【当日レポート】11月4日《得体の知れない箱を動かしてみる》
11/4に試演しました《得体の知れない箱を動かしてみる》は、おかげさまで無事に終えられました。以下、12/7(土)に上演される《得体の知れない箱で都市を過ごす》に参加してみるかを迷っている方へ向けて、大まかに「得体が知れる」よう、11/4のレポートをお送りします。
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まずは集合場所であるfloatに集まった参加者の方々に、物理的な制約の話ーーどのルートを通るか、どのような条件で所轄の警察署からの道路使用許可を得ているか、などーーを共有しました。この話、作品にとってはどうでも良さそうですが、このすみだという「まちの条件」を読み解く上で、とても大事な手掛かりとなるのです。例えば、箱を多数で動かす際に、「なぜその隊列にする必要があるのか」は、その街の構造や歴史など、すみだにおける事象と関わっているからです。
その上で、作品のコンセプトーー現代日本の宗教観や祈りを、あえて演じ直してみること。その「演じ直す」という客観的行為を通じて、どう宗教観や祈りの異なる他者へと想像を拡げられるかーーということをお話ししました。 「現代日本の宗教観や祈り」と聞くと、ギョッとし、嫌悪感を持つ方もいるかもしれません。でも、年始には多くの人が初詣へ行くし、誰かが亡くなれば仏教式の葬式を執り行う人が多いし、12/24には「クリスマスイブだ!」とお祝いもするし。日本では多様な宗教を(表面的にでも)日常に取り入れ、親しんでいるようにも思えます。その一方で、オウム真理教事件や、統一教会の問題など、宗教に端を発する事象は継続的に起きています。また世界に目を転じれば、宗教観の違いを根底にした争いや分断は絶えません。そこで、まずは自身の無意識的な宗教観や祈りを「演じ直す」ことで意識化し、そこを起点に他者の宗教観や祈りへと想像力を向けてみるーー。《得体の知れない箱で都市を過ごす》は、そんなことを目的としたプロジェクトです。
(当日ここまで丁寧に話していませんでしたが、まあ)そんな話をした後、みなさんに白い箱を実際に見ていただき、「これからみなさんと大事に運ぶこの白い箱の中になにが入っているのか? それぞれに想像して考えてください。また、その中身に馳せる想いは他の参加者と合わせる必要はありませんし、後で他の人と共有することもありません」と伝えました。時間を取って、それぞれにこの箱に込める願い=祈りを考えてもらい、加えて、箱の進行を緊急に停止する場合に備えて、その合言葉を参加者から募り、多数決で「ファー」に決まりました。
いよいよ出発です。まずはfloatから400メートルほどの距離に位置するキャンパスコモンすみだを目指します。「傾いてるよ!」とか「止まって!」など、ことばを掛け合いながら、車の行き交う通りを抜けて、細い道に入り、15分ほどで到着できました。キャンパスコモンすみだで、実際に箱を押してみての感想を共有しました。
・天井部の白い幌は、なんか意味が出てしまうので外した方が良い。→これは外しました。
・前方と後方に交通整理をする人員が必要で、かつ誘導員が持っている赤い棒みたいなのがあったほうがよい。
・ていうか、そもそももっと人が必要。
・法被のような、参加者に共通する持ち物があると良いのではないか?
・道路使用許可証も得ているし、もっと堂々と車道を歩いた方が良い。
・途中ですれ違う人や自転車にどう接するのか?
その後、このプロジェクトの囃子方・宮内康乃さんによるワークショップを通じて、押す際の掛け声や、「傾いてるよ!」とか「止まって!」といった具体的なことばではない、参加者間で通じることば掛けを実際に白い箱を押しながら探しました。結果、止まる時は「ドウ」。進むときは「イヨーウ」。右に旋回するときは「アノサ」。左に旋回するときは「コレサ」。また進む際には息をゆっくりと音を出して吐く「スー」という音を暫定的に決まりました(ちなみに、12/7にはこれら掛け声は変わるかと思います)。そうして、またfloatに向けて、白い箱を押して歩き出しました。往復1キロも歩いていないのに、(ぼく含め)みなさん疲れた様子でしたが、無事にfloatにたどり着き、改めて意見交換をしました。
・騒がしい道路に対し、静かな住宅街もあるので、場所に合わせて掛け声を変えると良いのかも。
・「スー」と息を吐きながら音を発てる行為は、集中力が高まり、ゆっくりと歩くことにもつながるが、とても疲れる。
・「箱を山車や神輿に見立てて運ぶこと」や「固有の掛け声を出すこと」など、敢えて日本に伝わってきた儀式的な身体を演じ直しているという点を、もっときちんと共有し、参加者の意識付けが図れれば、もっと自由にこの作品を遊べるようになるのでは?
といった意見が出ました。
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冒頭に綴った作品コンセプトに、『自身の内なる無意識的な宗教観や祈りを「演じ直す」ことで意識化』を図る、とありましたが、実は意外なほどに、我々は日々祈ったり、また誰かの祈りに接しています。たとえば、仕事。誰かの状況が少しでも改善されるよう、仕事を通じて無意識的に願い/祈っている。たとえば、タクシーの運転手さんだったら、乗ってきた人を「無事に目的地まで届けたい」と思う。それだって願いであり、祈りです。仕事を通じて誰かのために願い/祈ることは、どんな仕事にも通底する思考かと思います。もしも自身の仕事に生じる他者への願いや祈りが皆無なら、それは誰かに強制されてやらされている労働なのではないかと、個人的にはむしろ心配です。
そして、今度は前近代まで遡って宗教観や祈りを考えてみると、村落単位で生活が成り立っていた時代ならば、川が氾濫しないよう、米の収穫が無事にできるよう、その村が置かれた自然環境や生業に応じて、願いや祈りはコミュニティ内で比較的統一しやすかったように思えます。一方で、現代は個々人が抱く多様な願いや祈りが交錯し、ぶつかり合う時代となったように思えます。電車や飛行機などを用いて移動は容易くなり、そうした科学の進展に応じて職業や住処は多様化するなど、願いや祈りは村落社会から個々人に委ねられて細分化し、価値観も多様化しました。だからこそ、常識とされる共通概念は薄れ、他者との軋轢も生じやすくなっているのではないでしょうか? ただ、どれだけ祈りや願いが個人化し、細分化しても、我々は社会に生きていることは間違いない。そんなことをミニマムに実感してもらえる《得体の知れない箱で都市を過ごす》という上演になるのではないかなと思っています。たぶん。
2024年11月18日
武田 力