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穴の発見と観察の作法をもっている人に古着を差し出すことは、最良の選択に思える。(作家さんを口説いた理由vol.3)

2024年4月20日(土)〜5月6日(月)、
リニュアールOPENを記念して企画展を開催いたします。

タイトルとステイトメントは、また追って。

まだイントロダクション的な香りを漂わせていたいので、
なんで3人の作家さんにお声がけしたのか?を、一人一人書いていこうと思います。

ここ数ヶ月、ずーっとタイトルとステイトメントを考えているのですが、かなり煮詰まっていて、口説いた理由を書く事がその打開にならんかなーという至極内向きな理由で、タラタラと書き連ねています。

タラタラと感じるのは、口語で書いているからなんですが、その方が〈ちゃんと書かないといけないステイトメント〉へのステップとして、膿を出す的な意味で有効だなと思ったので、この形式にしました。

また、脳内再生の声について、私の声を覚えている人はその声で、知らない人は空閑美帆という30代の女の声を想像しながら、再生してみてください。

さて、前置きが長くなりましたが、
今回は嘉春佳さんにお声がけした理由です。

嘉さんだけ作品の実物を見ないままお声がけしました。
というのも、アーティストである夫がグループ展に参加したときのメンバーに嘉さんがいて、それきっかけで作品を知り、HPやSNSを拝見し、お声がけしてみよう…いや、でも、やっぱり実物を見ていないのに、声をかけるのって超失礼なんじゃないかと、結構ドキドキしながら出展のお誘いをしました。

それでも声をかけたかったのは、嘉さんの作品に眼差す何かが引っかかって。それがなんだろうと思ったからかもしれないです。

こじつけかもしれませんが、誰かの衣服として仕立てられ袖を通される前、汚れもほつれもない頃の布、その布を作っていた祖父たち。(その布を作るための製糸…そのための蚕…とか遡ればいくらでも出来るけど、今はここでストップ)その布を保管する場所としてあった蔵。その機能を読み替えて、ギャラリーに改装したこと。一枚の織物が、仕立てられ、袖を通され何度も何度も、そうして箪笥に仕舞われ、気づけば古着になっていること。その古着が作品となって、ギャラリーになった蔵に戻ってくること。祖父たちが作っていた織物自体が戻ってくることはないと思うけど、でもないとは言いきれないよなーと思うと、単線上に生きていたかのように思えるものが、面となって立ち現れてくる。それって、多分大事なことのような気がする。

てなことを全然言語化出来ないまま夏が過ぎ、作品の実物を見ないと何で声をかけたのかの言葉が見つからない…と思い、作品を見に行くことに。今年は、秋に中之条ビエンナーレと奥能登芸術祭の両方に出展しているとのことだったので、出来れば両方行きたい。で、悩んで結局、奥能登の方に行って来ました。遠かった。でも、行って良かった。やっぱり。

嘉さんの作品は、奥能登芸術祭のアイコン的な作品が並ぶ海沿いではなく、より奥まった山深い廃校(旧上黒丸小中学校)の図書室だった教室に展示されていました。廃校は、山奥のもうちょっと奥のさらに奥まったところにあり、学校の裏に森があるんじゃなくて、森の中に学校がある。廊下の向こうの景色がもう森で、それだけでもう興奮する。自然が人間の癒しのために存在していないこと。ただもう始めからそうあること。
森と少し溶けてるような、でも建物自体がRC構造だからギリギリなんか保ってるような。
作品を見た記憶と共に、作品を見るまでの道すがらやどんな場所にあったのかが、手触りのある記憶として残っていることは、地方で開催される芸術祭の強みだなと改めて思いました。(例えばあいトリや横トリは作品の記憶しか残ってないけど、瀬戸芸に行ったことはその旅含めて覚えてるよな〜とか)

