きつつ」
宮武輝彦
祈祷
讃美歌 526番
みことばの交読文
ヨハネの手紙一1章 5〜9節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 544番
祝祷 報告

讃美歌~♬

讃美歌312番「いつくしみ深き」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=HYtju3yW9Jg
(ブログを見て下さると歌詞を閲覧できます)

讃美歌526番(歌詞付)54年版「主よわが主よ」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=tCeCRg3XCiQ

1
主よわが主よ 愛の主よ 主はわが身の 救い主
かくまで主を愛するは 今日初めの 心地して

2
主は十字架を まず負いて 愛の御手を伸べたもう
かくまで主を愛するは 今日初めの 心地して

3
生ける時も 死ぬる日も 声の限り かく歌わん
かくまで主を愛するは 今日初めの 心地して

4
玉の冠 受くる時 この歌をば 主にささげん
かくまで主を愛するは 今日初めの 心地して

2024年9月8日 礼拝説教 中心聖句

主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
使徒言行録20章24節

彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。
詩編112編7,8節 

はじめに
伝道の秋。わたしたちに託された神の恵みの福音に生き、信じつつ、証ししたい。

「そして今、わたしは“霊”に促されて」とは、「そして今や、見なさい、わたしは霊に縛れたまま」という励ましの言葉。パウロ自身、これまでも、今も、これからも、神の霊につながれて絶えず生涯を主にささげる者であることを証しする。エルサレムからローマを経て、最晩年の時にも、投獄されながら、「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテ二2章9節)と手紙をテモテへ書き送った。また、同様に、「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(フィリピ1章14節)と伝えた。パウロは「エルサレムへの旅を続けようとしている」と言い、「かの地で、何がわたしにふりかかるか、知るよしもありません」と伝える。しかし、パウロは、そこでふりかかるであろう艱難についてこう証しする。

「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けている」と。「むしろ、聖霊が、都(もしくはすべての町(二通りの写本有))について証言し、告げているのは、縄目と圧迫とが、わたしを離れることはないことです」(逐語訳)。聖霊は、パウロはエルサレムもしくは行く町々における艱難を告げる。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさせ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りとするようになりました」(コリント二1章9節)。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」「肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきが、わたしには分かりません」(フィリピ1章21,22節)。パウロはすでに生きることを断念するほどの艱難を経験しながら、復活の主により頼む信仰を新たにした。それは、「死ぬ」ことが、キリストと共に生きることであることを、十字架と復活の主において、追体験するような思いから出た、真実の証し。

「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と、パウロはさらに、自分の行く道における義務を確かめる。写本によっては、「喜びと共に」を入れ「喜んでわたしの道を走り終える」とする。ここで、パウロは、福音について、「神の恵みの福音」と言い、それを「主イエスから受けた」もの、「一貫して証するもの」として伝える。「任務」とは「主の奉仕」。「この命すら決して惜しいとは思いません」とは、パウロ自身、自分の命を自分にとって最も大切なものと思っていないことを証しする。それは、ただ、キリストの命ゆえに。元の語順は、文頭からのもので、「しかし、これらのこと(責任を負う関係)は、何一つわたしを動かさず、命をすら、わたし自身値高いものして持ち得ない」。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5章13節)。キリストに結ばれた者の自由は、命よりも召しと愛、主の奉仕と義務を尊ぶ。
おわりに
わたしたちをご自身のものとして召し出してくださった、主イエスは、今日、わたしたちをご自身の器として用いられる。主の心を心とする僕として「固く主に信頼」したい。

(Mynote)

