寳幢寺一門「仏教徒」「在家修行者」について
寳幢寺一門では、多くの人に我々が提唱する「即の仏教」に触れて頂き、社会に活かしてもらうことを目的に、あらためて「仏教徒」「在家修行者」と言う概念を提唱しています。
我々の定義する「仏教徒」「在家修行者」は、全人生を仏道に捧げる「出家者」と違い、普通の社会人として生活しながら、仏教の学習・修行・実践を志す人を言います。
出家者とは
原始仏教・上座部仏教は徹底した「出家主義」を採っていますが、これでは出家者以外ができることはごく僅かな領域に限られ、出家修行ができない人は原則的に「仏教の正しい実践」は不可能という事になっています。
そのかわり、上座部仏教では極めて簡単に出家・還俗の行き来ができるシステムがあります。出家したくなったら基本的に誰でもすぐにできますし、修行の環境も整っている。そしていつでも在家社会に帰って来ることもできる。この意味で、誰にでも門戸は開かれていると言うことできます。
大乗仏教では本来、このような「出家主義」は採用せず、出家は専門家・教師としての役割を担うものの、本質的に「出家・在家」の区分による修行の質の違いは想定されていなかったはずです。
特に密教は「出家・在家」というかたち上の区分よりも、実際に教えの伝授がなされる「師弟関係」を重視する為、出家も在家も関わりなく「誰から学び、何を実践するか」が重視されたはずのものでした。
しかし、実際に指導を行うのは出家者ですし、上座部以来の伝統・イメージの問題もあって、大乗仏教圏においてもやはり「出家至上主義」のような文化は残り続けています。さらに悪いことに中国文化の影響で「出家とは相当の覚悟を決めて一生涯を捧げること」という雰囲気ができていますので、出家者がある種の「特権階級」として閉鎖されるという事象が起きています。
特に日本仏教ではこれが顕著で、そもそも日本において仏教は「思想哲学」としてよりも「宗教儀礼」として受け入れられた側面が強い為、本来教師的役割であるべき僧侶が「儀式の執行者」という特殊職能者となっていったという事実があります。
さらに寺院の世襲がおこなわれ、親から子へと、家系血筋で継承されるのがスタンダードになってしまっていますので「日本仏教」の閉鎖性は非常に強固なものになっていると感じます。
もちろん、本当の専門家、人生を仏道に全投入する(しているはず)の出家と、そうではない在家の区別は明確にあるべきです。
近年、芸能人などで時々「修行をして僧籍をとった」「出家した」等という事を仰る方を見受けますが、我々はこのようなことには大きな違和感を感じます。
おそらく各宗派の本山さまが認めておられることでしょうから、敢えて口を挟む必要もないかも知れませんが、海外も含めた仏教全体の常識的な考え方からすると、違和感しかありません。
「出家した」という方が有髪・俗服で、在家と同じような生活をなさっておられるのを見るにつけ「この人々にとって僧侶であるということ」はどういう意味なんだろう?と首をかしげざるを得ません。
「出家」とは「生き方・あり方」であって職業ではありません。「兼業」のような考え方は本来あり得ないことです。残念ながら日本では僧侶という存在が「職業・技能・資格の一種」と見なされているのでしょう。
仏教徒とは
さて「仏教徒」とは何でしょうか?
家にお仏壇や位牌があれば仏教徒でしょうか?寺にお墓があれば仏教徒でしょうか?
私たちの定義では、そのようなあり方は「仏教徒」とはいえないと考えます。論理的、そして国際的な定義では「三帰戒」という戒律を授かり、仏教哲学を身につけて、仏教の考え方を以て社会に生きようとする人が「仏教徒」です。
そう言うと「うわ、シューキョーに入信させられるんだ」等と思ったでしょうか?しかし少なくとも、寳幢寺一門では仏教を「いわゆる宗教」とは考えません。
たとえば、健康を増進したいので、それには身体を鍛えることが良いと思い、身体を鍛えるために、ある人の勧めで、たとえば「○×水泳教室」に通うことにしたとしましょう。それは普通「○×水泳教に入信した!キモチワルー」とはならないでしょう?