そして、作品。
〈祈りのかたち〉について。
古着を扱っている作家はそれこそ沢山いるけれど、嘉さんは変な味付けを全然していないと思った。古着を単に素材(作品によっては絵具のように扱う作家もいる)として使っていない。言い方はあれだし、そう思う時点で自分終わってるなーと自戒を込めて、地方にレジデンス→そこで暮らす人々の暮らしにまつわる道具(古着だけではなく)を集めて作品化、みたいな流れ作業。ものによるけど、それって現地調達をただしたに過ぎなくて、記号的に地方に生きる人々の生活を表象化して、そんで、何を得るんだろう。確かに現地調達すること自体、大変だろうし街の人の理解がないと出来ないことだけど、その大変な理解の先にそんな雑な現地調達しました!的な無邪気な振る舞いって、それを見る鑑賞者からしたら、それはどうでも良いこと、そうなのね、それはそれはご苦労様でした。で終わる。これって私の感性が終わってるのかな。そうかも。まあいいや。よくないけど。でも、現地調達のその先の何かがないと何か物足りない。だって、その現地調達されて素材として扱われているものって、形は違えど私の日常にも普通にあって、これを読んでくれている人の日常にもあって、それを大量生産された絵具的な扱いで塗り絵をしただけにみえる。それってなんか調達した人や場所に対して失礼じゃないか?と、書きながら、多分、直近でそんな作品を見てしまったから、そう思うだけで、その他多くの作品はそんなことないだろうと思い直す。多分、そんな作品は書類選考の時点で落とされている。

嘉さんも、現地(珠州市)で暮らす人たちから古着を集めて作品化している。集めた時点でその衣類がどういう形で嘉さんの手に渡ったのかわからないけれど、古着は全て綺麗に畳まれ、図書室の中央に均等に配置されていた。私は、それがまだ古着でなかった頃の姿を思い起こした。朝に洗って干して、仕事からあるいは買い物から帰って、よせて、膝の上で畳まれ積まれていった頃のこと。私の目の前にも今まさにそれはあるし(タンスに仕舞うのが面倒で一旦保留しソファに置いてある)、本当に普通の日々のこと。それが、どんな家でも行われていることを思い出す。そうだ。隣の未知。至極当たり前のことを、私は忘れていることが多々あって、例えば幼い頃に母に読んでもらった谷川俊太郎の「どきん」。えらい人も女優さんもみんなうんちをするって一節を読み上げる母の横顔見ながら、母の顔が色んな人の顔に変わってみえた、自分の普通が他のどんなすごい人にとっても普通で、にも起き得る事に驚いた。まだ世界が自分中心に回っていた頃、初めて自分がその周縁の一つなのかもしれないと思えた出来事だった。

畳まれた古着は、着古された過去の遺物として扱われていないようにみえた。確かにそれは珠州の人たちがかつて身につけていた古着ではあるけれど、作品化されているその時だけは古着であることをやめていた。展示が終わり、搬出の折にはきっと古着に戻るのだろう。でも、作家の膝の上で折り畳まれたそれらは、いっそ明日誰かが袖を通す衣類のようで、淡々と流れていく記憶にも記録にも残らない私あるいは誰かが、明日を繰り返し、続けていくために払う労力を労ってくれてるような気さえした。

それから、畳まれた古着の上には、小さな器を形どった古着が宙を浮いていた。宙を浮く小さな器は、教室の中心で大きな器のシルエットを浮かび上がらせ、そう、スイミーを想像すると、イメージしやすいかも。端的に言えば、器は珠州の人たちの祝祭の形であって、それ自体は物語の一つ。嘉さんの作品を見る前にスズ・シアター・ミュージアムで、珠州市内で収集した大量(多分想像よりずっと沢山)の器、それ以外の生活雑貨、祭事や漁具として使われていた民具、その圧倒的物量に脳がイカれてしまう感覚がして、その後、見て回った作品に物足りなさを覚えるものもあった中で、ちゃんとガツンと頭に響く量の器が浮いていた。何だろう。当たり前なんだろうけど、ちゃんとやりきったであろうものを見た時の嬉しさ。足元のきちんとと頭上のガツンとが、同じ力でぶつかっている。