二〇二四年九月八日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド新教会カテキズム』
「私達の祈りの規準は何ですか。」
「主(しゅ)の祈りと呼ばれる、祈りの模範です。」
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第二〇章一七〜二四節)
『詩篇』(第一一二篇一〜一〇節)
「主を褒め称えよ。主を畏れて、その諸々の戒めを大いに喜ぶ人は幸いである。その子孫は地に於いて強くなり、正しい者の輩は祝福を得る。繁栄と富とはその家にあり、その義はとこしえに、失せる事は無い。光は正しい者の為に暗黒の中にも現れる。主は恵み深く、憐みに満ち、正しく居らせられる。恵みを施し、貸す事をなし、その事を正しく行う人は幸いである。正しい人は決して動かされる事なく、とこしえに覚えられる。彼は悪い訪れを恐れず、その心は主に信頼して揺るがない。その心は落ち着いて恐れる事なく、遂にその仇(あだ)に就いての願いを見る。彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。その義はとこしえに、失せる事は無い。その角は誉れを得て挙げられる。悪しき者はこれを見て怒り、歯を噛み鳴らして溶け去る。悪しき者の願いは滅びる。」(『詩篇』第一一二篇全節)
この箇所は信仰に於いて福音に赴く時、人の世間でどの様に力強く歩み、神様とイエス様とに繋がって居るか、その事の大事を教える様である。
『使徒行伝』の箇所では、パウロが福音に於いて様々な喜びと苦難とを連続して味わい、その上でクリスチャンは神様の下(もと)でどう信仰に歩むか、福音活動に赴くべきか、その理想と揺るがない信仰の大事を教えて居る様である。
パウロは信仰のみに生かされる事、この大事を皆に聴かせた。ミレトと言う町からエペソ地方に使いをやり、教会の長老達を呼び集めた。そこでパウロは自分がどの様な姿勢を以て福音に赴き、アジアの地に足を踏み入れた最初の日以来、どの様に過ごして来たかを教えた。パウロはこの事を、それ迄にも何度か伝えて居た。
謙遜の限りを尽し、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によって彼(パウロ)の身に及んだ数々の試練の中に在り、主に仕えて来た。又、福音を伝える上で全ての人の益に成る事を、公衆の前でも、また家々でも、全て余す所無く話して聴かせ、また教え、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神様に対する悔い改めと、私達の主イエスキリストに対する信仰とを、強く勧めて来たのである。
今や、彼(パウロ)は御霊(みたま)に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事が彼(パウロ)の身に降り掛かって来るか、この時の彼(パウロ)には分からなかった。ただ、聖霊が至る所の町々で、彼(パウロ)にはっきり告げて居るのは、投獄と患難とが、彼(パウロ)を待ち受けて居ると言う事だ。
しかし、彼(パウロ)は自分の行程を走り終え、主イエスから賜った、神様の恵みの福音を証(あかし)する任務を果し得さえしたら、その命は自分にとって、少しも惜しいとは思わないと言った。
現代でも日常に於いて、神様に尽す事、イエス様に従い尽す事、即ち、キリストオンリー(信仰に生かされるのみ)の生活を出来る人が、どれだけ居るだろうか?キリストオンリー・信仰のみに生かされるとは、人が日常で持つ常識を捨て、或いは二番目、三番目に控えさせ、第一に神様に従う事を指す。詰り信仰に徹すると言う事で、神様とイエス様に一途になってずっと生活出来る人がどれだけ居ようか、となる。
これはクリスチャンにこそ強く問われる事に在り、ノンクリスチャンに於いても、その後に信仰に依り救われる事を思えば、決して他人事ではない。ここで語られる事は、全て自分の生き方(生かされ方)、信仰の持ち方、神様に依って創られた自分の人生の在り方そのものの価値、人本来の理想の在り方である。
イエス様は当時から現代に至る迄、その信仰に於ける模範の在り方(生活の仕方)・理想の人の在り方を、既に何度も教えて下さった。これはその都度信仰に於いてイエス様に聴く際に、変らず何度も教えられる事に在る。この「聴く」とは祈りである。
人の世界では、凡ゆる患難が待ち受けて居る。凡ゆる苦難が待ち受けて居り、その患難・苦難、また平安・平和に於いても、全て人の世界のみの出来事で、限りが有るものだ。「世の終わりが必ず来る」と聖書で語られてある以上、この世のものは全てこの世が終わる迄の有限に在る。「私はすぐに来る」(再臨の事)とイエス様は全ての人に教えた。この事が即ち、世に限りがある事、必ず人の世が終わる事を教え、「すぐに」と在る事から、人は常にその事を覚えておかねばならぬ…となる様に信じる。
パウロはこの時、投獄されて患難を受けると聖霊に依り示されたと伝え、詰り自分が死ぬ事(殺される事)を知って居た。しかしこの「人の死」を恐れず、キリストのみに救いを求め、必ず平穏・平安に救われる事を確信して居る。この信仰に依る強さは、現代人にも同じく言える事。キリストに命を預けて居るのである。これがキリストオンリー(信仰のみ)に生かされる事である。全ての人には寿命があり、必ずこの世を去る。その時に当然不安・恐怖・苦しみが予測され、それまでに似た様な不安・恐怖・苦しみを経験させられた人も在るだろう。この究極に立つ時に、キリストにのみ救いを求め、何が何でもそこに平安を求める内実と姿は、神様に愛され命を吹き込まれ、今目に見える形でこの世に創られた全ての人の内実と姿の本来に在ろう。この事を健康の内から、あるいは苦難に遭う前から、どれほど本気で捉え、感じ、考え、心に変らず留められるかが、クリスチャンだけでなく全ての人にとって大事と成る。
その点で大事は、キリストの真実である信仰に出会い、その途(みち)に歩めるかどうかであろう。聖書は今や世界でベストセラーとされ、知らない人の方が少ないだろうか。詰り、それだけキリストの真実を知る・その真実と出会う機会が誰にでもあり、何時(いつ)・何処からでもその信仰に歩む事が出来る。これを自分にとって第一の大事と捉え、神様に、イエス様に救われる事を人の常識として見、その事にのみ自分の人生の全てを委ねる。これが人間には中々手強いものであり、どうしても人のみの常識に惑わされ、誘われ、その常識に生きようとする人間本来の主観・感覚がそのつど芽生え、信仰から遠ざかる生活・人生を歩もうとする。上記した事を憶え、心に変らず留める上で、この生活(人間のみの価値観で生きようとする生活)を悔い改める事が大事となる。
健康管理は、良き管理者であれ(『ペテロの第一の手紙』第四章一〇節)と言う聖書の御言葉から、神様から与えられた自分の体をも管理し、その上で凡ゆる物事に節制し感謝する上で、良い事であろう。しかし健康管理・保身のみが一番になっては成らず、一番は「キリストの真実に向かい、信仰に生かされ、神様とイエス様と聖霊に依り救われる事」即ち、人が生来持ち合わせた罪から救われる事とせねば成らないのである(神様が全ての人に求める救いが成らないのである)。この様に信じて良かろうか。
人の体は人により繋がれ、自由を奪われるが、神様の御言葉は鎖に繋がれる事無く、永遠にその人の自由を確約し、その人を信仰に依り救うのである。パウロはこの事を、そこに集った人達を始め、今や世界中の全ての人に教えて居るのである。人の鎖ではなく、主に縛られる生活・人生、神様が約束された救いへの生活・人生に捕えられる事が大事に在る。

【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/

【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/

Table Café~

榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw

アーサー先生×バングラさん 出会いのエピソード
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=GPh4QQFTymA&t=1s

ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop

不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)

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