私たちはSNSから何を得て何を失ったのか

「正義」の暴走について

昨今、このようなトピックについて語られることが多い。前回、兵庫県知事選をテーマに記事を書いたが、書くにあたって、関連するニュース記事を見た。強く感じたのは「正義」の暴走だ。そして、そのトリガーとなったのは間違いなくSNSだと思う。

SNSは社会の何を変えたのか。


SNS時代の特徴を一言で表すならば、次の3つになる。

言葉の軽さ

幼児化

非寛容

少し前、身長170㎝以下は人権がないなどと言ったインフルエンサーの発言が物議を醸した。
従来、このような発言を誰かがしたってニュースにもならなかった。
SNSで収益化できるようになったのが大きいと思っている。
悪目立ちでも、バズればお金が懐に入ってくるようになった。
それまでの、憂さ晴らしの手段としての誹謗中傷からビジネスの道具になってしまった。

身長のくだりぐらいでは大した事なさそうだが、人権と結びつけたことが罪深い。
そもそも人権とはそんなに軽いものではない。
よく考えなくても、一個人が別の誰かを人として認めるかどうかを決めるということが、いかに傲慢で危険なものか分かるだろう。

多分、当人は何の気なく発言したかもしれないが、言葉の持つ重みが失われればこその現象だと思っている。

少々人を傷つけてもセンセーショナルな発信ができればカネになる。
だから、本当に傷ついている人が訴えても売名ではないかと疑う。

内容の真実性よりも、相手を当惑させ、感情を揺さぶることが優先されれば、情報の価値は自分の感情を満足させることだけになっていく。
その感情とは、大抵の場合、怒りや憎しみといった強い感情だ。

ご存知のようにSNS上では誹謗中傷は当たり前に存在している。
では、彼ら彼女らは実際の生活でもそのようなことを言うのか。
多分違う。
実際の生活ではほかの人と同じように普通に仕事や学校に行き、時には電車でお年寄りに席を譲るような人々。ごく普通の善良な人間。
SNSの匿名空間では、そんな普通の人たちを幼児のように振舞わせる。
ちょっとした日常の憂さ晴らしのため、あるいは、自分の思う「正義」の追求のため。

私たちはあまりにも誰かが誹謗中傷に晒されるのに慣れすぎ、ある種の社会規範となっている。そして今度は、それに適応できない人に批判が向かっている。
少しくらいの誹謗中傷に対応できないようではダメだと。
他人を利用し、利益を得ることがスマートなんだから、自分も他人を利用するぐらいでないとダメなんだと。

幼児的な自己中心主義であり、人間の退化を感じる。

利用しあうだけの関係では、他者に信頼感など生まれるはずがない。
SNSが奪ったのは互いの信頼かもしれない。

SNSの世界は、開放的なようで閉鎖的だ。
本来は世界中から様々な意見を聞くことができるが、みんな同じ意見しか聞いていない。そっちの方が居心地がいいし、そもそもSNSに求めているのは異なる意見に触れて自分を相対化することではなく、共感だからだ。
自分がAと思ったものについては、Aと主張する意見しか求めない。
アルゴリズムでAの主張ばかり耳に入ってくるから、異なる意見は邪教の信者のように唾棄すべき存在となる。
一方でBだと思う人は同様にBの主張しか耳に入らないから両者は分かりあうことはない。
オープンであればあるほど殻に閉じこもり、つながればつながるほど分断が深まっていく。

SNSを規制すべきかどうか

SNSのすべてが悪いとは思わない。自分もnoteを使って意見を述べているし、youtubeで趣味の情報もたくさん収集している。
でも、SNSの利点として思いつくのはそれぐらいで、マイナス面の方が圧倒的に大きいように思う。おそらく、何らかの規制はしないといけないレベルになってきているんだろう。
過去の社会が乗り越えてきた飢餓や疫病や圧政などと同じで、現代の人類が解決しないといけない課題かもしれない。大げさではなく、世界中で同じようなことが起こっているからだ。


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