図書室の隣には、嘉さんが会期前に珠州の人と行ったワークショップの記録と作品が陳列されていた。
珠州に昔から住む人も最近移住してきた人も皆、図書室に浮いていた器と同じ形のものを作っていた。
参加者が作った器の隣には、本人の書いたその古着にまつわる思い出が記されていて、一つ一つ読んでいくと、笑えたり、泣けたり。そうか、あの浮いている器にも、もちろん折り畳まれた古着にも、こうやって一つ一つ物語がちゃんと存在していたんだと気づく。布を作っていた祖父たちは、それをどこまで想像していたのだろう。同時にそんな事も考えていた。もう一度、図書室にもどり、器の一つ一つをじっくりと眺める。足元にある古着も。そうして、ステイトメントに書いてあった言葉がじっくりと身に沁みる。作品と言葉は別物だから(作品は未規定なものを示すが、言葉は言語化された時点で規定される)、隣合った作品と言葉には、何のこっちゃと突っ込みを入れたくなる。嘉さんの作品のステイトメントも初めに読んだ時は何のことだかよくわからなくて、器?口?象徴?はて?って言葉がバラバラに入って混乱したけど、作品を見て、ワークショップの記録を見て、もう一度作品を見て、ステイトメントを読んで、やっとストンと腹落ちした。や、これは単に私の読解力がないからだと思うけど。

ちなみにステイトメントは、下記URLから読めます。良かったらどうぞ。

https://www.oku-noto.jp/ja/artist_yoshi.html


そうして、最初の疑問(嘉さんの作品に眼差す何かが引っかかって)に戻る。
嘉さんが言うように、古着には着ていた人の記憶や生活の痕跡が残っているのかもしれない。私は残っていると思っているから、新品ではなく古着を好んで着る。あわよくば、その服を着た誰かと私が、見知らぬ街の蚤の市の古写真の入ったバスケットの中で出会いますようにと願う。かつてあなたがそれを選んだように、私もそれを最高に良いと思ったのって、見知らぬ誰かに話しかけるような気持ちで袖を通す。

記憶や生活の痕跡は分かりやすくシミや褪色として残っているものもあれば、見えもしないし、聞こえもしない、触れもしないものもある。見えなければ、聞こえなければ、それはないことになるの?
感度が鈍って、ないと錯覚しているだけ、ない方が生きるのに都合がいいからそう振る舞っているだけ、そうかもしれない。実家のトイレ(仏間の奥にあって、曽祖父母たちの油絵が見つめてくる)が最近怖くなくなったのは、本当に鈍感になった証拠の気がして、そんな自分に幻滅する。

五感で感じ得ないものがそこにあると思える感受性を、古着を媒介にして嘉さんは掬い上げようとしているのかもしれない。いや、感受性なのか?
感じ得ないものがある状態を、穴のある状態だと仮定してみよう。五感の鈍った人間からしたら穴だと思ってしまうが、そうではない人からしたらそこは穴ではない。そこに穴はないと言い切る人、わたしは全て見え、聞こえるという人はいるのか?それは神様?スピってる。教祖みたいな感じか。ひゃー。
つまり、そこに穴はあるけど、穴の存在に気づかない人と、穴の存在に気づいている人と、穴は始めからないと言い切る人がいる。嘉さんがどの位置に立つ人かは本人の認識によるから分からないけれど、私には穴の存在に気づいている人に思える。古着を媒介にして、穴の中に落ちている言葉(記憶)を当事者に聞くことで、穴の大きさや形を仮定しようとしているのかもしれない。作品やワークショップで提示されていた器とそれにまつわる記憶の記述は、その実践なのかもしれない。
先に書いたように、変な味付けをしていないと思ったのは、穴を埋める作業をしていないと思ったからなのかもしれない。
穴を感じて埋めるのではなく、その穴を見つけ観察すること。穴の発見と観察の作法をもっていること。その作法をもっている人に古着を差し出すことは、最良の選択のように思える。

私は、差し出した側に生まれるものが何か知りたい。企画展で展示をしてもらうことは差し出された側に立つことでもある。最良の選択だと思われる振る舞いを、どうしたら出来るのだろう。

