暗転

私は当時、受験を控えているために夜遅くまで塾に残って自習するのが常でした。その日は自習室が閉まるギリギリまで残っており、そこまで来ると私の通う塾の入っている商業施設もほとんどの店が閉まり、既にシャッターを下ろされている階もあって客足はほとんどありませんでした。

私が塾をあとにしていつも利用している自転車置き場にさしかかったとき、強烈な焦燥感が走りました。そう、突如私を凄まじい尿意が襲ったのです。そのとき付近に人気は無かったために、私は人目も気にせず小走りで近くのトイレに駆け込みました。幸いそこのひとつしかない個室に先客はおらず、急いで鍵を閉めてパンツを下ろし便座に座ります。

ああ、間に合った。そう安堵し落ち着いてみると、先程まであんなに痛烈だった尿意が跡形もなく消え失せていたのです。あんなに焦っていたのに、一滴もでそうにありません。

さっきまであんなに辛かったのはなんだったんだ、そう思って私が立ち上がろうとすると、突然トイレの電気が消されました。当然中に光は全くなく、最早自分の手さえも見れません。驚いた私は、中に人がいることに気づかず巡回していた警備員さんか誰かが消したのだろうと考え大声で外にいるであろうその人に呼びかけようとしました。

しかし、声が出ません。声を出そうとしてもパクパクと口が動くだけで声にならないのです。せめてパンツだけでも履きたいと立とうとしますが、何かに肩を抑えられているかのように立ち上がれません。

とうとう本物の怪異に出会ってしまったか、と変に冷静な頭で考えながら真っ暗な中下半身も丸出しのままでいると、男性らしき手が喉元に触れたのを感じました。視界が奪われた中で、自分より暖かくゴツゴツした手が当てられたのです。文字通り一寸先も見えない闇の中で、絶対に先程まで存在しなかった何者かが私に干渉してきている。

 あまりの驚きと恐怖に私が硬直していると、さっきは指先が触れているだけだった手が両手で私の首を優しく包み込むような形になっていました。

手の方向からするにその手の持ち主は私の目の前に立っているはずなのですが、目は少し闇に慣れてきたのにそれらしき人影は視界のどこにもありません。そもそも真っ暗な中何者かの手だけがあるというだけでありえないのに、首というゴリゴリの急所を抑えられている状況なのです。いつ気絶してもおかしくないのにただその手の熱と感触が伝わってきて、頭がおかしくなりそうな気がしていました。

そんな状態で、数秒経ったでしょうか。不意に、首から手が離れました。開放された?そう思ったのも束の間。先程の手が、私の頭を撫でてきたのです。ついさっきまで感じていた吐きそうなほどの緊迫感が薄れ、ついさっきまで首に手をあてがっていたのにどうして頭を撫でるのかという困惑と共に、その時私は安心感まで感じてしまっていました。まだ真っ暗なままで、確実に生きている人間じゃない手がそこにあるというのに。

恐怖と混乱と安堵で私がぐちゃぐちゃになっていると、手は頭を撫でるのをやめて、ゆっくりと下がっていきました。そのまま耳に触れ、頬に触れ、またしても首に両手をあてがいました。
ああまたか、と半ば諦めのような心情でいると突然手が、凄まじい力を込めて私の首を絞めにかかりました。光は無いのに星が見え、あまりの痛さと優しささえ感じていた手に殺意を向けられた恐怖で、思わずうめき声がでました。暗転してすぐには、いくら出そうとしても欠片も絞り出せなかった声がでたのです。

その途端に、何事もなかったかのように明かりがつき、強い力で首を絞めていた手も消えて身動きも取れるようになりました。私はすぐに個室から走り出して、脇目も振らずに自転車を取り出せる限りの速さで家に帰りました。

まっすぐ自室に入りベッドに横になると、私はそのまま寝てしまったようでした。いつもの時間にアラームで目を覚まし、昨日の恐ろしい出来事は夢だったのかとさえ思いました。しかし、鏡をみると私の首には確かに昨日の彼の手の跡があったのです。

その日から、私が自習を早めに切り上げることはなくなりました。あの日の彼に、また出会うことを期待したのです。

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