我々は仏教も同じ事だと考えています。
心の健康を増進したい、その為には精神的な技法による鍛錬をするのが良い、その為に仏教という体系がある、それを良しと思うので、その専門家に教えてもらう。
水泳教室に通うのと何が違うというのでしょう。
保健衛生を学び、身体の健康を維持増進しようと言うのはごく普通のことです。小学校でも保健体育が教えられます、フィットネス業界は大繁盛です、国連でも保健衛生の問題はしょっちゅう議論に上がっています。これは大変結構なことです。素晴らしいことです。
しかし人間は身体だけで生きているのでしょうか?精神の問題、心の保健衛生を誰も言わないのは何故なのでしょうか?身体は健康でも心が病んでいては、その人は真に健康で幸せと言えるのでしょうか?国連でも各国でも、身体の保健衛生には膨大な予算が付いています、でも何故、心の問題には無関心でいるのでしょうか?古来より仏教が説いてきたのは、まさにこの問題なのです。
もちろん、日本にも世界にも、様々な悪質なカルト宗教がはびこっています。これらに対する防衛反応として、宗教的なもの、精神の領域に属するあれこれについて、否定的な反応を示すのはある意味健全だとは思います。
高価なツボを買えば幸せになれるとか、悪霊がわるさをしているからお祓いをせねばならぬとか、教祖さまの言うとおりにすれば全て上手くいくとか。これらはまさに「不健全な精神」そのものですね。
仏教は本来、極めて冷静、理知的な世界観であって現代科学的と言って良い思想の体系です。いわゆる「カミ」のような超越した存在を信じ、神の教えとしてのドグマを受け入れよ、自分自身の外に自分の心を預けなさい等という「いわゆる宗教」とは全く異なるものです。
寳幢寺では、仏教はいわば「心のフィットネス」「心の医学」そして何より「生き方の指針」であると考えます。これを学び、実践し、教えてあげられる人が増えればどんなに良いことかと考えています。
その取り組み方は、まさに水泳教室などと同じように「ちょっとやってみようかな」からはじまって「先生になりたい、インストラクター資格とりたい」や「学術的に水泳を研究したい」まで、様々なモチベーションと実践があると思います。
「ちょっと仏教に興味がある人」と「きちんと仏教の修行をしたい人」と「僧侶として人生を賭けたい人」それぞれ各自に適したあり方があると考えます。
在家修行者
一般の「仏教徒」から歩を進めて、真摯に仏道に向き合いたい。さらに専門的な知識を身につけ、それなりの強度で修行に取り組みたい。という方には「在家修行者」という道があり得ます。
在家の修行者はあくまで「在家」ですから、自分自身の社会生活が最優先なのは言うまでもありません。しかし、自発的に修行者であろうという以上はそれなりの覚悟と実践が求められます。
特に寳幢寺一門は密教を主としますので、師との関係性が重要となってきます。
寳幢寺一門の仏教徒となるための条件
が基本的な条件になります。これ以外にも面談で諸条件の摺り合わせを行います。
寳幢寺一門の在家修行者となるための条件
が求められます。これも実際に面談を通じて諸条件の摺り合わせを行います。
仏教徒や在家修行者となるのに特に費用は必要ありません。必要となる物品も特にはありません。
義務について
ただ、仏教徒である以上、基本中の基本である「六波羅蜜」の修行は積極的に行っていただくことになります。
六波羅蜜とは「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の六つについて、これらを意識した日常生活を心がけると言うことで
を意味します。
特に、世界的に見ても在家者にとって、最も簡単でかつ必須とされるのが「布施」の実践です。
布施とは無理してお金を払うことではなく、自分に「余剰」を見いだして、それを使って世界を良くしていこうという行為です。自分の力を自分のためだけに使おうというのは仏教徒の心ではありません。
また、寳幢寺は完全に在家社会からの「布施」だけで必要経費をまかなうことをポリシーとしています。現在も、この寳幢寺に意味がある、必要があると思っていただける方からの布施によって運営がなされています。
故に、寳幢寺で仏教徒・在家修行者になっていただく方々に対し、六波羅蜜の修行、執着を手放すための修行として「布施」することを義務としています。
最低金額は毎月¥1,000からです。それも難しい方はご相談下さい、布施は金銭に限ったものではありません。なにか、できることを探してやるのが本義です。
寳幢寺としてはできるだけ多くの方に門戸を開きたいと考えていますが、当然ながら「だれでも、どんな状況でも」と言うわけにはいきません。双方の状況に即しながらとなりますので、まずはご興味があればお問い合わせ頂けますようお願いいたします。
お問い合わせは協会ウェブサイトよりお願いします。
記事:日本仏教徒協会 事務局
協会へのご寄付はこちらから受け付けています。