それもこれもやってみないとわからない。とはいえ、わからないと匙を投げずに真面目におおらかに。

ここは、一枚の布をつくることから始まっている。その布が仕立てられ、袖を通され、古着になってしまった時を同じくして、織るための生糸や当時働いていた多くの従業員の食糧を貯蔵していた蔵の機能は、地方ごった煮系ギャラリーに読み替えられた。

嘉さんの作品に、ここが織屋であった頃の記憶を勝手にあてはめている。もちろん、出展予定の作品は、私のあてはめとは別のところから発生する。そうあるべきだし、そうしてほしい。でも、この場所がかつて織屋であった事実が通低音として、聞こえないくらいの小さな音で鳴っていたら、と思って企画をしている。

ああそうだ。奥能登で嘉さんの作品を見て、始めに思ったことがある。私の服も、3歳を迎えた娘の着れなくなった服たちも、その最果てがここであったらいいのになあと。

おしまい。

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嘉 春佳  Haruka Yoshi
@radiotaiso_1

・・・
1996年茨城県生まれ。筑波大学芸術専門学群総合造形領域卒業。東京藝術大学先端芸術表現科修了。記録に残らず消えていく自分や他者の日常的な時間や記憶を形にすることを考え、主に古着を用いて制作している。縫う・編むといった手仕事が、かつては衣服の修繕や道具を拵えるための術であり、暮らしを継続させること・ものを残していくことと深く結びついていたという点に着目し、古着を収集し、手仕事によって再構成する方法での制作を行う。


【個展】
2020年
「ある日のことを呼ぶ」ビエントアーツギャラリー(群馬)
2018年
「脈が生まれる場所」スタジオ’S(茨城)
2017年
「Someone I’ll Never Know」スウェーデン王立美術大学(ストックホルム)

【グループ展】
2023年
「奥能登国際芸術祭」旧上黒丸小中学校(石川)
「中之条ビエンナーレ」伊参スタジオ(群馬)
2022年
「テラスアート」テラスモール湘南(神奈川)
2021年
「中之条ビエンナーレ」やませ(群馬)
「SHIBUYA STYLE vol.15」西武渋谷(東京)
2020年
「Denchu Lab. 2019」旧平櫛田中邸(東京)

【受賞】
2023年
「アートギャラリーホーム展」入選 チャームプレミア御殿山 参番館(東京)
2018年
「NIIGATA オフィス・アート・ストリート」優秀賞 ゆうちょ銀行新潟中店(新潟)
「新鋭作家展」入選 川口市立アートギャラリー・アトリア(埼玉)
「みなとメディアミュージアム」まちづくり3710実行委員会賞 ブリアン(茨城)

【ワークショップ】
2022年
「テラスアート」テラスモール湘南(神奈川)
2017年
「アーティスト・イン・ホスピタル」筑波大学附属病院(茨城)

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ツインギャラリー蔵 / リニューアルOPEN展示
植田 佳奈 夏目 とも子 嘉 春佳

-日程-
2024年4月20日(土)〜5月6日(月)

-時間-
11:00~17:00

-closed-
火・水 / 4/23、24、30、5/1

-会場-
ツインギャラリー蔵
静岡県浜松市西区入野町1104

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植田佳奈
@uedakana_

夏目とも子
@tomoko_natsume

嘉春佳
@radiotaiso_1

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●関連イベント●
壁プロジェクト - 夏目とも子
4/20(土)〜5/6(月)
・・・
表面の白い層を削ると、幾重にも塗られた色層が現れる。
彫る手の力加減によって深さが変わり、思いもしない色が生まれ、来場者一人一人の線が静かに繋がり、それは半永久的に目に見えない形でギャラリーを内側から包み続ける。

レセプションパーティー
4/20(土) 15:00〜予定

作家さんとお茶飲み会
在廊日(決まり次第)

さしすせそ文庫
参加作家さんによる選書
(本・絵本・漫画・雑誌・映画・音楽)
・・・
作品について深く知ってもらうため=知識の補強ではなく、目の前にある作品が、どこからどうやって来たのか考えるための取り組み。

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